望みがあった。
それはきっと、賢者の石でも叶えられない。
望みがあった。





レヴィヤタン





しゅるり、と髪を結んでいたリボンを引っ張る。
抵抗もなく滑らかに解けたそれに、もう一方も同じようにする。
ワンピースと同じオレンジ色は、エドワードの髪と目の金、それにコートの赤を混ぜ合わせたもの。
エドワードの好きな色が判らなかったから、それなら出来るだけ近い色にしてみようと思って。
髪の色は、黒じゃ元の自分と同じだから、最初は変えようと思った。
ブロンドにしようとしたけれど、自分はエドワード以上に綺麗な金糸を知らない。
それに彼の幼馴染である少女が、確か栗色のような色をしていた。
だから辞めた。似ていると思われたくなかったし、自分を見ることで彼女を思いだして欲しくなかった。
他の色に変えず黒のままでいたのは、ひょっとしたら気づいてくれるんじゃないか。そんな淡い期待も込めて。
けれど、今になって気づく。
気づかれない方が良かった。そうすればまた会うことが出来た。
今となってはもうやり直せない。
幸せだった十日間は、帰ってこない。
握っていたリボンをその手から滑り落とすと、人の多い通りを抜け、エンヴィーは裏路地へと足を進めた。



いつの日か、傍にいたいと思うようになっていた。
敵でありながら、相手は自分たちの人柱になる存在だと知りながら。
惹かれていた。笑って欲しいと、幸せになって欲しいと願うようになっていた。
それが慕情だと気づくのに、たいした時間はかからなかった。

ホムンクルスの自分が、太陽のような彼を望む。
何て滑稽なこと、とエンヴィー自身笑った。

だけど想いに目覚めた心は、ただひたすらに彼を求めていく。

望んだのは、とても些細なことだった。
きっと誰もが手に入れられる。自然すぎるあまり実感もないような。
そんなものが欲しかった。
ホムンクルスの自分と、人柱のエドワードでは、決して手に入らない。
だけどとても些細なものが、エンヴィーは欲しかった。



朝はおはよう、と挨拶して。
昼は一緒にお弁当を食べて。
午後は他愛ない話をしたりして。
夕方は並んで家までの道を歩く。
また明日、と笑顔で別れる。

そんな関係になりたい。



考えて、躊躇った挙句に選んだ手段は、とても愚かしいものだった。
少女に化けてエドワードに近づく。
そんな策しか出てこない己に、エンヴィーは笑った。
罪を背負い、目的を持っているせいか、エドワードは他人に対するガードが固い。
そんな彼と数日で親しくなれるわけがない。
だけどそうは思うのに、考えてしまった案は甘美な魅力をもってエンヴィーを誘惑する。
道化に成り下がる理由なんて、エドワードの笑顔だけで十分だった。

身体を爪先から作り変える。
足を細くして白くして、けれどもしも触れることがあったら心地良いように柔らかくする。
爪は桜色、手の平は小さく軟く、腕も柔らかくしよう。
胸を作る際に少しだけ悩んだ。エドワードは巨乳と貧乳、どっちが好みなんだろう、と考えて。
結局は平均的な15歳のサイズに落ち着けた。
顔を小さく、唇は薔薇色、目を大きくして、睫を長くする。
髪の毛もいつもの自分より少しだけ短くして、鏡で全身をくまなくチェックした。
映るのは愛らしい少女の姿。だけどエンヴィーにとっては、この容姿がエドワードの好みかそうでないかが全て。
用意していた下着とワンピースを身につけ、白いカーディガンを羽織る。
足元は悩んだ挙句、オレンジ色のベティキュアを塗って、その上から可愛らしいパンプスを履いた。
気に入ってもらえるといいな、とエンヴィーは新たな容姿の自分に笑いかけた。

気に入ってもらえると、いいな。



本当は、もっと早くに話しかけるつもりだったのだ。
エドワードが弟と共にイーストシティを訪れていることなんて、当然のように知っていた。
図書館に通い詰めているのもいつも通りだし、後は偶然を装って話しかけるだけ。
それだけのことなのに。
勇気がなくて三日も無駄にしたことは、エンヴィー以外の誰も知らない。

本に手の届かないエドワードを見て、チャンスだと思った。
嫌われるかもしれない、とエドワードより高く作った身長を変えようかと思っていたが、変えなくて良かった。
一歩踏み出すたびにうるさくなっていく心臓を押さえつけ、近づく。
頬が熱を持っている。瞬時に作り直すことで体裁を保つ。
躍起になって背伸びしている姿が可愛い、と思わず笑みを浮かべてしまって。
それが良かったのか、自然に本に指を伸ばせた。
振り向いたエドワードに向けたのは、本当に、本音の笑み。
「はい、どうぞ」
「・・・・・・ども」
受け取る際に一瞬だけ指が触れ、全身が騒いだ。
こんなことで喜ぶ自分がとても愛しかった。



