気持ちはずっとあった。
想いは消えずに存在した。
どんなときも。
どんなときも。
自分は彼を愛して生きてきた。
今までも。
・・・・・・・・・これからも。
愛の終焉
ロイ・マスタングがもう長くは無いと医者に宣言されたのは、彼が60歳を迎える一月前のことだった。
大総統の地位についてからすでに15年近くが経つ。
軍人として、しかも前線に立ったことのある兵士としては長生き。
けれど一般人からしてみれば平均寿命にはまだ届かない。
早い死だと誰もが思った。そして次の大総統を決めなくてはとも。
けれどロイは言ったのだ。
『自分は死ぬまで大総統の地位を譲らない』――――――と。
私が死んでから誰を据えるなり何なりすればいい。彼はそう言って病気を患っているとは思えない余裕のある笑みを浮かべた。
誰もがロイを顕示力の強い人間だと思った。権力に縋りつく男。そういえばこいつは大総統になるまでもそうだった。
能力と頭脳を有する不遜な軍人。周囲の迷惑も顧みずに、どこまでそれを貫くのか。
ロイの布いてきた争いの少ない短い時代を省みずにそう陰口を叩く人間たちにも、ロイは変わらずに笑った。
彼の真意を理解しているのは、本当に限られた人間だけでしかなかった。
病魔はゆっくりとロイの体を冒し、肉体を綻びさせていく。
精神だけで強くあるのにも限界が訪れていた。
だんだんとベッドに就く時間が多くなり、立っている時間が減っていく。
そして60歳の誕生日を迎える日には、すでにロイは起きていることさえも出来なくなっていた。
病床の大総統。
彼の死は、もはや時間の問題だった。
「おいおまえ、何者だ。ここは関係者以外は」
二人の人間を止めようと腕を伸ばした憲兵は、目の前に翳された物にその動きを止めた。
黒いコートの中から出てきた細身の腕の先、手の平から鎖が零れている。
かすかに揺れている銀時計が、満月の光を反射して煌いた。
「――――――国家錬金術師殿でありましたかっ!」
声をかけた憲兵と、それと共に警護についていた者たちがバッと敬礼する。
二人のコートの男のうち、背の低い方は銀時計のその内に仕舞う。
次いで発された声は、意外にも若い男のものだった。
「・・・・・・・・・マスタング大総統は?」
「はっ! ただいま自室にてお休みになられておられます! ・・・・・・ですが、もう」
小さくなっていく言葉を、男は手を上げることで止めさせた。
そのままロイの屋敷の門を開いて、連れと共に中へと入っていく。
憲兵たちはそれを敬礼したまま見送っていた。
彼らにとって国家錬金術師というのは、神の域に達している人間にも等しい。
現大総統になってから一段と厳しくされた国家錬金術師試験に合格している者―――あるいは査定を通過している者は、今や100人にも満たない。
だからこそ、彼らの証である銀時計は昔よりもその意味を増していた。
月がゆっくりと雲間に隠れ、男たちの姿を闇に変えていく。
ロイの意識はすでに無かった。
おそらくこのまま心臓がゆっくりと停止し、明日の朝には脳が動きを止めるだろう。
そして彼は、死ぬ。
セントラルでも指折りの医者が告げたのは、大総統にしては静か過ぎる死の予告だった。
「パパァ・・・・・・っ」
ロイの枕元に膝をついて、少女が涙を流す。彼女の肩を抱くようにして、母親もそこに立っていた。
ホークアイとハボックは距離を取り、ドアに近い場所でそれを眺めている。
信じられないほど穏やかな死が、ロイに訪れようとしていた。
彼の生き様からは、想像も出来ないような死が。
カチャリと小さな音を耳に止めて、ホークアイは横を向いた。
閉められていたドアノブが回され、扉が少しずつ開かれていく。
母娘の邪魔をしないようにドアへ近づき、関係者以外は入室禁止だと言おうとした。
けれどそれ以前にドアは静かに開かれてしまって。
黒いコートが、流れるように室内へと足を踏み入れる。
本来ならばすぐにでも止めるべきなのに、何故かホークアイとハボックにはそれが出来なかった。
言葉に出来ない何かを、その二人の人物たちから感じてしまったから。
ロイの妻と思しき女性が、娘の肩を抱いたまま、気配に気づいたのか振りかえる。
