聖なる鐘が鳴り響く夜。
天使が空から降りてきた。





Merry Christmas, My Angel





何かしらの視線を感じてロイは顔を上げた。
周囲を見渡せば、食堂はいつものように学生で溢れていて。
クリスマスイブの今日であってもそれは何ら変わりがなかった。
ただ女の子はいつもより華やかな服に身を包んでいて、男もそれなりに身だしなみを整えている。
そんな様子を見て、ロイは気のせいかと思い読んでいた本に再び視線を戻した。
ガタンと、前の座席を引く音がする。
「おいおいおい、クリスマスだってのにレポートか?寂しい奴だな」
温かな湯気をかもしているご飯とスープ、それに鮭のホイル蒸し。筑前煮の小鉢がついているそれは、本日のB定食だ。
律儀に手を合わせて「いただきます」と挨拶するヒューズにロイは眉を顰めながら顔を上げて。
「私だって好きでやってるわけじゃない。ハクロ教授の指示なのだから仕方ないだろう」
「教授はおまえのことを買ってるからな。その論文もどっかの研究室におまえを紹介するためだろ?」
「どうやらそうらしい。まったく、私は就職も決まっているというのに」
大きく溜息をついて、書いていたレポートを無造作に隣へ押しやった。開いていた資料を閉じてもう一度溜息をつく。
「今日のA定食は何だったかな」
「味噌カツレツとポテトサラダだ」
「それにしよう」
鞄から財布を取り出して席を立つ。そうしてロイは人込みを掻き分けて食券を買いにいった。



ロイことロイ・マスタングと、マース・ヒューズは大学の同級生である。
難関で知れている国立大学の法学部。
そこに浪人することなく入学して優秀な成績を維持している彼らは、卒業を翌春に控え議員事務所への就職が決まっていた。
省の大臣を務めている国会議員に師事し、いつかは選挙に立候補して公僕となるつもりである。
今はすでに卒論も終え、暇を持て余して大学生活の思い出を作るばかり。
電車で二つのところにある女子大学に通う彼女と青春を謳歌しているヒューズとは違い、ロイはゼミの担当教授によって論文の作成を命じられていた。
これもすべて優秀であるロイを思ってのことなのだが、ロイ本人に言わせれば「面倒くさい」の一言である。
せっかくのクリスマスイブだというのに寂しく資料と向かい合っていなくてはいけないだなんて。
けれどこれも将来のコネのため。総理大臣の地位を狙うロイは今からそう考えて大人しく論文作成に励んでいた。



A定食の乗ったトレーを手に戻ってくるロイが歩きながら周囲を見回しているのを見て、ヒューズはスープに口をつけながら不思議そうに首を傾げる。
「どうした、ロイ」
「・・・・・・いや」
席について、こちらは手など合わせずにすぐ箸を持って食べ始めた。
「この2・3日、視線を感じるんだ」
「視線?」
ヒューズが訝しげに眉を顰める。
「特に害を成すようなものじゃないから放っているんだが・・・やはりあまり気持ちの良いものではないな」
「そりゃあれだ。おまえをクリスマスデートにでも誘いたい女の子じゃないか?」
「モテる男は辛い」
「クリスマスを論文と過ごすような奴が何言ってんだ」
中々にグサッと来る一言に、笑みを浮かべていたロイは微妙に顔を引きつらせる。
先に食べ終えたヒューズはいそいそと席を立ちあがると鞄を背負ってトレーを持った。
「もう行くのか?」
「あぁ、今日はグレイシアとデートだからな」
ニヤリと笑って、けれども心底嬉しそうな様子に、ロイはやっかみ半分応援半分で適当に手を振って追いやる。
「さっさと行け」
「おお、じゃあまたな。よい正月を」
「メリー・クリスマス」
ヒラヒラと手を振りながら去って行くヒューズを見送ってロイはカツレツを一口齧り、そしてまた周囲を見回した。
雑多な食堂と重なって内容の取れない会話。そんな中からこちらを観察しているかのような視線。
「・・・・・・ストーカーじゃないことを祈るか」
ロイはそう言ってポテトサラダをつまんだ。



