手に取った本を、片腕で支えている山へと重ねる。
機械鎧はこんなときにものすごく便利だ。生身の腕では耐えられない重みにも十分に対応できる。
エドワードはそんなことを考えながら背の高い本棚の間をすり抜け、部屋を後にした。
『許可なく立ち入るべからず』
大きくそう書かれた看板が、閉めたドアには掛けられていた。
陽の当たる場所へ
細い階段を上がると、貸し出しカウンターの隣に出た。
『関係者以外立ち入り禁止』の扉を開けて現れたエドワードに、思わずカウンターにいた人々が視線を向ける。
驚きや訝しさ。それらすべてを無視して、エドワードは左手で扉を閉めた。
そのまま空いているカウンターへと行き、持っていた本を降ろす。
積み重なっていた山が崩れて、今度は海になった。
「これ、貸し出しで」
声変わりを終えていないエドワードの声が、静かに響いた。
指名された受け付けの女性は、その本の量に目をむいた後で眉根を寄せてエドワードを見上げる。
入るときに案内してもらった職員とは違うので、次に言われることは予測がついた。
それを遮るようにコートの内側から封筒を取り出して、エドワードは女性へと差し出す。
「東方司令部の司令官、ロイ・マスタング大佐の紹介状。俺は鋼の錬金術師、エドワード・エルリック」
ズボンにチェーンで繋いでいる銀時計を外して、封筒と共に相手に渡した。
ざわりと周囲が騒がしくなる。
職員の女性が疑うような眼差しをしながら奥へ確認しに行くと、それはさらに顕著になった。
エドワードはただ黙っていることでそれを遣り過ごす。
2・3分して戻ってきた女性は、やはり窺うような眼差しで、エドワードに紹介状と銀時計を返した。
そのまま機械的に手続きを行う。
「・・・・・・こちら、二週間の貸し出しになります」
カウンターに散らばっていた本を重ねて示され、エドワードはそれを持っていた紙袋に収めた。
向けられる眼差しが鬱陶しくて、自然と動作が御座なりになる。
「どーも」
挨拶も適当に図書館を後にした。
それでもついてくるような眼差しと囁きから逃げるように、エドワードは歩く足を速めた。
年の瀬を間近に控えて、夕方ともなればすでに息は白い。
右手に下げている紙袋には、はちきれんばかりの本が詰められている。
早く宿に戻らないと底が抜けてしまうかもしれない。
エドワードは早足で歩きながら、寒さに首をすぼめてコートの襟を掻き集めた。
年の瀬の準備のためか、街に出ている人は多い。
仲良さそうに腕を組んで歩く恋人達。父親に背負われて笑う子供。兄弟で仲良く駆けている姿。
見ているだけで胸の温かくなる光景。けれどエドワードの吐く息はまだ白く濁っていた。
紙袋を持ちなおした視界に、小さな姿が映る。
地面から顔を上げると、それは白いコートを着た少女だということが判った。 まだ5歳にもなっていないだろう。
セントラルにいる知り合いの娘を思いだして、エドワードは無意識のうちに小さく頬を緩める。
母親はウィンドウで商品を見ているらしく、少女は暇を持て余してか、道路で楽しそうにステップを踏んでいた。
自分にもこんな頃があったのだろうけれど、エドワードは覚えていない。
今は転んでしまうのではないかと危惧する方が先に立ってしまう。
その予想に違わず、少女は躓いてバランスを崩した。
ちょうど振り向いたところだったらしい母親の小さく息を呑む顔が視界に映る。
次の瞬間、エドワードは右手の紙袋を手放して、少女へと腕を伸ばしていた。
零れ落ちた本が風に煽られて道路へと広がる。
「・・・・・・大丈夫か?」
コンクリートすれすれのところで抱きとめた少女を覗きこんで、エドワードは尋ねた。
コクコクと首が勢い良く縦に振られる。
少女の母親が人込みを掻き分けて近づいてくるのを確認しながら、エドワードはぺたんと地面に座り込んでしまった少女に手を差し出す。
小さな手の平が、エドワードの右手に重なった。
きょとんとしていた大きな瞳が、その瞬間に見開かれて、次いで泣きそうに歪められる。
――――――ビクッと震えて離れた手に、エドワードは自分のした行動を後悔した。
「すみませんすみませんっ」
慌てて駆けていた母親が、エドワードに頭を下げながら娘を抱き起こす。
「・・・・・・いえ、怪我がなくて何よりです」
固まってしまいそうな笑顔を作って、エドワードは小さく首を振った。
立ち上がると同時に母親の後ろへ隠れてしまった少女に唇を噛んで、それでも微笑を浮かべる。
けれどエドワードは無意識のうちに、右手をコートのポケットへ入れた。
見上げてくる眼差しに怯えが入っていることには、嫌でも気づいてしまう。
何度も頭を下げる母親を振りきるように、エドワードは散らばってしまった本を拾い上げて紙袋に再び納める。
そしてまた歩き出した。
今度は右手ではなく、左手に荷物を下げる。
深く頭を下げる母親のコートを握って、少女の目はじっとエドワードに向けられていた。
手袋越しにも冷ややかだった、鋼の右手へと。
吐く息が白い。
右手が冷たい。
銀時計が重い。
身体が苦しい。
心が痛い。
全部全部判っていることだから。
だから、エドワードは手の平を握り締める。
左手には本の詰め込まれている紙袋は重すぎる。
だけど今は右手で持つ気にはなれなかった。
自分の犯した業なのだ。
受け止めなくては。
・・・・・・受け止め、なくては。
きつく唇を引き締めて歩くエドワードは、俯いていた地面の先で車が停車する影に気づいた。
横に道が走っていたのかと今更のように知る。