そして身も知らぬコートを着た男達がいるのに目を見張った。
明かりのついていない部屋の中央で二人は足を止める。
一人だけがゆっくと静かに、音を立てずに一歩近づく。
困惑に立ち尽くしている妻の横に。
存在に気づいて涙に濡れた顔を上げた娘の隣に。
寄って、過ぎて。
・・・・・・ロイの傍に。
その人物が身を屈めた瞬間に、ホークアイとハボックは息を呑んだ。
フードの合間から零れた金糸が、月光を帯びてベッドに広がる。
生身の手を、伸ばして、触れて。
意識の無い相手に彼は笑った。
「・・・・・・ロイ」
ひどく愛に満ちた言葉が、静かな部屋に響いた。
そんな、と呟いたのは一体誰だったのか。
信じられないように口元を押さえるホークアイや目を見開くハボック。
妻はただ身体を固くしてその場に立ち尽くし、娘はベッドへと上半身を乗り出している男の横顔を眺めた。
月光が、容貌を照らす。
ベッドの上にいる人物ではなく、部屋の中央に立ったままだった方の人物が、ゆっくりと自分のコートに手を伸ばした。
少しだけ骨ばった大きな手の平がフードをそっと下ろしていく。
誰かの息を呑んだ音が部屋に響いた。
浮かび上がる短い金色の髪。
優しげな顔立ちをした、おそらく20歳くらいの男。
実際に会うのは初めてで。写真でしか見たことのなかった相手が、今そこにいる。
「・・・・・・・・・お久しぶりです」
ホークアイとハボックに向かって、彼は深く頭を下げた。
上げた瞳は、兄と同じ金色だった。
「・・・・・・アルフォンス、君・・・・・・・・・?」
言葉に弱々しく微笑む。それは何よりの返事。
「・・・っ・・・じゃあ・・・」
パッと視線が向けられる。その先ではベッドに腰掛けている人物が、コートもそのままにロイへと手を伸ばしていた。
愛しいものを撫でるように、その頬を何度も。
――――――何度も。
「・・・・・・やめてよっ!」
パンッと手が叩かれた。
その拍子にフードがめくられて長い金糸が露になる。
月のような金色の瞳を宿しているその顔は、先程の人物と同じ20歳くらいのものだった。
ロイの娘である、少女と同じくらいの。
睨みつける眼差しがさけずむように相手を見据える。
搾り出された声は悲しみか怒りか、激しく震えていた。
「あん・・・・・っ・・・あんたが、エドワード・・・・・・っ!?」
問いかけられて、思わず目を見開く。
それを返答と受け取ったのか、少女は叫ぶように口を開く。
「あんたがエドワードでしょ! あんたが、あんたが・・・・・・っ!」
振り乱した髪は、ロイと同じ闇のような黒だった。妻である女性の薄い金髪とは違って。
けれど瞳はロイとは違い青く澄んでいて、エドワードはそれを見とめて小さく頷く。
「・・・・・・そう。俺が、エドワード・エルリックだ」
「――――――私はエミリ・マスタング。・・・・・・そこにいるパパの娘よ」
「あぁ、知ってる」
ヒュッとエミリが息を呑んだ。次いできつく唇を噛み締める。
ホークアイとハボックは信じられない面持ちでそれを眺めていた。
エドワード。彼は今そう言った。認めた。己がエドワード・エルリックだと。
ならばどうして。
「・・・・・・本物のエドワード・エルリックなら、パパと14歳差のはずよ! 今年で46歳のはず・・・っ」
目の前にいる相手は、どう見てもそんな年には見えない。
20歳を少し超えたくらいの、まだ若い。
若い、姿。
なのにエドワードは、『エドワード』と言って笑うのだ。
そしてその笑みは何も言う気は無い、そういうものだった。
アルフォンスもエミリを見ていた瞼を軽く伏せる。
答えを返す者はいない。けれど、それは真実。
肩を怒らせてエミリは立ちあがり、まだベッドに腰掛けていたエドワードの肩を強く叩いた。
「――――――どいてよっ! パパに触らないで! あんたなんかに・・・・・・っあんたなんか、パパに触らないでよっ!」
泣き叫ぶように何度も叩かれて、その目に浮かぶ憎しみの光に押されて、エドワードは立ちあがる。
ゆっくりと一歩、ロイから離れた。
窓から差してくる月光がエドワードに降り注ぎ、その美しさをより一層増して見せた。
それが悔しくて、苦しくて。
エミリは目の前の相手を睨みつける。
この男が――――――この男が!