互いに名乗りあってからは、エンヴィーが描いていたどの想像よりも事はスムーズに運んだ。
いつも、あの後見人の立場にある軍人兼錬金術師に対してだって作っているような壁が、エドワードの前に見えない。
どうしてだろう、とエンヴィーは内心でうろたえ、けれど理由が判らないままにその状況を甘受した。
エドワードが笑ってくれることが嬉しかった。自分の些細な言葉に反応を返してくれる。それだけで心が満たされていった。
素直に名乗ることは出来なかったから、『レヴィ』と偽名を口にする。
古代神話に出てくる、元は天使であったが堕落した悪魔。七つの大罪の一つである『嫉妬』を司る『レヴィヤタン』は、自分と同じ意味を持つ。
醜い名前。けれどエドワードが呼んでくれるだけで、まるで再び純白の羽根をまとった天使になれるような気がした。
些細なことが本当に幸せだった。

恋愛小説を借りたはいいものの、目を通す気にはなれなかった。
だけどエドワードに内容を聞かれたら答えなければならない。だから適当に斜め読みをした。
料理の本を借りたのは、料理が好きなのだと印象付けるため。
お弁当を作ってくると、出来る限り自然に言い出すための下準備。
それだけの伏線を張ったというのに、いざ言葉にするときは本当に勇気がいった。
頬が紅くなったのに気づかれたかもしれない。
だけどそれ以上に、エドワードは優しく笑ってくれたのだ。
それだけで十分に勇気を出した甲斐があった。

慣れないフライパンと格闘する。
玉子焼き一つをとっても、卵を割るのが初めてで上手く割れないし、味付けを塩にするか砂糖にするかで迷ったりして。
上手く形にならなくて何度もやり直したりした。
唐揚げやコロッケを用意したはいいが、油で揚げるのがこんなに大変なものだとは思わなかった。
ハンバーグは中まで火が通らないし、おにぎりは三角形にむすべない。
材料をいくつも無駄にして、まさに夜通しキッチンに立っていた。
だからこそお弁当が完成したときは嬉しくて。
エドワードがそれを食べて「美味しい」と言ってくれたときには、本気で涙が滲んだ。
バレないように作り変えたけれど、指先を火傷だらけにしてまで作って、本当に良かった。



小さなことで、些細なことで。
抑えきれない気持ちがあふれ出てくる。
好きだと思った。
本気で、本気で、本気で。

エドワードの傍にいたいと願う。



出会ってから六日目。
明日は東方司令部に寄ってくるから午前は来れない。
エドワードがそう告げたとき、心の中がいろいろな気持ちで一杯になった。
いつもなら焔の錬金術師に会いに行く彼を苦く思うのに、それよりも先にお弁当を食べてもらえないことを悲しく思った。
だけどそれを前もって告げてくれる行為に、自分との逢瀬がエドワードの中で日常になりつつあるのだと気づいて頬が緩んだ。
うん、と頷き返したときの表情は間違いなく笑顔だったと思うから、それが変に誤解されてないといいと心配までしてしまって。
一緒にいる時間が半日分減ってしまったけれど、それだけの喜びは得られたと思う。
お弁当の代わりにおやつを作ろう。ドーナツを揚げるのだって、油にはもう慣れたから平気。
シュガーパウダーとココアにシナモン。どんな味が好きだろうと考える度に心が躍った。
歌でも歌いだしてしまいそうな弾む心で図書館へ向かう。
早足で階段を上って、重い扉を押し開けて、寂れて誰もいない本棚をすり抜けて、そして。

―――光の洪水と出会う。

金色で目の前が埋め尽くされた。
窓から入ってくる金色。テーブルと床を染める金色。
本の上に散らばる金色。その金をさらに輝かせている金色。
太陽のような瞳の金が見えないのが残念だけれど、その光景のあまりの美しさに息を呑んだ。
今まで普通に動いていた心臓が、まるで走った後のように早くなっていく。
バスケットを持つ手が震える。顔が熱くなってきて、何故かじんわりと涙が浮かんだ。
「・・・ん・・・・・・」
小さな声に、大げさなくらい肩が震える。
本を枕にするように寝ていたエドワードは、寝苦しかったのかころん、と首を動かす。
まさか起きてしまったのではないか。瞳が見れることは嬉しいし、話が出来ることも嬉しいけど。
でも、でも今はこの穏やかで優しい時間を壊したくない。
エンヴィーが祈るような気持ちで見つめていると、しばらくしてまた静かな寝息が聞こえてきた。
・・・・・・良かった。心底安心して、思わず脱力する。
座り込んでしまいそうなのを堪えて、足音を消して近づくと、夢にまで見た寝顔がすぐ傍にくる。
前髪が鼻にかかっているのに気づき、除けようと手を伸ばした。
焦がれていた太陽。目の前にある金色。
ずっと好きだったエドワード。

