1.原点回帰
「駄目だよ、秀吉」
友の声が、静かに秀吉の耳を打った。町衆との会合を終えて、岐路に着こうとしていたところだった。振り返ることが出来ず、それでも足だけが秀吉を止める。握り締める拳の強さに、もしかしたら気づかれていたのかもしれないと、今更ながらに思う。この親友は聡いのだから。駄目だよ、と再度半兵衛の声が秀吉を戒める。
「・・・何がだ、半兵衛」
「これから君がしようとしていることだよ。後悔するのは目に見えている」
「我が一体何をしようというのだ」
「そう。それなら言おうか」
ふう、と吐き出された溜息を背中で聞いた。
「秀吉、君はこれから妻であるねね君を亡き者にしようと考えている。違うかい?」
どん、と心臓を直に殴られたような衝撃があった。心中を言い当てられ、立ち尽くすしかない秀吉に、軽い足音が背後から近づいてくる。隣に並ぶ気配がする。それでも秀吉には、半兵衛を振り返ることが出来なかった。それを知ってか知らずか、半兵衛は秀吉を追い越して前に出た。同じ男でありながらも華奢な背中だ。戦装束ではなく、青紫の羽織が風を含んで裾を広げる。ゆっくりと振り返る顔は仮面を纏っておらず、見る人を震えさせる美貌を露わに、半兵衛はまっすぐに見上げてきた。そこで秀吉はふと気づく。こやつが我の前に立つのは初めてかもしれぬ、と。立ちはだかるのではない。これは制止だ。そう思い、秀吉は半兵衛の本気を知る。
「・・・弱き心を残せば、いずれ狙われる」
「大切なものを守る強さもなくて、日ノ本を強く出来ると思うのかい?」
「・・・起つために、甘えはいらぬ」
「気を張ってばかりでは、いつか倒れるのが目に見えているよ」
「・・・半兵衛。もう言ってくれるな」
「何度でも言うよ。僕は君の軍師である前に、友だからね。甘いことばかり言わないよ」
伸びてくる手を、秀吉は無意識の内に奥歯を噛み締めながら眺めていた。骨ばって細く、青い血管が透き通って浮き出ている手のひらが、そっと秀吉の拳に触れた。一回りも二回りも厚さが違うのに、今はどうしてか逆らえず、されるがままになっている。固く握り締め、岩のようになっていた指の間に、そっと半兵衛のそれが絡み込む。時間をかけて開かれた掌を両手で包まれ、少しでも力を籠めれば振り払えるというのに、秀吉にはそれすら成すことが出来ない。今から自身の妻を殺しに行こうと思っていたのに、そんなことすら。
「ほら、震えている」
優しい声に、微笑みに、温もりに、秀吉の身体が揺れる。顔を上げた半兵衛はやはり静かに笑んでおり、己の心が強張るのを感じた。固まり過ぎた想いが不格好に宙に浮く。
「まずは君の、いずれ日ノ本を統べる豊臣軍の、軍師として言おう。着いてゆくべき主君が過去に妻を己の手で葬っていたと知ったら、それはやはり気持ちの良いものではないよ。もちろん強く在るためにと、理解を示してくれる者もいるだろう。けれど疑心を抱かれるような原因を、自ら進んで作り出すことはない」
半兵衛の言葉は、叱責ではない。理解と納得を促し、そして秀吉の心を溶かそうとするものだ。強くなければ。弱きを殺さねば。松永久秀の爆発を背景に知った己の無力さが蘇る。だが、半兵衛。呟いた秀吉を、友は微笑みひとつで堰き止めた。
「そして友として言うのなら、ねね君を殺したら、秀吉は間違いなく後悔する。悲哀に暮れ、それでも日ノ本のために起とうとする君に、もちろん僕は着いていくけれど、友に少しでも幸せでいてほしいと願う気持ちは間違っているかな? 秀吉、これから君は戦火に身を投じることになる。傷ついてばかりじゃ人は戦えないよ。癒し、心を預けることの出来る存在が必要だ。覇王の道を往くというのなら、尚更」
そうだろう、と柔らかな声が秀吉の耳からゆっくりと身体中に染みわたっていく。強く固めた心を包み込み、溶かしていく思いに、いつしか秀吉は奥歯を噛み締めることを止めていた。代わりに眉間に皺が深く刻まれる。眉を下げたそれは情けない、偉丈夫には不釣り合いな表情だ。心配しなくていいと、半兵衛は励ましてくれる。
「僕は軍師だ。ねね君のことも含めた策を練るよ。彼女だってただのお嬢さんじゃない。豊臣秀吉という男に惚れた、大きな器を持つ女性だ。戦にゆく君を見送り、そして戻る君を温かく迎えてくれるだろう」
「半兵衛・・・」
「怖がることはないよ、秀吉。君が脅えることなんて、この世にただ一つも存在しない」
身体中が震える。脅える。それでいいのだと半兵衛は言う。切り捨てて強く在らねば。せっかく道筋を定めたというのに、半兵衛がそれに否を唱えるというのだ。一番の理解者だと思っていたのに。否、一番の理解者だからこそか。今度は違う思いを持って奥歯を噛み締め、秀吉はきつく目を瞑った。奥から溢れ出て来ようとする熱いものを堪えれば堪えるほど、その大きな背が丸まっていく。ついにその額は半兵衛の肩へと載せられてしまった。華奢だ華奢だと思っていたその肩は、驚くほど逞しく秀吉を支えてくれる。
「君の刀が僕、そして盾がねね君だ。誇っていいんだよ、秀吉。その優しさは君の魅力だ」
耳元で、半兵衛が笑った。ぽんぽん、と背中を叩いてあやされる。
「弱さを抱く君だからこそ、僕らはずっと愛しているよ」
言葉は声にならず、喉で呻きとなるだけだった。ついに滲んだ目頭に、羽織が濡れていくことに気づいただろうに、半兵衛は何も言わない。ただずっと秀吉の背を宥め続ける。強く在るためには、弱さを切り捨てなければいけないのだと思った。弱みなどあってはいけないのだと思った。それでも、それすら含んで立ち上がれたのなら、きっと。
半兵衛が秀吉の背を押す。しばらくの後、顔を上げて情けなく笑った秀吉に、友は明るく微笑み返してくれた。
ねね生存=慶次ルートの消滅。
2012年6月17日