「あんたなんて・・・・・・っあんたなんて! 男で! ガキで! 錬金術師で! 勝手にいなくなって! パパのこと置いていって―――・・・っ!」
それは悲鳴だった。今までずっと降り積もらせてきた。
言えなかった、叫びだった。
悔しかったから、認めたくなかったから。
「パパのことなんか全然愛してなかったくせにっ――――――なんで今更来るのよぉ・・・っ!!」
大粒の涙が少女の目から零れた。
エミリにとって、ロイ・マスタングは常に父親だった。
大総統でもあり、母であるサラの妻であり、国家錬金術師として名高い軍人であった。
けれどエミリにとってのロイは常に『父親』だったのだ。
それはまるで、絵に描いたかのような。
小さな頃はよく抱き上げてくれて。
泥だらけで遊ぶのにも付き合ってくれた。
大総統なのに仕事の合間をぬって授業参観にも来たことがあるし、反抗期なエミリにもロイは余裕を持って接してくれた。
彼は、完璧なまでの『父親』だったのだ。
だからこそ、エミリは気づいてしまった。
『父親』の目が、決して自分を見てはいないということに。
気づいたとき、愕然とした。
今まで築き上げてきたすべてを塵一つ残さずに燃やされたと思った。
『父親』得意の、焔の錬金術で。
愛しさも、思い出も、今まで得てきたものをすべて。
失ったと思った。
失わされたと思った。
ロイの視線を捉えて放さない、唯一の存在に。
自分ではない。母親でもない。近くにいる誰でもない。
『父親』はずっと遠くを見ている。ここにはいない誰かを見ている。
調べるのは容易かった。ただ、『父親』の過去をさらえば良いだけだったのだ。
そしてそれはいとも簡単に見つかった。
あのときの自分を、エミリは一生忘れないだろう。
『鋼の錬金術師、エドワード・エルリック』
憎しみと共に名を刻んだ。
「それは違う」
そう言ったのはエドワードではなかった。
エミリの、部屋中の視線がそちらへと集まる中でアルフォンスが口を開く。
その眼差しはきつくエミリを見据えていた。
「兄さんはちゃんと大佐のことを愛していた」
「パパは大佐なんかじゃないわ」
「・・・・・・そうだね、大総統だ。でも僕たちにとっては大佐なんだよ。別れてしまったときからずっと、大佐は大佐だ。そして兄さんはそんな大佐をずっと想ってきた」
「アル」
「兄さんは黙ってて。――――――これだけは譲れない」
エドワードの静止を振りきって、アルフォンスは続ける。まっすぐにエミリを睨むかのように見つめたまま。
「兄さんが今までどんなに苦しんできたかも判らないような人に、兄さんの気持ちを決めさせやしない」
射るように冷ややかに響いた声に、エミリがビクリと肩を震わす。
けれど苦しんできたのは相手だけではない。自分だって、母親だって苦しんできたのだ。
実に巧妙に与えられた『家族』の中で。
「・・・・・・だから何よ。パパのことを好きだったら、どこにも行かないでずっと一緒にいれば良かったじゃない。それが出来なかったのが何よりもの証拠でしょ」
「一緒にいたかった、でもいられなかったんだ」
「何を差し置いても一緒にいたいと思うのが愛でしょ?」
「・・・・・・・・・君はまだ、愛を知らないんだね」
悲しげにアルフォンスは微笑んだ。
「『傷ついてでも前に進め』―――そう僕たちに教えてくれたのは、君のお父さんだよ」
だから前に進んだ。その結果が今のすべてだ。
愛があった。願いがあった。野望があった。誓いがあった。
どれも捨てられないものだった。
けれど、互いに。
自分のためにすべてを捨てるような相手だけは、見たくなかったから。