ずっと、ずっと好きだったエドワード。

震える手を一度握り締めて、そして指を伸ばした。
胸の中に気持ちが溢れて、視界が滲むだけじゃ終わらない。顔が熱くなって、鼓動がものすごいスピードで鳴って。
好き。好きだ。この金色の髪も太陽のように輝く瞳もきつく意志を携えた視線も止まることのない前を向く姿勢もすべてが好きでどうしようもなくて出来ることなら腕の中に閉じ込めて自分のことだけ見て欲しいと強く望む背中の羽根をもぎとって落ちてきてくれればいいのにと切実に願う彼の全てが愛しいと思っているのにそのままでいて欲しいと感じているのに愚かな自分が首を擡げ恋に塗れて我侭になっていく笑顔が見れると嬉しくてもっと笑って欲しくなって声が聞けると楽しくてもっと名前を呼んで欲しくなってそれだけでも心臓がうるさくなってどうしようもなくなるというのにもしも触れてしまったら触れてしまったらきっともう戻れない。
戻れなくていい。
戻りたく、ない。

熱に浮かされるように、けれど確たる己の意志でエンヴィーは唇を寄せた。
・・・・・・エドワードの頬に。



朝も昼も夕も夜も
このまま君といられればいいのに。



だけど別れは突然やってくる。
「俺は明日、イーストシティを去る。旅に出るんだ」
エドワードとレヴィが出会ってから九日目。
夕暮れの帰り道を二人並んで歩いているときに、エドワードが告げた。
思わず足を止めて振り返る。そんなときなのに手を繋ぎたいな、と思った。
エドワードがイーストシティを去る。賢者の石を探すために。自分の手足と弟の身体を取り戻すために。
知ってる。だってそのために彼は生きている。知ってる。知ってる。知ってた。
今の状態が間違っているってことを知ってた。
だけど、忘れていた。忘れていたかった。
「そっ・・・かぁ・・・・・・」
開いた唇から漏れる声は、自分のものじゃない。誰の声。誰の。
自分がひたすらに想っているエドワードと喋っているこの女は、一体誰だ。
憎い。エドワードの声を、眼差しを、優しさを注がれるこの女が憎い。殺したいほど憎い。
だって自分じゃない。この女は自分じゃない。
「明日・・・・・・見送り、行ってもいい?」
押し潰されそうな心とは裏腹に、不恰好に笑みを浮かべて聞いた。
もちろん、と言ってもらえることが嬉しくて、けれどそれを受け取るべきは自分じゃないから苦しくなる。
別れたくない。傍にいたい。あるがままの姿で。
いや、この際どんな姿でもいい。エドワードの傍にいられるのなら、自分じゃなくても。『レヴィ』という女でも。
道化の振りならいくらでもする。どんなことでもやってみせる。
傍にいたい。傍にいたい。傍にいたい。

エドワードの傍にいたい。



その日の夜は、何も考えられなかった。
明日にはエドワードの笑顔を見られなくなるだなんて考えたくもなかった。
キッチンの椅子に腰掛けて、ぼんやりと天井を見上げる。
このアパートも、エドワードに送ってもらうためにわざわざ借りているものだ。
結局中に入ってもらうことはなかったけど、ソファーやベッド、絨毯やランプなど全部女の子らしいもので揃えてある。
買うときはどれも、エドワードが好きになってくれそうなものを選んだ。エドワードが好きになりそうな女の子の、好きそうなものを。
食器だって全部二組ずつ揃っている。お弁当箱だって、実はサイズの違うのをいくつも用意してる。
紅茶の葉もたくさん用意して、毎日変えて、飲むときのエドワードの表情から一番好きなものを見つけ出した。
フライパンも鍋も計量カップも、全部全部エドワードのため。
だけどそれも明日で終わる。
テーブルの上に置きっぱなしだった料理の本を、緩慢に伸ばした指でめくる。
1ページ目の料理は、もう作った。2ページ目も、3ページ目も。
パラパラとめくれば作ってみた料理ばかりで、エンヴィーは思わず眉を顰める。
乱暴に放り投げて二冊目の本を手に立ち上がった。
お弁当を作ろう。明日のために。
エドワードにまた、「美味しい」と言ってもらうために。



