ねねが愛を得て、秀吉が心を殺し、慶次が永遠を刻み込まれた、あの日。
半兵衛もまた、密やかに心を殺した。
愛してるとは絶対に言わないで欲しいよ、君の口からだけは聞きたくない
半兵衛は着物を好まない。動きやすい小紋ならまだしも、正装の振袖などは以ての外だ。何十着と有しているし、折に触れて周囲から贈られることでその数は増してもいるけれど、半兵衛が好き好んでそれらを身に纏うことはなかった。戦場に出るのに着物は邪魔でしかない。誰が飾りでしかない長い袖や、僅かしか開けない歩幅で戦いに向かいたがるだろうか。半兵衛は着物を好まない。戦場に立つ彼女は、いつだって洋装に身を包んだ。白に紫を合わせた西洋の衣服は酷く半兵衛に似合ったし、細い肢体をしかと包み込み、纏わりついて足を引っ張ることもなく高い跳躍さえ可能にしてくれる。加えて素顔を隠すために着けている仮面にも合うのだ。半兵衛は洋装が好きだった。そして着物を好まなかった。彼女はいつだって、ひとりで立ち、戦うために、己にとって最良の選択をすることを厭わなかった。そこに情は必要ない。
「・・・・・・半兵衛?」
本来大阪では聞くはずのない声に、反射的に足を止めてしまった。止めてしまったからには振り向かないわけにもいかない。何より声は問いかけの形をとっているくせに、半分以上を確信で占めていたからだ。自分の容姿の艶やかさを、一目見たら違うことのない印象を認識しているからこそ、半兵衛は手の中の包みを持ち直しながら背後を向いた。大阪の通りに、本来ならばいるはずのない偉丈夫がいる。見慣れたと言ってもいい過去が有り、そして言えない昨今がある。慶次は目を丸くして、呆然と通りに立ち尽くしていた。理由が分かるからこそ馬鹿馬鹿しい、と半兵衛は眉を顰める。随分と久方振りに仮面を外した視界は、やけに明るく見える気がする。
「人を指差さないでくれるかな、慶次君。失礼にも程があるよ」
「あ、あぁ、悪い」
「大体、どうして君が大阪にいるんだい? 用事がないならさっさと立ち去ってもらいたいね」
ここは秀吉の土地だから。辛辣な言葉は続けない。慶次の眼差しが自分の脳天から爪先まで移動していくのを感じながら、半兵衛は軽口を叩く。この程度はもはや挨拶だ。今の自分たちの間には必要なもの。挟むことで互いの立場を明確にし、優しかった過去を更に遠いものにしていく。その行為は秀吉にとって必要なものであり、そして半兵衛にとっても欠かせないものだ。
「・・・・・・着物」
端的というには子供のような指摘の仕方に、半兵衛はわざとらしく肩を竦める。
「乳母やに無理やり着せられてね。秀吉がくれた生地で誂えたものだから着ないわけにもいかないし。僕としては動き辛くて御免被りたいのだけれど」
「そんなこと言うなよ、勿体ない。似合ってんだからもっと着れば良いのに」
「考えておくよ」
言葉だけだ。実際にこの着物だって、秀吉が関わっていなければ袖を通すこともなかっただろう。城に出入りしている問屋に新しい洋装の注文をしていたところ、たまたま秀吉が政策の件で半兵衛を訪ねてやってきたのだ。秀吉は半兵衛の服装について口を出したりなどしないが、それでもその日は珍しくひとつの生地を指差して言ったのだ。半兵衛、おまえに似合いそうだな、と。白に紫の華を派手にならない程度に散らし、所々に銀の刺繍があしらわれている生地を半兵衛は少し迷った後に購入し、仕立ててもらった。振袖をお任せいただくのは初めてですなぁ、腕が鳴ります。問屋は破顔し、秀吉も満足そうに頷いていたが、半兵衛はやはり複雑だった。着物では秀吉の役に立てないというのに。それに。
「・・・半兵衛がそういう格好してると、思い出すな。・・・・・・ねねが、生きてた頃をさ」