だから、道を進んだ。それは突然分かれてしまったけれど。
どうしても叶えたい願いがあったから。
先へ、進んだ。
「今あるすべてのものと引き換えに、兄さんは大佐を失ったんだ」
腕と、足と、弟。エドワードの世界を構成しているすべて。
それだけの価値が、ロイにはあった。
「だから決して、『愛してなかった』なんて言わせない」
何よりも深い想いが、そこに。
リゼンブールという故郷を失った今、アルフォンスにとってエドワードはこの世のすべてだった。
自分を助けてくれた兄。自分を救ってくれた兄。
自らの身体を差し出して。自らの愛を犠牲にして。
見捨てずに、包んでくれた。
アルフォンスにとってエドワードはこの世のすべてだった。
自分のためにロイと別れることを選んだエドワードに、どんなに申し訳無さを感じたかなんて判らない。
それこそ身体を差し出しても良いと思った。だけど、それじゃダメなんだ。
何度も過ちを繰り返すわけにはいかない。
だからせめて、自分も同じ物を捨てよう。
アルフォンスはそうして愛しい故郷を差し出した。
大切な兄の為に。今度は自分が。
・・・・・・一度だけでもいいから、愛を成す機会を捧げたかった。
失ってしまったものを、一度だけでも。
取り戻すために。
沈黙が部屋を支配する。
譲れないものは誰にでもあった。
エミリはただ愛が欲しかった。『父親』であるロイの、『父親』の愛が。
アルフォンスはただ認めて欲しかった。兄は決して愛を捨てたわけではないことを。
そしてそれは相反する。
願いを抱く者は、それ以外を見ることは出来なくなってしまうから。
ただ祈りは、どれも本当のものなのに。
神様は、意地悪だ。
「・・・・・・ェ・・・・・・?」
擦れた声音に誰もがハッと顔を上げた。
中天を過ぎた月が病にやつれたロイの顔を照らし出す。
閉じられていた瞳が、今は開かれて闇色を覗かせていた。
「パパッ!」
エミリが喜びの声を上げてロイの枕元へと膝をつく。
ベッドの上に投げ出されている手を握って、顔を覗きこむようにして。
「パパ! 大丈夫なの!? 私が判る?」
「・・・・・・」
力の無い手が、ゆるゆると宙に上げられる。
確たる意思を持って。
「パパ・・・・・・っ」
喜びがエミリを微笑ませる。
手が伸ばされた。
「・・・・・・エド、ワード・・・・・・・・・」
ロイは娘を見ていなかった。
彼は父親なんかじゃなかった。
夫でもない。大総統でもない。
軍人でもない。彼はただの。
ロイはただの、恋をしているだけの男だった。
エミリの手が、だらりと力を無くす。
母親であるサラが崩れ落ちた身体をそっと支えた。
そのまま顔だけをエドワードの方へと向けて促す。
「どうぞ、エドワードさん」
「・・・・・・・・・」
「おそらくこれが、主人の最期となるでしょう。ですから」
「・・・・・・あなたは」
強張った顔をエドワードが歪めた。
泣き出しそうなのを堪えているそれは、まだ大人になりきっていない少年のようだった。
「・・・・・・あなたは、全部知ってたんだな・・・」
サラは柔らかく微笑んで告げる。
「私は、この人の妻ですから」
伸ばされた手に、一歩近づく。この人はこんなに疲れたような手をしていただろうか。
触れる指先から想いが流れる。この人はこんなに自分を想ってくれていただろうか。
力強く握られた手に、エドワードは思わず身を引きかけた。
ロイ自身の持つ焔に焼き尽くされてしまう錯覚を覚えて。
「・・・・・・来て、くれたのか・・・」
擦れた声にロイの限界が近いことを知る。
認めたくなくて、逝ってほしくなくて、エドワードは強く手を握り返した。
