悪い夢を見ているのかと思った。
「・・・・・・・・・え?」
呟いたロイにホークアイは少々戸惑ったように口を開く。
「申し訳ありません」
彼女らしく凛とした声。
けれどそれはロイにとって有り得ないほどの衝撃だった。



「エドワード・エルリックとは一体どなたのことでしょうか?」



今なら分かる。
それは、彼がこの世から姿を消した瞬間だったのだ。





金色の記憶





「ハボック!」
バン、と常にはない勢いでドアが開けられ、出てきた上司に名を呼ばれた部下はは首を傾げた。
ロイの表情は強張っていて、心なしか青褪めて見える。
「・・・・・・どうしたんすか、大佐」
言った瞬間に軍服の胸元を掴まれ、思い切り引き寄せられた。
間近で見る眼は戸惑いをはっきりと表していて。
「鋼の錬金術師」
「はぁ?」
「鋼の錬金術師! エドワード・エルリックだ! この名に聞き覚えはあるか!?」
切羽詰っているロイの肩越しに、開いたドアから出てきたホークアイの姿が見えた。
いつもとは違い、彼女も困ったような表情をしている。
けれどそれはロイの比ではなかった。
「・・・・・・鋼の、錬金術師っすか?」
「―――そうだ!」
ハボックは再度首を傾げて。



「そいつ、国家錬金術師なんすか?」



返された答えに、ロイの顔が泣きそうに歪んだ。
「・・・・・・エドワード・エルリックだぞ!? 今年16になる金髪の・・・東部にも良く来ていただろう!?」
「16? 大佐、犯罪はまずいっすよー」
「―――中尉! 君は私と共に鋼のを迎えにリゼンブールまで行っただろう!?」
ロイは腹心の部下を振り返るが、けれど返されたのは絶望だった。
目を伏せて、彼女は告げる。
「・・・・・・申し訳ありません」
その様子に嘘は見られなかった。彼女たちにしても、こんな悪趣味な悪戯をするような人間はロイの部下にいない。
ハボックの軍服を掴んでいたロイの指が震える。
全身の血が音を立てて引いていく。
ロイ以外の誰も。ホークアイも、ハボックも、誰も。



彼のことを覚えていない。



頭に浮かんだ事実に、ロイの心臓が徐々に音を激しく立て始める。
何故。どうして。一体何が。
一体何が起こっているのか。
気がついたときには、震える体を鞭打って床を蹴っていた。
「ちょ!? 大佐・・・っ!」
部下の声を振り切って廊下を駆ける。
嫌な汗が、ロイの額に浮かんでいた。



一体何が起こっている?



駆け込んだ資料室で、ロイは目に見える試料を片っ端から引きずり出した。
「マ、マスタング大佐!?」
かつて親友の部下であったシェスカが声をかけてくるが、彼女に聞いてもきっと同じ答えが返ってくるだろうことを、ロイは漠然と分かっていた。
分かりたくなんかない。けれど、きっとそうだ。
その証拠に。
「・・・・・・・・・っ」
叩きつけるようにしてファイルを閉じた。その荒々しさにシェスカがビクッと肩を揺らす。
けれどロイはそんなことを気に留める余裕もなく、来たときと同じ勢いのまま資料室を出て行く。
「な、何なんですかぁ・・・?」
涙目で呟いたシェスカの足元には、いくつもの本やファイルが散乱していた。
それらのどこにも、あるべきはずの文字がなかった。
国家錬金術師の名簿。
彼の成してきたいくつもの偉業。
解決してきた事件の数々。
それらすべてから、『エドワード・エルリック』の文字は消えていた。



それはまるで、彼が最初から存在しなかったかのように。



ロイの震えは、今や手の平だけではなく全身に及んでいた。
顔は蒼白を通しこしている。眉は泣きそうに下がり、けれど苛立たしく吊り上がり。
大きな歩幅が彼の心情を表している。
きつく奥歯を噛み締めたとき、突き当たりの曲がり角に見覚えのある姿が映った。
その力強さに思わず、彼ならば、という考えが浮かんでしまって。
「――――――アームストロング少佐!」
声を張り上げれば、大きな体格が振り向く。
常とは違ってく司令部内で走ってくるロイにアームストロングは首を傾げ、間近に来た彼の顔色の悪さに心配そうな表情を浮かべる。
けれど問いかける隙さえ与えずに、ロイは尋ねた。
「アームストロング少佐。君はエドワード・エルリックという人物を知っているか?」
張り詰めたロイは今にも泣き出しそうで。
そんな彼に、アームストロングは口を開く。



「エドワード・エルリック! あの弟思いの鋼の錬金術師ですな! もちろん知っていますとも」



さも当然、というように答えた彼は、逆に「何故そんなことを聞くのですか」と尋ねてきた。
けれどロイはそれに答えられなかった。
ようやく手にすることの出来た記憶の証拠に、ただ目頭が熱くなるのを感じた。