後少し気づくのが遅ければ、今頃は轢かれていたかもしれない。
緩慢な動作で顔を上げる。
思っていたよりもすぐ近くに止まっていた車のドアが開いて、誰かが降りてきた。
ぼんやりと焦点の合わない視界で、エドワードはそれを眺める。
他の車の廃棄音に消されずに、声が響いた。
「鋼の?」
呼びかけるその声が、ぼやけていたエドワードの視界をクリアにしていく。
意識が現実へと戻ってくるのを自覚しながら、エドワードは目の前に立っている人物が誰なのかようやく悟った。
青の軍服は、本来なら自分も着なくてはいけないもの。
見上げなくてはいけない身長差に、いつも悔しさを感じていることを思い出す。
黒い瞳が自分を見下ろすのにも、いつのまにか慣れてしまっていた。
いつもは余裕を湛えているそれが、今はひどく穏やかに自分を見ているのにエドワードは気づいた。
ロイは微笑を浮かべながら問う。
「今日は図書館へ行ったのだろう? 私の紹介状は役に立ったようだな」
左手の紙袋を見ての発言だろう。
今はほとんど動かない頭とは裏腹に、エドワードの唇は言葉を綴る。
「・・・・・・でも、確認の電話」
図書館で奥に消えて行った女性職員が受話器を取り上げるのを、エドワードは見ていた。
それはおそらく東方司令部にかけられたもの。
自分が持っていった紹介状は確かに本物だけれども、信用されるには足らなかったのだ。
自分の無力さをエドワードは自覚する。
本がやけに重く感じた。
「・・・・・・ごめん。迷惑、かけて」
何だか今日はやけに寒い。エドワードはそう思った。
呟くような言葉はすぐに街並みに消えてしまって、けれど確かにロイの元へ届いていた。
瞠目したその様子を俯いていたエドワードは見ることが出来ない。
次いで浮かべられた表情も、彼は見ることが出来なかった。
ただ、コンクリートで固められた地面だけがエドワードの視界を占めていて。
そんな中で、ふっと左手が軽くなったのに気づき、エドワードは顔を上げる。
気持ちにつられてか、今は速く出来ない動作をし終える前に、開いていたドアは閉じられていた。
紙袋はエドワードの手にも、ロイの手にもなくて、今発車してしまった車に乗せられてしまったのだろう。
本当ならば「何をするんだよ!」と怒鳴るべきなのに、今のエドワードにはそうするだけの気力もなかった。
今日は、本当に寒い。
凍えてしまいそうだ。
「・・・・・・本は明日にでも届けよう。今日はもう宿に帰ってゆっくり休みなさい」
ロイの声が何だか温く、遠く聞こえる。
何故か下がっていってしまう視線の先で、黒いコートの裾がふわりと舞ったのが見えた。
コツコツと、ロイは靴音を立てて歩き出す。
東方司令部のある方ではなく、エドワードの泊まっている宿の方へと向かって。
いつもよりゆっくりで、いつもより歩幅の狭いそれに引かれるように、エドワードも小さく足を踏み出した。
――――――左足も、重い。
・・・・・・雪が降ったら。
ただ歩きながら、エドワードは思う。
雪が降ったら、この寒さを感じなくても済むのだろうか。
つま先から頭の先まですべて雪にまみれてしまえば、こんな寒さを覚えなくても良いのだろうか。
鋼の足は凍ってしまって動かなくなって。
鋼の腕も錆付いてしまって動けなくなって。
そして、止まるのだろうか。
雪の中で、静かに。
雪の中で静かに、自分はその動きを止めるのだろうか。
何よりも冷えて――――――冷たく、なって。
視界の中に、黒いコートの裾が見える。
ゆっくりゆっくりとそれを辿れば、広い背中とコートと同じ色の髪が見える。
歩くペースはとても遅い。
合わせてくれているのだと、エドワードはようやく悟った。
そして再び眼差しを下げる途中で、ロイの手がコートのポケットに入れられず、外に出ているのに気づく。
白い手袋にも被われていない、褐色の肌。今は寒さの所為か、指先が少し赤くなっている。
歩く度に無造作に揺れるそれに、エドワードの視線は釘付けになってしまった。
魅入られるように、引きつけられて。
そして思う。
この人も、雪に埋まってしまうのだろうか――――――と。
数歩前を行っていたロイが振り向いた。
そのことでエドワードはようやく、自分が何をしてしまったのかに気づいた。
エドワードの右手が、右の指が、ロイの左手を捕らえている。
まるでその熱を確かめるかのように、感じることは出来ないと判っているのに。
それなのに。
こんな冷たいだけの手で触れてはいけないと判っているのに。
・・・・・・・・・それなのに。
「・・・ごめ・・・っ・・・」
無意識の行動が申し訳なくて、エドワードは急いで手を引いた。
けれどそれは適わなかった。
今度は逆に、ロイの手の平に握り込まれてしまったから。
冷たいのに。触れちゃいけないのに。
エドワードがそう思って見上げると、ロイはひどく柔らかな微笑を浮かべていた。
繋いでいる腕を軽く引いて、エドワードを引き寄せる。
そしてそのまま歩き出した。
手は放さずに、指をすべて絡めるようにして。
何も言わずにロイは歩く。
自分の手は冷たくて、ロイの手も冷たくなっていくだけのはずなのに、エドワードはどこか温かくなっていく自分に気づいた。
触れている部分から伝わって、身体を、心を。
まるで融かしていくかのように。
広い背中の半歩後ろを歩きながら、エドワードは俯いた。
感謝の言葉を口にしたくて、けれど出来ない。
溶けた雪が、雫となって彼の頬を流れていった。
2003年12月17日