ロイが幸せそうに笑う。
「会い・・・たかった・・・・・・」
どうしよう。涙が浮かぶ。
「・・・会いたかった。君、だけに。エドワード・・・・・・だけ、に」
どうしよう。胸が苦しい。
「エドワード・・・・・・」
泣きたい。
「ロイ・・・・・・っ」
握った手をそのままに抱きついた。
弟や旧知の知り合い、そしてロイの家族がいることなんて考えていられなかった。
久方ぶりに会えた愛しい人。
もうすぐ消えてしまう愛しい人。
自分を呼ぶ、愛しい人。
「・・・・・・ロイ。ロイ」
抱きしめてその肩口に顔を埋めて。
安心させるように背を撫でてくる手の平の感触は、出会ったときから何一つ変わってなかった。
愛しさだけが心に積もる。
触れ合った場所から想いが溢れる。
こうなってしまえば、もう止められなかった。
ただ、好きだった。好きなのだと判っていた。
だけど互いに抱いている願いがあるから言わなかった。
両方か、あるいかどちらかがそれを叶えたら言おうと。
相手の力になるように全力を尽くそうと思っていた。
愛していた。その想いが大切だった。
・・・・・・・・・大切過ぎた。
弟の身体を治すために生きてきた。
その願いを、その罪を、愛の為だけに捨てることは出来なかった。
決してロイのことが大事じゃなかったわけじゃない。
大事過ぎたから、こそ。
それはエドワードの世界を占めてしまった。
人生の願いと同じくらいを等価をもって。
エドワードの心を占めてしまった。
だからこそ。
愛しいると先に言っておけば良かったと、何度後悔したことか。
けれど、選ばないことを選んだ。
そうすることでロイを愛している自分を選んだのだから。
きっとこの世界に生きている限り、自分はロイを忘れない。
彼と等価交換して得た世界を、決して自分は忘れない。
街を、人を、弟を、自分を。
何を見てもロイを思い出す。
想いはそこにあった。彼は常にそこにいた。
エドワードは、ロイを愛していた。
頬に流れ落ちる涙を、ロイが優しい仕草で拭う。
そんなところも昔のままだと思い、エドワードは幸せそうに、照れくさそうに笑った。
変わらない彼が愛しかった。
「・・・・・・エドワード」
声が好きだ。低くて甘い声が好きだ。
「君が、好きだ」
紡ぐ言葉が好きだ。心を奪う言葉が好きだ。
「他の、誰でもない。君だけだ。・・・・・・君だけが、好きだ」
手が好きだ。力強く握る手が好きだ。
「世界で君だけが人だ、エドワード」
腕が好きだ。包むように抱きしめる腕が好きだ。
「・・・・・・愛している」
体温が好きだ。焔のように熱い体温が好きだ。
「会えて・・・・・・良か、た・・・」
エドワードは笑った。
数え上げればキリが無い。
ロイが好きだ。
ロイが好きだ。
ロイが好きだ。
想いがすべて伝わればいい。
そんな気持ちを込めて口付けを贈った。
目を閉じてそっと、優しく触れて、熱く重ねて。
地獄までも持っていけるように。
全部あげるよ。
心をすべて持っていって。
気持ちだけでも、あなたの傍に。
「安心しろよ、ロイ」
目を合わせて、エドワードは微笑んだ。
「俺は全部、アンタのものだ。全部全部ロイのものだよ」
力を無くしつつある手を握って。
放れないように強く握って。
「俺も、ロイのことを愛している」
言わなくても判っていることだけれど、どうしても言いたかった。
これが本当に最期だと、判っていたから。
「愛してるよ、ロイ」
穏やかに笑って、もう一度キスを。
涙も想いもすべてを伝えて受け取るように。
愛を、捧げる。
ロイの闇色の瞳がだんだんと焦点を合わなくさせて。