けれどエドワードのことを覚えていたのは、自分と彼の二人だけだった。



戻ってきた己の執務室で、ロイは視線を向けてくる部下たちを振り切って部屋に篭もった。
事情を話したところアームストロングも顔色を変え、自分の知人でエドワードを知っている人物を当たってくれるという。
そのありがたい申し出に、ロイは一つ条件を出した。
それは自分とアームストロングだけが知っていると分かったときに浮かんだ疑惑。
ホークアイもハボックも知らなかった。ならば、きっと。



『エドワード・エルリックのことを覚えているのは、錬金術師だけなのではないだろうか』



一度腰掛けた椅子から立ち上がる。じっとなんてしていられなくて部屋の中を歩き回る。
「・・・・・・一体何がどうなっているんだ・・・!」
答えをくれる人物はいない。

つい一時間ほど前、会話の中で「鋼の」という言葉を出したとき、ホークアイはすでに彼のことを覚えていなかった。
ハボックも、他にも聞いた部下は全員、エドワードのことを覚えていなかった。
金色の髪と瞳を持つ、背の小さな、赤いコートを翻して前に進む子供。
人体錬成という大罪を犯して、その代償に失った手足と弟の体を求めて、強い姿勢で挑み続ける子供。
彼は東部であった列車ハイジャック、スカーの事件、他にもいろいろと関わっていた。
ホークアイやハボックは、そららの事件のことはちゃんと覚えている。
けれどエドワードの存在だけが、すっぽりと彼らの記憶の中から抜け落ちているのだ。
恐ろしくなって、ロイは唇を噛むことで現実に縋り付いた。
これではまるで。



これではまるで、誰かがエドワードの存在を消したかのようではないか。



コンコン
「大佐、失礼します」
扉をノックされ、入ってきたホークアイにロイは顔を上げる。
動作は俊敏ではなく鈍くなり、青褪めていた顔色は土気色に変わりつつある。
「・・・・・・大丈夫ですか?」
状況の分かっていないホークアイとしても尋ねないわけにはいかなかった。
返事を返さない上司に、どこか心を痛めながら手にしていたものを差し出す。
「こちらが大佐宛てに届いています」
手の平に収まる、薄い封筒。
捺印はなく、どこから届けられたのかは分からない。
裏は何か文様のようなものが描いてあり、ロイにはそれが一目で錬成陣だと分かった。
「差出人の名前もないので、不審物だと思い開けようとしたのですが―――・・・・・・」
「貸せっ!」
ホークアイの手からロイは手紙を引っ手繰った。
他の荷物と共に運ばれてきた所為か少しよれてしまった、白い封筒。
変哲もないそれの宛名は『Roy Mustang』。
確かに差出人の名はない。けれどロイにはそれが誰からのものか分かった。
提出される報告書を見るたびに、「もう少し丁寧に書きなさい」と言った。
癖のある、彼の字。



ホークアイが静かに出て行った後も、ロイはその手紙を眺めていた。
読めばきっと謎が解ける。けれどそれが怖い。
認めたくはないが、ロイはすでに気がついていた。



エドワード・エルリックが、もはやこの世にいないのだということを。



錬成陣を作るのは錬金術師。そして作った錬成陣を解くのも錬金術師。
年齢に不相応な素晴らしい陣を、ロイはそっとなぞった。
音もなく消えていく密閉措置に泣きそうになりながら。
便箋を、開く。
相変わらずの悪筆に思わず笑みを零して。
すぐに熱くなる目頭と沸いてくる涙に何度も邪魔をされながら。
一文字も逃さぬように、目を通す。



それは、あふれんばかりの愛だった。



「・・・・・・馬鹿だな・・・」
ロイの呟きが静かに響いた。
手紙に雫が零れ、万年筆の文字を滲ませていく。
爪が食い込むほどきつく握った手で、机を叩いた。
「君が犠牲になったところでアルフォンス君が喜ぶとでも・・・・・・?」
再度叩く。何度でも。書類が落ち、万年筆が転がった。
手が赤くなり、爪が切り裂いた皮膚から血が流れる。
だからどうした。彼はもう、痛みすら感じられない。
「愚かな・・・・・・っ」
失ってしまった。
もう、いない。
いない。

「君は馬鹿だ・・・鋼の・・・・・・っ!」

涙がロイの頬を伝った。
どんなに泣こうが、手の中の手紙は消えてくれない。
それだけが現実。
エドワード・エルリックはもういない。



己の願いを叶えるために、彼は逝ってしまった。



「・・・・・・っ・・・」
脳裏にエドワードと、かつての親友の姿が浮かんでは消えた。
彼らはロイに何も告げず、何も残さずに消えていってしまった。
無力な自分に怒りすら沸いてくる。
もっと力があれば、今もきっと彼らと共にいられたのに。
何も出来なかった。
ロイはきつく拳を握る。
エドワードの手紙を心に留めて。



何かを得るためには、同等の代価を支払わなくてはならない。



失うばかりの現実に、ロイは初めて涙を流した。





2004年5月25日