慶次の瞳が細められ、悲哀と優しさ、愛しさが浮かべられる。これだから、これだから着物は嫌なのだ。半兵衛は手の中の風呂敷に包まれた、新調したばかりの武器をきつく握る。
かつて、半兵衛は毎日のように着物を纏っていた。それは未婚の娘らしく振袖であり、名のある武家の娘に相応しく仕立ての良い、質の良いものだった。背を覆うほどに長い髪を纏め上げ、そこにいくつかの飾りを挿し、仮面などせずに往来を歩いていた。紅すら、注していた。隣を歩くのはもっぱら慶次で、前を行くのは安い着物に包まれた秀吉の逞しい背中と、淡い桃色の着物がよく似合う小さな背中。ねねと秀吉が仲睦まじく並んで歩く様を、半兵衛と慶次はいつだって半歩後ろから眺めていた。懐かしい過去。優しかった思い出。断ち切られた絆。秀吉は力を求め、ねねは殺ぎ取られ、慶次は怒りと嘆きを爆発させた。半兵衛はその様を誰より近く、そして誰より遠くから眺めていた。
慶次にとって秀吉が親友ならば、半兵衛にとって、ねねが親友だった。同性同士、いろんな話をした。秀吉が好きなのだと一番に打ち明けられたし、想いが通じたことを知らせるために走ってきてくれたのも最初だった。死に涙した。それでも唯一の存在が己を弱くする、秀吉が抱くその恐怖も半兵衛は理解することが出来た。だからこそ彼女は慶次ではなく秀吉についていくことを決めたのだ。着物を脱ぎ、洋装を身に纏い、武器を手にした。仮面を被ったのは見たくなかったからだ。見せたくなかったからだ。ねねのために嘆き、秀吉に怒りをぶつける慶次を。そんな彼の姿に心を震わせる自分を、決して誰にも知られたくなかった。
「戯言はそのくらいにして欲しいものだね。過去はもう戻らない。道は前に切り拓かれるだけだ。僕が拓く。秀吉のために、秀吉の望む道を」
「半兵衛、何でおまえは秀吉のためにそこまでするんだ」
「愚問だね。秀吉の作る世界を見たいからさ。僕はそのために生きる」
生きて、死ぬ。囁けば慶次の顔が歪む。ずっとねねばかりを見ていた彼は知らないだろう。その横顔を、半兵衛がどんな想いで見上げていたのか。知らないだろう。その胸に息吹く想いを、彼女がどんな気持ちで育てていたのか。どんな思いで摘み取ったのか。死はねねを、絶対的な形で慶次の中に遺してしまった。怒りに駆られる彼の視界に、もはや自分が映ることは有り得ない。その事実は半兵衛に着物を脱がせるに十分足るものであり、長かった髪を切るのに迷わせないほどのものだった。仮面を被ろう。表情を読まれないように、動揺を悟らせないように、思慕など欠片さえ思い起こさせないように。慶次からも秀吉からも、ねねからも離れた場所でひとり、半兵衛は仮面を被った。誰にも知られず、弱さを、殺ぎ落としたのだ。
話は終わった。この件に関しては、きっと未来永劫分かり合うことはないだろう。踵を返して半兵衛は歩き出す。これだから着物なんて着たくなかったのだ。全く碌なことがない。早く帰っていつもの洋装に着替え、次の戦の布陣を考えよう。やらなくてはならないことは、それこそ山のようにある。時間さえ足りないのだから、早く、早く。
「半兵衛!」
それなのにどうして、この足は動きを止めてしまうのか。過去などすでに捨てたというのに。
「会えて嬉しかった。またな!」
硬直する。身体を叱咤して、歩き出す。振り向かなくても慶次がどんな顔をしているのか分かる。それだけの過去を共にしたのだ。情けない。唇を噛み締めて、半兵衛は駆け出したくて仕方がなかった。それでも狭い歩幅しか許されず、足元は纏わりついて慶次から遠ざかることを遅くする。ああ、これだから着物は嫌なのだ。恋などあの日、誰にも知られず葬ったのに。
多分、ねねさんは知ってました。半兵衛も多分、知られていることを知っていました。女だけの沈黙の秘め事。
2009年7月19日(title by 1204)