握っていた手の平から確実に力が無くなっていく。
合わせている肌から熱がゆるやかに引いていって。
すべてが悲しくて、けれどエドワードは笑った。
もし逆の立場なら、最期にはロイの笑顔が見たかったから。
だから、笑った。
「永遠に愛してるよ・・・・・・ロイ」
静かに息を引き取った彼の顔は、ひどく満たされたものだった。
「・・・・・・パパ・・・?」
エミリの呟きが、薄暗い部屋に大きく響いた。
立ちあがりエドワードを突き飛ばし、ロイの枕元に近づく。
押されてふらついたエドワードの肩を、アルフォンスが優しく両手で受け止めた。
「・・・パパ。パパ・・・・・・パパっ!」
エミリが肩を揺さぶる。けれどロイが目を覚ますことはない。
控えていた医者が手首を取りしばらく計った後、静かに述べた。
「・・・・・・ご臨終です」
「・・・っ・・・」
「・・・・・・やだっ! やだぁ・・・・・・そんなの・・・・・・っ! パパァ!!」
沈痛な悲鳴を上げてエミリが泣き出した。
けれどもうロイは目を覚まさない。彼女の『父親』はもういない。
エドワードの愛したロイも。
もう、いない。
手を差し伸べれば触れられる位置なのに。
ほんの少し前まであの手が自分に触れていたのに。
温かな体温が、確かな力が、自分に愛を囁いていたのに。
ロイが、死んだ。
・・・・・・ロイが、死んだ。
無意識のうちに手が伸びた。
嘘だと思いたかった。覚悟はしていたけれど、信じたくは無かった。
大丈夫。まだ肩を揺すれば、耳元で囁けば目を覚ます。
ロイはまだ生きている。
触れれば良いのだ。ただ、あそこにいる彼に。
けれど伸ばした手は届かなくて、エドワードの視界からロイは隠された。
現れたのはファーストレディにしては地味な服を着た、サラ。
ロイの妻にして、エミリの母。
「・・・・・・もう、いいでしょう」
彼女は言う。
「もういいでしょう、エドワードさん。・・・・・・もう十分でしょう」
ロイをエドワードの視界から隠して、彼女は言う。
泣き叫ぶエミリの声が聞こえる。
「あなたはあの人のすべてを持っていった。心を、あの人の想いをすべて。だからせめて、身体は私たちに返して下さい」
震える声で、でも凛とした響きを帯びて。
まっすぐにエドワードを見つめて、サラは言った。
「・・・これ以上私たちを惨めにさせないで頂戴・・・・・・っ!」
己の罪の、深さを知った。
どうしても未だに信じられなくて。
それ故に悲しみはまだ訪れない。
覚束ない足取りでアルフォンスに支えられて部屋を出る。
ロイの眠る、部屋を。
「――――――エドワード君」
後ろからかけられた声に振り向いたのは、エドワードではなくアルフォンスだった。
静かに扉を閉めてこちらへと歩いてくるホークアイに、小さく頭を下げる。
実際年齢よりは若く見えるが、それでも確かに老けた彼女を見て、自分たちとの時間の違いを知った。
犯した罪とその代償は、あまりにも大きすぎた。
まだ頭のハッキリとしないエドワードの手を取り、ホークアイは何かを握らせる。
ジャラリと音を立てた鎖にハッと目を見開いた。
手の平に収まっている銀時計。
「中尉、これは―――・・・・・・っ」
もうすでに階級は中尉ではないだろう彼女は、昔と変わらない表情で笑った。
「大総統・・・・・・大佐からよ。病床につかれる前に、私に預けられたの。『会うことがあったら渡して欲しい』―――と」
銀時計。国家錬金術師の証。ロイが『焔の錬金術師』である証。
「大佐はずっとあなたを待っていたのね。・・・・・・最期に、来てくれて本当に良かった」