最終学年のために授業は週に二日。
午前中でそれを終えたロイは、昼食を摂った後もそのまま論文を書き続け、見通しがついたときにはすでに外は暗くなっていた。
手元の銀時計を見れば時刻はまだ5時になったばかり。冬は太陽を早く隠し、寒さに震える夜を長くする。
黒のコートを羽織り、論文や資料をまとめて席を立った。
食堂から出れば吐く息がすぐに白く濁る。ロイは肩を竦めてコートの襟を引き寄せると足早に歩き出した。
校門のところにある木に電球が散りばめられていて、クリスマスの夜を演出している。
通りに出れば赤と緑がいつもではありえないほどに溢れていて、ロイは内心で溜息をつきながら足を進めた。
ヒューズの言ではないが、どうして自分はクリスマスイブに一人でいるんだろうか、なんて考えながら。
原因は考えるまでもなく鞄の中の論文と、それを命じてきた担当教授なのだけど。
はぁ、と声に出して溜息をついたとき、ロイの視界に白いものが舞い降りた。
雪か思って顔を上げる。ホワイトクリスマスなんて自分には無意味だと考えて。
けれどロイの目に映ったのは空から舞い落ちる結晶などではなかった。

冬の冷たい風を受けて揺れる、羽。

鳥のそれよりも軽やかに見え、穢れることのない純白。
ゆっくりと落ちていく一枚の羽の向こうでは、金色の髪と瞳をした少年が、真っ暗な空を背負って宙からロイを見下ろしていた。
「・・・・・・あんたが、ロイ・マスタング?」
まだ声変わりもしていない高めの声で名を呼んで。

「俺は鋼の天使、エドワード・エルリック。あんたを幸せにするためやって来た」

白い翼を背中で揺らして、天使が今、ロイの元に舞い降りる。
イエスの誕生を祝福する鐘の音が、どこかから二人の元へ届いていた。



目の前の光景が信じられずにロイが突っ立っていると、通りすがりの人が肩をぶつけて訝しげにロイを見遣っていく。
エドワードと名乗った羽を持つ少年は、少しだけ楽しそうに、けれど十代前半には見えないような大人びた表情で笑った。
「あんた、変な奴だと思われてるぜ?」
「・・・・・・な」
「俺の姿、普通の人間には見えないらしいから」
ニヤッと笑う顔に何を言われたのか一瞬考えて、そして慌てたようにロイは周囲を見回す。
その際にわざとらしく視線を反らした通行人が数人にて、ロイは顔を歪めて溜息をついた。
目の前の羽を持った少年は、いまだ宙に浮かんでいて。
「・・・・・・君は人間のように姿を現すことは出来ないのか?」
「もちろん出来るけど?」
「だったら」
言い切るよりも早く、天使はその見た目にも軽そうな身体を降ろして、足を地面へと着けていた。
白い羽は同色のコートに変わり、目線はロイよりも30センチ以上低く。
金色の瞳が街の彩りを受けて七色に光る。
「これでいい?」
呆気に摂られるロイを見上げて、エドワードは少年らしく笑った。
そのまま、やはり羽でも生えているのかというほどの軽い足取りで一歩を踏み出して。
「なぁ、何か食いに行こうぜ。ハンバーガーよりは蕎麦がいい」
「・・・・・・・・・私が払うのか?」
「当然だろ?こんな子供の俺に払わせるのか?」
見上げてくる眼差しは意思が強いけれど、それでも確かに子供のもの。
ロイは微かに眉を顰めて、歩き出したエドワードに二歩で並んだ。
「払うのは構わないが、君は一体いくつなんだい?」
天使に年齢などあるのだろうかと思いながらの言葉に、少しの間の後で返事が返された。
「・・・・・・この冬で、12」
「ふむ、12歳にしては」
「小さいとか言いやがったら殴るぞ」
「いや、可愛らしいと思っただけさ」
どっちにしろ少年とはいえ男であるエドワードに対しての誉め言葉ではない。
しかしムッと頬を膨らませる様子は可愛い以外の何物でもなくて。
「名は何と呼べば?」
「何とでも」
「じゃあ―――・・・・・・」
ふっと笑みを零して、ロイは柔らかな眼差しで天使を見下ろす。