望みがあった。
それはきっと、賢者の石でも叶えられない。
望みがあった。

それはとても些細なことだった。
だからこそ、叶わない。



――――――泣き出してしまいそうだ。



お弁当を作って、おやつも作って、バスケットに詰めればもう朝が来てしまった。
紅茶も、エドワードが一番嬉しそうに飲んだものを水筒に用意する。
着ていたワンピースを脱いで、皮膚を一度すべて作り変えてから新しいのを着た。
スカートを履くのも今日で最後だ。髪を結わくのも、リボンで結ぶのも全部最後。
手に持ったバスケットは昨日までと同じものなのに、やけに重く感じる。
身体が鈍い。だけど行かないわけにはいかない。だって、約束をした。エドワードは約束を守る人だから。
何より、会いたい。これが最後になっても、最後だからこそ。
会いたい想いが募った。

列車の待つホーム。キスをして別れを告げる恋人たち。そんな関係になりたかったわけじゃない。
刻一刻と進む時間。抱き合って別れを告げる家族たち。そんな関係になりたかったわけじゃない。
ただ、隣にいられれば良かった。声の届く距離にいたかった。笑顔を見れる位置にいたかった。
難しいことじゃない。だって『レヴィ』はこんなに簡単に手に入れることが出来たのだから。
人波で溢れているホームの隅に設置されているベンチに腰掛けて、行き交う人間たちをぼんやりと眺める。
発車時刻まで後十分。増え続ける人間。沈んだ気持ちに拍車をかけるそれらを一掃してしまいたいとエンヴィーは思う。
―――だけど。

金色が現れる。そこだけ視界がカラーになる。
周囲を見回していたエドワードがこちらに気づいて振り向く。

浮かべられた笑顔は、自分だけに向けられたものだと思いたかった。

「・・・・・・レヴィ」
駆け寄ってきたエドワードの息が少し乱れている。
それだけのことで泣きそうになる。嬉しくて悲しい。自分がコントロールできない。
「何だよ、見送りに来てくれたんだろ?」
首を縦に振る。上手く声が出なくて、返事が出来ない。
「・・・・・・それ、俺に?」
膝の上のバスケットを示されて頷いた。
夜通し作ったお弁当。最後の、お弁当。
搾り出した声はやっぱり震えたものになってしまった。
「・・・列車の中で、お腹すくんじゃないかと思って・・・・・・」
「サンキュ」
差し出したバスケットを受けとっていくエドワードの手を握り締めたかった。
どう思われてもいい。何て思われてもいい。構わない。握り締めたかった。
きつくぎゅっと握りたかった。
握ってそのままどこまでもずっと。



「・・・あたしも・・・・・・エドと一緒に行きたい・・・・・・」



ホムンクルスとしての自分を捨ててもいい。賢者の石もいらない。
世界を敵に回してもいい。エドワードと一緒にいられるならそんなもの。

傍にいたい。
傍にいたい。
傍にいたい。

君の傍にいたいよ。



「―――ダメだ。俺とおまえは、どう足掻いたって一緒にはいられないんだから」



きつく握られた手を、その機械鎧の感触を、感じて嬉しくなるよりも。
エドワードの言葉がエンヴィーの耳を打つ。
顔を上げてしまった。金色の瞳と出会って、その優しさにしまった、と思う。
見詰め合ったら離れない。この目に囚われてしまう。
エドワードが笑う。彼は知っていたのだ。
「『レヴィ』の本当の名称は『レヴィヤタン』。古代キリスト神話に出てくる、元は天使だったとされる悪魔」
―――あぁ。
知っていた。知っていたのだ。
この愚かしい道化の素顔を。被っていた仮面の意味を。
頬に触れる手が温かくて、申し訳なさに顔が歪んだ。
エドワードが優しく撫でるから、なおさら。
「『レヴィヤタン』は七つの大罪の一つ、『嫉妬』を司る」
互いに手をきつく握り合った。



