援軍
咳き込めば、容易く上着が真っ赤に染まる。いっそ花でも咲いたかのような、それでいて禍々しい鈍色に半兵衛はひとり笑った。立ち上がることは出来る。歩くことも可能だ。手のひらを握り込む。放す。握り込む。放す。握力は意識外のものだが、今のそれはきっと生涯で数えるほどに強いものだという確信がある。足袋を履き、最後に慣れ親しんだ紫の仮面をつけて半兵衛は部屋を出た。時は夕焼け。まもなく夜がやってくる。東の空から染まる藍色と共に、見えないはずの戦場が見える。今行くよ。呟きは微笑みさえ浮かばせた。
「竹中様・・・!?」
「ど、どうかお部屋にお戻りください!」
「邪魔だよ。どきたまえ」
縋り付いてくる家臣たちを蹴散らして進む。誰か、誰か、と走っていく女中たちさえ今は気にしない。ごほ、と喉が競りあがればまたしても衣服が赤く染まる。家臣たちが悲鳴を挙げて泣きながら懇願する。お願いです、部屋に戻ってください。お願いいたします。あなたは豊臣に必要な方なのです。訴えに半兵衛は唇を吊り上げた。すでにこの錆びれた味さえ懐かしい。
「―――竹中殿」
曲がり角から現れたのは暫時の仲間だ。否、仲間だと思ったことなど毛頭無い。赤は赤でも炎のそれをまとい、相対する目は生命力に輝いている。唇の端から血を零し、そんな己を自覚しながらも半兵衛は拭わない。幸村の眉が更に顰められた。幼い、そんなことを思う。
「やぁ。世話になったね」
「・・・・・・どこへ行かれるおつもりか」
「決まっているだろう? 秀吉のところだよ」
「それでは、行かせるわけにはいかぬ。これは他ならぬ豊臣殿の頼みでござる」
「君がそれを言うのかい? 武田信玄の一の家臣を名乗っている君が?」
ふ、と唇はいつだって笑みを象ってきた。いつからか愛想笑いばかりが得意になり、仮面を被ることで一層その傾向は増した。それでも嬉しいときはいつだって心から笑ってきたし、誇らしいときは照れさえしてきた。ただ、それを共にする相手が極端に少なかっただけの話だ。西の空が燃えている。
「僕は豊臣の軍師だ。策を弄し、敵を嵌めてこそ、その存在意義を発揮する。布団で寝ているだけなら誰だって出来るだろう? だけど、僕は豊臣の軍師だ」
「休まれることが、他ならぬ豊臣殿の願いであってもか?」
「君は武田信玄に寝ていろと言われれば、素直におとなしく寝ているのかい? 主君が戦場に立っていると分かっていながら夢を見ていられるのかい? のうのうと布団に身を横たえて、武器を手放していられるのかい?」
「っ・・・竹中殿は病に侵されている身! 次の戦のために仲間を信じ、療養されることも必要でござる!」
「馬鹿だね。僕に次なんて無いよ」
ゆっくりと腕を持ち上げる。手首の先、幸村の顔が蒼白に染まる。恐怖を知らぬ顔だ。死は一瞬だと信じているのだろう。蝕まれていく己など、考えたこともないに違いない。綴る半兵衛の舌は、もう血以外の色は見えない。
「細い腕だろう?」
まるで年端もいかない、いたいけな少女のようだ。少女の方がまだましだろうに。
「元来、僕には何もない。君のような力も速さも、勢いも持久力もない。あるのは頭脳だけで、本来ならば戦場になんて立てない人種さ。机に向かって策を立て、献上するだけのしがない歯車。その僕をここまで高めてくれたのが、他ならぬ病魔だった」
「・・・っ・・・」
「命の期限が分かった。だからこそ僕は、そのときまでに全力を尽くし続ければいいのだと、己を配分することが出来た。費やして初めて武器を握り、戦場を駆けることが出来ている。これはすべて、他ならぬ病のおかげだよ。僕は死に追いかけられているからこそ強くなることが出来た。病は僕の味方だった」
東から夜が来る。争いは未だ続いているだろう。力押しの秀吉に、柔を加えるのが自分の役目。誇りに思っている。彼に懸けたのだ。誰でもない、自分自身の誇りのために命を費やすと決めたのだ。竹中半兵衛が竹中半兵衛であるために。高らかに笑って死ぬために、病すら味方にして、鮮烈な光を遺すために。吐いた血は、すべて花。
「そこを退きたまえ、幸村君。僕は軍師だ。秀吉の役に立つために使ってきたこの命、最期までその役目を全うさせてくれ」
そのために僕は、死と付き合ってきたのだから。微笑む半兵衛の衣服が紅に染まる。もはやどこにも白は見えない。味方が彼を食い尽くすのだ。きっと最期の一瞬まで、美しい花を咲かせながら。
病が僕を強くした。
2009年8月4日(2009年9月12日再録)