出会ってすでに四年が経つ。
ずっと一緒にいたわけではないけれど、関わりは存外に深いと思う。
・・・・・・だから。

「そろそろ、名前で呼んでもいいと思うのだが」

どうだろう?と振り返った先では、ついさっきまでいたはずのホークアイが無情にもドアから出て行くところだった。





恋の魔法





「鋼の」
自分一人しかいない執務室で、ロイは小さく呟いた。
受け取る相手がいない呼びかけは、そのまま虚しく床へと落ちていく。
けれどロイはもう一度呟いた。
「鋼の」
手に持ったペンをクルクルと回して、そして何度でも。
「鋼の」
愛しい者の名を口にすることで、知らず柔らかな笑みを浮かべる。
これだけのことなのに、どこかくすぐったくてロイは笑った。
まるで初恋に胸を焦がしている少年のようだ、なんて思いながら。
「・・・・・・鋼の」
呟いて笑う。



しかし、「鋼の」とは愛しい想い人の正式名称ではない。



クルンっとペンを回しながら、ロイは軽く頭を掻いた。
「・・・・・・・・・エドワード・エルリック」
愛しい者の名は溜息をつきながら言うべきではないのだろうが、自然と肩が落ちてしまって。
正式名称、そう、これが彼の正式名称だ。
「エドワード・エルリック」
繰り返しながらも目の前の書類にサインを走らせる。
「鋼の」
もう一枚。
「エドワード・エルリック」
もう一枚。
「豆」
もう一枚。
「チビ」
もう一枚。
「ミクロ」
そこまで言ったところで、処理すべき書類がなくなってしまった。
伸ばした手が空を切ったのに気づき、ロイは顔を上げる。
いつもなら仕事が終わったことで喜ぶのに、何故だか今はそんな気分になれなかった。
それは、きっと。



別称なら呼ぶことが出来る。フルネームも呼ぶことが出来る。
けれど、名前は。
唇に乗せるだけで、背筋に甘い旋律が走る。
先程とは比べ物にならない笑みが浮かぶ。
照れくさくて、嬉しい。これが幸せと言うのかもしれない。
ロイはそう考えて口元を緩めた。
今なら、呼べるかもしれない。
「・・・・・・エド――――――」



「大佐ー」
「――――――ジダイというものが東の島国の歴史にあってだね、その当時はブシという職業の人間が刀を帯びて街を闊歩していたというのだが、それに対して君はどう思うかい、鋼の?」



ドアを開いて入ってきたエドワード・エルリックに、誤魔化しにしても意味の判らない事を問い掛ける。
ロイ・マスタング、敗れたり。



ロイの言葉を聞いていなかったのか、それとも流したのか、エドワードはいつもと変わらない表情でテクテクと近づく。
それにホッとしながらも、少しだけ残念だとロイは思って。
机の正面まで来て、エドワードが口を開いた。
「なぁ、この前見せてもらった『生命の基礎論法』ってどこにある?」
「ああ、それならそこの本棚の一番上に」
「そっか、サンキュー」
クルッと踵を返すと、赤いコートの裾がふわりと舞った。
ロイはそれを見ながら無意識のうちに微笑する。
背の高い本棚の前まで歩いていく少年を眺めて。
(エドワード)
心の中で、呟く。
三つ編みが小さく揺れて、まるでそれが返事のようだと勝手に思いながら。
(エドワード)
心の中では呼べるのに、なんて思って。
本人には気づかれないように、けれど柔らかく微笑んで後ろ姿を眺める。
しばらくそうしているうちに、ロイはあることに気がついた。
「・・・・・・・・・」
視線の先では、エドワードが手を伸ばしている。厚底ブーツで背伸びしている。
けれどその指先は、目的の本には届いていなかった。
ジャンプしてみる。けれど取れない。
「・・・・・・・・・」
まるでペットを見ているようで可愛らしい、などと思いながらロイは椅子から立ち上がった。
本を取るのに躍起になっているエドワードの背後に回って、手を伸ばして。
「ほら、これだろう」
簡単に引き抜いた本を、小さな相手に手渡した。
見下ろすと金色の髪が視界に広がって、その下で不貞腐れたようにエドワードがそっぽを向いていて。
「・・・・・・ありがと」
小さな小さな言葉が、ロイの耳に届いた。
照れか屈辱か、うすく染まっている頬が、ロイの目に映って。
――――――頭がそれを理解するよりも、心がそれに響くよりも早く。



エドワード



気がつけば、愛が溢れていた。



突然降ってきた言葉に、エドワードは驚いて顔を上げた。
しかしその瞳がロイを見ることは叶わなくて。
大きくて温かな、少しだけ乾いた手の平が、エドワードの目を覆ってしまったから。
「たい」
さ、と呼びかけるよりも早く、目隠しをされたまま身体を反転させられる。
力強い手が肩を掴み、そのままグイグイと押していって。
真っ暗な視界の中で、やっぱり上から声が降ってきた。
「・・・・・・私はまだ仕事が残っているから、君も研究は資料室かどこかでやりなさい」
「たいさ」
「アルフォンス君を待たせているのだろう?」
「大佐っ」
エドワードは声を上げるが、目元を覆っている手は離れない。
その代わりに近くでドアノブを回す金属音がして。
トンッと背中を押されて、執務室から追い出された。
「たい―――っ」
「頑張りたまえ――――――鋼の」
ようやく自由になってエドワードが振り向いたが、すでに扉は閉められていた。
残ったのは手の中にある資料と、まだ感触の残っている目元で。
頬が熱を持っていくのをエドワードは自覚する。
乱暴にそれを拭って、大股で廊下を歩き出して。
「・・・・・・馬鹿大佐・・・っ」
吐き捨てた言葉とは裏腹に、エドワードの耳は赤く染まっていた。



どうにか、もう八割方意地で閉めたドアのこちら。
ロイはずるずるとしゃがみ込んで、その顔を片手で覆っていた。
真っ赤になっているのが、鏡を見なくても判る。
名前を一度口にしただけで、こんなになってしまうなんて。
「・・・・・・・・・重症、だな」
呟いた声は苦笑に近いものだったけれど、それでもどこか喜びが混ざっていた。
そんな自分に気づいて、ロイはもう一度笑う。
本当にどうしようもない、なんて思いながら。
愛しくて愛しくて大切な人の名。だからこそ、口に出来ない。
「・・・・・・我ながら、前途多難だ」
大きく溜息をついて、ロイはゆっくりと右手を持ち上げた。
先程までエドワードに触れていた手。それに誓うように口付けて。
今はまだ、これくらいが妥当なところらしい。
けれどいつかは、と願いながら目を閉じる。



口にするだけで幸せになれる。
それが、君の名前。
愛しさの証。

いつかこの想いが、君に届きますように。





この小説は『君の名前を呼んだ後に』の10000ヒット御礼フリー小説でした。現在は配布を終了しております。
2003年12月11日