「そうだろ? ・・・・・・・・・エンヴィー」



暴かれた罪。だけど変わらない想い。
傍にいたい。
傍にいたい。
君の傍にいたいよ。

すべてを捨ててもいい。
そう思った。
世界なんていらない。



「エンヴィー」
耳を擽る声。笑みを含んでいるそれに、今更ながらに気づいた。
エドワードにとって自分は敵なのだ。彼が今の状況を不審に思わないわけがない。
罠だと思うだろう。騙されて嵌められたと思うだろう。だって自分は敵なのだから。
だけど違う。そんなんじゃない。好きだから。
好きだからこんな真似までして近づいたのだ。自分でも馬鹿だと思うけれど、あざといと思うけれど。
自業自得だけど誤解だけはしてほしくない。
「オチビさ―――・・・・・・っ!」
「―――知ってる」
必死の抗議を受け止める瞳。優しいそれがすぐ目の前にあって。
息を呑んだ瞬間。

与えられたのは、あの日、意気地がなくて出来なかった唇へのキス。

耳元で囁かれた言葉を反芻できずに、エンヴィーは列車へと駆けていくエドワードの背を見つめた。
走り出した列車に飛び乗り、振り返る。
鋼の手が振られている。エドワードが笑顔を浮かべている。
列車がスピードを上げて遠ざかっていく。
ただそれを、見送ることしか出来なかった。
エドワードの囁きが、まだ残っている。

彼はすべてを知っていた。
エンヴィーの愚かな道化も、そうした理由も、お弁当の意味も、光の中の口付けも。
それらすべての意味をエドワードは知っていた。
誤解じゃなく、本当の意味を。
知っていた。
知っていて、くれた。
知っていて、十日間付き合ってくれたのだ。

エドワードの囁きが、まだ消えずに残っている。



好きだよ。
君の傍にいたいよ。

ずっと傍にいたかったよ。



「おじょーちゃん、泣きそうな顔でどうしたの?」
かけられた声にエンヴィーは顔を上げた。
薄暗い裏路地の壁に、数人の男がもたれかかっている。
下卑た笑い声とにやにやした顔つき。向けられた視線が自分の身体を舐めるように見ているのに気づき、薄く笑った。
これは作り物の身体だというのに。馬鹿な人間。
「彼氏にふられた?」
「だったら俺たちが慰めてあげよーか? だいじょうぶ、すぐに忘れるって」
「そうそう。身も心も気持ちよくしてやるよ」
「もう俺たちから離れられなくなったりしてな」
笑い声を上げる男たちに、ますます笑みを深めた。こいつらがエドワードと同じ人間だなんて信じられない。
虫けら。ゴミ以下。存在する価値もない。
頭の中で声がする。
「・・・・・・そうだね、相手してもらおうかな」
心中だけでなく表情にも出して睥睨するが、目先の欲に溺れている男たちはそれに気づかない。
愚かだと思った。
だけど人間である彼らを羨ましいと思った。
どんなに最低でも人間でさえあれば。そうすれば、それだけでずっと傍にいられただろうから。
『レヴィ』の名を冠する感情が『エンヴィー』の中を駆け抜ける。
肩に置かれた手に笑顔を浮かべながら、その腕を握り返した。
途端に噴き出した血に男たちの悲鳴が上がる。だけどもう逃がしやしない。
血に塗れた手を翳し、微笑んで。
「―――死ねよ」
泣けないから笑った。エドワードと過ごした日々がずっと昔のことのように感じる。
もう戻れない。

いや、元からこれが当然だったんだ。



絶滅した男たちの死体を見下ろして、エンヴィーは血のついた頬を拭った。
皮膚を作り変える。ワンピースにもカーディガンにも血がついているからもういらない。
もういらない。必要がなくなってしまった。
あのアパートもソファーもベッドも絨毯もカーテンもテーブルセットもフライパンも菜ばしも計量カップも鍋もやかんも調味料も冷蔵庫も卵も小麦粉もパン粉も油も水道代もガス代も電気代もシャンプーもリンスもランプもサンダルもミュールもスカートもブラウスも下着もマニキュアもファンデーションも口紅も鞄もリボンも化粧台もクローゼットもお弁当箱もフォークセットも水筒も料理の本も鍵も図書カードもいろんなものすべてぜんぶ十日間の間に幸せを彩ってくれたものすべて全部。
必要がなくなってしまった。もう、持っていても仕方ない。持っていたいけど意味がない。
だってエドワードがいない。
エドワードがいない。
零れ落ちてしまった幸せ。それだけがすべて。

元通りの姿に戻った己を認識し、エンヴィーは泣きそうに顔を歪めた。
レヴィはもういない。



朝はおはよう、と挨拶して。
昼は一緒にお弁当を食べて。
午後は他愛ない話をしたりして。
夕方は並んで家までの道を歩く。
また明日、と笑顔で別れる。

そんな関係になりたかった。



ただ君の傍にいることが出来れば、それだけで良かったんだよ。





2004年9月25日