「エディ、と」

驚いたように顔を上げるエドワードに微笑を一つ投げかけて、ロイは蕎麦屋へと向かって歩き出した。



箸に慣れていないのか、四苦八苦しながらエドワードは天ぷら蕎麦を食べ終えて。
今はデザートを勧めたら喜んで選んだ餡蜜をつついている。
「でさ、俺はあんたを幸せにしなきゃいけないんだよ」
ロイが自分を天使だと了承しているようなので、エドワードはさっさと話を進める。
行儀悪くもスプーンで相手を指し示して。
「だ・け・ど、俺がここ数日観察してみたところ、あんたには然したる不満ってものがないように見えた」
「あぁ、確かにそれはそうかもしれないな」
緑茶を片手にロイは何でもないように頷いた。
「親は企業の幹部。金銭面に不満はないし、家族関係も特に問題なし。容姿は悪くないらしいし、おかげさまで女にも不自由してない。運動も得意みたいだし、勉強は論文を読ませてもらったけど結構面白い感じに出来ていた。就職も決まってるし前途は洋々。友人関係は広く浅くだけど大切な親友がいるからそっちも問題なし」
カンニングペーパーを見ることもなくズラズラと並べ立てられた報告に、ロイは唖然としながらもどこか納得したように相槌を打った。
「ここ数日、私を見ていたのは君か」
「そうだよ。後はー・・・・・・俺の考えるあんたの幸せとしては、まぁ定番なところで本当の恋をしたことがないからしてみるとか、総理大臣になるって野望を叶えるとか、雨の日は偏頭痛持ちだからそれを治すとか?」
「野望は自分で叶えるかた遠慮しておこう。偏頭痛はともかく、恋は相手が必要だからね」
「ホークアイって人は?」
「彼女は頼もしい後輩にしか見えないな」
「じゃあどうすればあんたは幸せになれる?」
餡蜜片手とは思えないほど真剣なエドワードの声音にロイは一瞬瞠目した。
話し声や物音の聞こえる蕎麦屋の店内が静まり返ったような気さえして、存在するのは向かいの席の子供だけ。
金色の瞳が鋭く自分を捕らえている。
逃さないと言われているようで、ロイは小さく苦笑した。
「エディの言うとおり、さしあたっての不満はないな。私は今のままで十分幸せだよ」
気持ちだけ受け取っておこう、と次いで告げられた言葉に、エドワードが泣きそうに顔を歪めた。
そのあまりの変化に言ったロイでさえも動揺してしまって。
泣きそうな、痛いのを堪えるような顔でエドワードが俯く。
金糸の間から零れた呟きは小さく震えていた。

「・・・・・・それじゃあダメなんだ・・・・・・っ」



代金はやはりロイが支払い、二人が店を出た頃にはすでに辺りはネオンが光っていた。
「・・・・・・これから、どうする?」
言い辛そうなロイにもエドワードはまっすぐな言葉で返した。
「別に。俺はあんたを幸せにしなくちゃいけない。それだけだ」
「エディ、それは」
「俺はっ・・・・・・あんたを幸せにしなきゃいけないんだよ!」
振り向いた際に金色の三つ編みが揺れた。
見つめてくる瞳は真摯で、それでいて必死で。寒さのせいではなく頬が染まっている。
泣きそうで泣けないその表情に、ロイは知らず見入ってしまった。
何が、この天使をそうさせるのか。
「エディ・・・」
伸ばされた手を、細い肩に触れさせる。
その身体はほのかな温かさを宿していて、けれどどこか儚かった。



色とりどりの光が街中を埋め尽くす。
華やかな音楽が夜を奏で、恋人達がクリスマスを演出する。
そんな中、人気のない公園にロイとエドワードは来ていた。
温かなココアの缶を開け、湯気の立つそれをエドワードの手に握らせる。
「・・・・・・俺には、弟がいるんだ」
ポツリとエドワードが口を開いた。
ロイは隣に座りながらコーヒーのプルタブを開ける。
「アルフォンスっていって、俺よりも一つ年下で、いつも一緒で・・・・・・・・・あの日も、一緒だった」
「・・・あの日?」
「五日前、俺たちの乗ってた車が事故に遭った。原因は相手の飲酒運転。その時に俺は右腕と左足を・・・・・・アルは、身体を失った」
ゆっくりと自分の目線にまで腕を持ち上げた。
薄い手袋の向こう、街灯に晒されて鈍い鉛色が透ける。
エドワードは自嘲的に顔を歪めて、生身の左手でココアの缶を握り締めて。
「ものすごい衝撃があって、次に気がついたとき、すでにアルはいなかった。周りには天使とかいう羽の生えた変な奴らばっかりいて、そいつらが俺に天使になれって言うんだ」
ロイは話しつづけるエドワードの横顔を見つめる。
仄かな明かりに照らされているそれは、蛍光灯の下で見るよりも青褪めて見えた。
「天使になるには、少なくとも身体の半分以上がなきゃダメだって。アルは、事故で身体が(めちゃくちゃに)なったから、ダメだって」
唇を噛み締めて搾り出すように、エドワードが言葉を紡ぐ。
「でも、神様ってヤツが言ったんだ。あんたを幸せにすることが出来たら、アルの身体を元に戻してやるって。一緒に、天使が出来るようにしてやるって」
キシ、と握りしめられた手が鈍い音を立てる。
それを聞いて、ロイはようやくエドワードが『鋼の天使』である所以を理解した。
そして同時に、彼の祈りの深さも。
こちらを見上げてくる顔が泣きそうで、悲しみを堪えるのに必死で。
・・・・・・・・・ロイまで苦しくなる。
「なぁ、だから俺、何すればいい?どうすればあんたは幸せになれる?俺、そのためなら何でもする。だから」
切なる願いに、思わず心臓が音を立てた。
「頼むから・・・・・・っ」
エドワードの大きな瞳から、今にも雫が零れるんじゃないかと思って。
それがどうしても杞憂とは思えなくて、ロイはそっと手を伸ばした。
触れた頬は、五日前に死んでしまったとは思えないほどの温かな熱を有している。
けれどもうエドワードは、生きていない。
まだ幼いのに、これからたくさんの未来が待っていただろうに。
それなのに、すべては不慮の事故で手折られてしまった。
ロイの胸に言葉に出来ない気持ちがせり上がる。
死して尚、弟のために力を尽くすエドワード。
彼の、ために。
彼が泣かないように。
彼が笑顔を浮かべるように。