「・・・・・・っ・・・」
「ありがとう、エドワード君」
穏やかな笑顔。変わらない優しさ。彼女だって悲しいだろうに。
今まで信じてついてきた上司を失って、苦しいだろうに。泣きたいだろうに。
ホークアイは、まるでロイが最期に見せたような笑顔で、笑う。
エドワードの生身ではない手を、アルフォンスの握ることの出来る手を両手に抱えて。
薄く皺の刻まれた顔で、綺麗に笑って。
「二人とも、どうか元気でね」
強く手を握って、そして放した。
笑顔を向けてから、背を翻してロイの眠る部屋へと戻る。
姿勢の良い後ろ姿と凛とした横顔が、かつての彼女と重なった。
まるでその扉の向こうには大佐であるロイがいるかのように。
書類に追われて、部下に急かされて、それでも自分たちが行けば笑って声をかけてくれて。
いつも通り。いつもの様に。
エミリの父親を請う叫びが聞こえる。
「・・・・・・行こう、兄さん」
俯いているエドワードの肩にそっと手を寄せる。
変わりすぎてしまった今。もう、ここに自分たちの居場所はない。
想う人はもういない。
銀色の時計だけがエドワードに残されていた。
自分以外の、ロイを恋う声が聞こえる。
聞くことに耐えられなくてエドワードは走り出した。
少しでも早くこの場所から離れるように。あの、泣き叫ぶ声を聞かないように。
ロイの死を認めたくなくて。
認めたく、なくて。
アルフォンスが呼ぶのも振りきるように屋敷を出る。
先程の憲兵たちが振り向いたのも見ることが出来ずに、乱暴に門扉を開けて走り抜けた。
戸惑ったようにかけてくる声が聞こえる。
でもそれもすぐに遠くなってしまった。
当ても無く走りつづけた。ただ今は立ち止まれなかった。
立ち止まればロイの死を認めてしまうような気がして、止まれなかった。
手の中の銀時計だけが、やけに冷たくて熱い。
きつく、握り締める。
表に彫られた国家錬金術師の紋章。
裏に彫られた二つ名とロイ・マスタングという名前。
彼の生きていた証。
もう、それだけだ。
それだけになってしまった。
息が切れる。やけに苦しい。胸が痛い。どうしてこんな。
立ち止まりたくないのに、足だけが鉛のように重くなってエドワードを動けなくさせる。
真っ暗な街。月だけが雲の間から覗いている。
聞こえるのは自分の荒い息遣いだけ。
何も無い。
無くなってしまった。
エドワードは乱れた金糸の隙間から、銀時計を見下ろした。
冷たいはずなのに、何故か熱を有しているように感じる。
これも、彼が『焔の錬金術師』だったから?
理由など知らない。ただ、彼の所有物の一つであるなら、それで良かった。
思う通りに動かない指を震えさせながら動かして、引っ掻くように蓋を開ける。
何度か失敗して爪を傷つけた。だけど、痛さなんて感じない。麻痺してしまった。
開いた蓋が、時を知らせる。
飛び込んできた光景にエドワードは目を見張った。
細い針が一定の速度で時を刻む。
長い針がゆっくりと位置を変える。
音を立てて、ロイのいない時間を進めていく。
銀時計の蓋の裏。自分が誓いを削ったそこに。
Edward・Elric
・・・・・・・・・零れた涙が、文字盤に落ちて撥ねた。
これからずっと、あなたを想う。
死ぬことの無い身体で想い続ける。
この愛に果てなんて無い。あなたが死んでも終わらない。
終焉なんて、無い。
「・・・・・・・・・ロイ・・・っ」
悲しみと愛が溢れて、止まらなくて。
膝をついて、エドワードは泣いた。
銀時計が静かに時を刻む。
あなたを、愛している。
空では温かな闇が、ゆっくりと月を抱きしめていた。
2003年12月27日