手を差し伸べることが出来るのは、自分だけ。

そう気づいたとき、ロイの心はすでに決まっていた。



「エディ」
囁くような声がひどく優しさを帯びていて、エドワードは知らず警戒する。
それを宥めるように、安心させるようにロイは微笑んだ。
「君は、いつまでこちらにいられるんだい?」
「・・・・・・明日の、朝まで」
朝が来る前には人間界から去らなくては。必ず、願いを叶えて。
「まさに聖夜の天使か。じゃあそれまでは一緒にいられるな」
ロイはそう言うと空になったコーヒーの缶と、冷えてしまったココアの缶をエドワードから受け取って立ちあがる。
コートの袖をまくって時間を確認すると、訝しそうな顔をしている天使を振りかえった。
「この時間ならカフェくらいはやっているだろう。クリスマスときたらケーキを食べなくてはね」
「――――――アンタ、何言って」
「定番のショートケーキとブッシュドノエル、どちらが好みだ?」
大きな歩幅で歩き出すロイを、エドワードも慌てて立ちあがり追いかける。
小さなエドワードでは小走りでなくてはついていけなくて。
隣に並ぶ前に、逃がすまいとコートの袖を掴んだ。
頭上の高い位置から、ロイが変わらない笑顔で振りかえる。
けれどエドワードは噛み付くように捲くし立てた。
「アンタっ俺の話聞いてなかったのかよ!?」
「もちろん聞いていたよ。私を幸せにしなくてはいけないのだろう?」
「そうだよ!だったら―――」
「怒ると可愛い顔が台無しだぞ、エディ」
「誰がっ」
「安心したまえ、願いは決まった」
サラリと言われた言葉に、裾を掴んでいたエドワードの手がピクリと震える。
怒りを顕にしていた顔が一瞬だけ強張るのを見とめて、ロイは身体ごと振り向いた。
自分のコートを掴んでいるエドワードの小さな手をそっと外して、そのまま自分の素肌の手に握り締めて。
「だから明日の朝までは私に付き合いなさい。・・・・・・君に拒否権はないはずだが?」
驚いていた顔をわずかに歪めて、エドワードが握られている手をきつく握り返す。
それでも子供の力にロイは内心で微笑した。
「・・・・・・俺に叶えられる願いなんだな?」
「もちろん」
「それでアンタは幸せになれるんだな!?」
「あぁ、絶対に」
「・・・・・・・・・判った」
溜息をつくと同時に、エドワードが手を放そうと力を緩める。
けれどロイはそれを許さずに握ったまま歩き出した。
思わず転びそうになって、エドワードは体勢を立て直す。
「アンタ―――っ」
「『アンタ』ではなく『ロイ』だ。ほら、呼んでごらん」
「誰が呼ぶかっ!」
「ほぅ・・・・・・」
チラリとロイが見下ろしてくる。
その瞳が悪戯な光を灯していて、エドワードは判っていながらも悔しくなった。
いまだに握られているままの大きな手と、その温かさに心のどこかがホッとしているのに気づいて。
大股で―――それでもロイの普通の歩幅で―――隣に並んで、次いで追い越した。
「全部っ・・・・・・ロイの奢りだからな!」
離れない手をグイグイと引っ張りながら静かだった公園を出て、まだ騒がしい街へと向かい始める。
小さな天使の金色の尻尾を見ながら、ロイは微笑を浮かべた。
彼自身も無意識のうちに、とても甘い、柔らかな笑みを。
「・・・・・・もちろんだよ、エディ」
優しさと共に囁いて、少しだけ大きく踏み出してエドワードの隣に並ぶ。
街の明かりに遮られて見えないけれど、空では多くの星が瞬いていて。
温かな、けれど悲しみを帯びている小さな手をロイはそっと握った。

天使と過ごす、聖夜が始まる。





2003年12月24日