逃げたかった。エドワードは逃げたかった。
この際だから負け犬だと言われてもいい。軍の狗でも構わない。
今この場から逃げ出すことが出来るのなら、何と罵られようと甘んじて受け止めよう。エドワードは心の底からそう思っていた。
オレンジジュースのグラスが、水滴を光らせる。
空気はこんなに冷ややかなのに、どうして。
「たかが一軍人ごときが鋼の坊やに釣り合う訳ないじゃない」
「少なくともエドワード君にとって敵である貴女よりかはマシだと思うけど」
怖い。怖い。エドワードは年甲斐も無く泣きたかった。
彼の前では今、美しくも恐ろしい女性対決が行われている。
War! War! War!
エドワードはつい三十分前まで弟のアルフォンスと仲良く街を歩いていた。
自分の機械鎧に必要なオイルと、弟の鎧磨きに必要な道具とを買いに来ていたのである。
目的の物は手に入ったので、じゃあ宿に帰るかというところで、アルフォンスが何やら猫を見つけてそちらの方へと行ってしまった。
連れていけないから拾うんじゃないぞ、と言うと、弟は悲しそうな雰囲気を漂わせながらも首を縦に振って。
どうやらその猫は首輪をしていて、どこかの家の飼い猫らしくとても人懐っこく、鎧姿のアルフォンスにも喜んで擦り寄ってきた。
嬉しそうに猫を撫でる弟にエドワードも微笑し、時間を潰すべく近くのショーウィンドウを見てくると言って弟と別れた。
――――――彼の敗因は、間違いなくそこだったのだろう。
「あら、鋼の坊やじゃない」
本屋で今人気の書籍を眺めていたところに声をかけられて、エドワードは振り向いた。
そこに立っていたのは自分よりも頭一つ分くらい背の高い女性。
黒いつややかな髪は緩やかなウェーブを描いていて、厚手の作りのダウンジャケットにはファーがついている。
とても短いタイトスカートからは長い足が伸びていて、膝から下はヒールの高いブーツに包まれていた。
大きく胸元の開いたインナーからは、蛇が自身の尾を噛んでいる入れ墨がのぞいていて。
ハッとエドワードが顔を上げる。
しかし緊張に包まれたその雰囲気は、次の彼女の一言に流されてしまった。
「ちょうど良いいわ。これからお茶でも付き合いなさい?」
細い腕でエドワードをがっしりと捕まえて引きずっていく。
そんな彼女は名をラストといい、エドワードの敵対するウロボロスの一員だった。
近くにあったカフェに(引きずられて)入る直前、エドワードはまたしても声をかけられた。
「あら、エドワード君じゃない」
聞き覚えのある声に振り向けば、そこには自分よりも頭半分くらい背の高い女性が立っていて。
少し金色を帯びた茶の髪はサラリと肩に下ろされていて、細身のジャケットは後ろにベルトがついている。
プリーツの刻まれたスカートは膝を少し隠していて、形の良いローファーが足下を飾っていた。
薄く花柄をあしらったブラウスが、柔らかさとさわやかさを演出していて。
え、とエドワードが目を丸くする。
しかし驚いたようなその雰囲気は、エドワードの腕を掴んでいる人物によって投げ捨てられてしまった。
「あぁ、焔の錬金術師の副官じゃない」
「・・・・・・貴女は確か、エドワード君の敵の」
「ええ、初めまして」
「こちらこそ」
微笑を浮かべながらも目だけは全然笑っていない。
そんな彼女は名をリザ・ホークアイといい、エドワードの所属する軍の親しい知り合いだった。
何度今までの経過を思い返したとしても、今こうしてカフェで美女対決が行われている以外の現実は有り得ない。
そう判ってはいるのだけれど、逃避するしかない自分にエドワードは本気で泣きたかった。
今もどこかで猫と戯れているだろう弟に心の中で助けを叫んで。
しかし彼は知らない。その助けを求めている相手が、すでに兄である自分を見捨てて宿に戻っていることを。
あまりの冷ややかな空気に気圧されて、兄のいるカフェにさえ近づくことが出来なかったことを。
『ごめんなさい兄さん!でもボクも人間なんだよっ!』・・・とは、弟であるアルフォンスの言である。
すなわち、エドワードを間に挟んで行われているラストとホークアイによる冷戦は、それほどまでに恐ろしいということだ。
「ちょっとぉ何で私と鋼の坊やのデートにあなたが割り込んでくるわけ?軍人は遠慮って言葉も知らないの?」
カーン、とゴングが鳴り響いた。
「知っているけれど、それを使う使わないは私が決めるわ。ただ今はエドワード君が敵である貴女と一緒にいるということが心配なだけ」
「失礼しちゃうわ。今のところ鋼の坊やを傷つける気はないのに」
「その言葉を信じられるとでも?」
寒い。寒い。何でこんなに寒いんだ。
エドワードはオレンジジュースを頼んだことを後悔していた。
こんなに寒さを感じることになるのだったら、大人しく温かい飲み物でも注文しておくのだった。
たとえそれが苦くて飲めないコーヒーだったとしても、きっと今よりはマシだったはず。
「大体あなたは何時でも鋼の坊やに会えるじゃない?だったら大人しく邪魔しないでもらえる?」
「エドワード君が軍に来るのはそれなりの理由があるときから、そう簡単に会えるわけじゃないわ」
「でも私よりは会えてるでしょ」
「それなら貴女は私よりもエドワード君のことを見ているんじゃないかしら。監視と称して」
北風ではなくブリザードが吹き荒ぶ。すでにこの寒気に周囲の客は全員避難(と書いて逃亡と読む)していた。
俺も逃げたい、とエドワードは心の中で泣きながら呟く。
しかしまだまだ冬将軍が収まる気配は無かった。
ラストはその容姿によく似合う妖艶な笑みを浮かべて言う。
「あなた、すっごい生意気」
ホークアイはその雰囲気によく似合う凛々しい表情で答える。
「偶然ね。私もそう思っていたわ」
鳴らされた第二ゴングにエドワードは助けて、と叫んだ。
「あなたなんて焔の錬金術師で十分じゃない。私の鋼の坊やにまで色目使わないでくれる?」
「私と大佐は何の関係もないわ。それにエドワード君に色目を使ってるのは貴女でしょう?」
「あら、自分の魅力を利用して何が悪いの?鋼の坊やだって男だもの。軍人のたくましい筋肉よりは私みたいな豊満な身体の方がいいに決まってるでしょ?」
「何年生きてるのかも判らない年増がよくそんな台詞を言えるものね。作り物の身体でエドワード君が喜ぶとでも?」
「永遠の美貌って言ってくれる?これから年老いてくだけの女がよく言うわ」
「エドワード君だって年を重ねていくもの。私との差は変わらないわ」
「鋼の坊やは年なんて取らないわよ。人柱になるんだから」
「そんなことはさせない」
話の中心にいるはずのエドワードは、すでに遠くを見ていた。
あぁ・・・・・・短い人生だったなぁ、なんて思いながら窓の向こうの青空に大好きな母親の顔を思い出す。
ごめんな、アル。兄ちゃんはおまえの身体を元に戻してやれなかったよ。
ウィンリィやばっちゃんにもよろしく伝えてくれ。
俺の骨と機械鎧は母さんの墓の近くに埋めてくれな。
あははーごめん弟よ。兄ちゃんはもう限界だ。
極寒にやられて、すでにエドワードの意識は三途の川を渡りつつある。
このまま泳ぎ切った方が彼のためなのかもしれない。
しかし現実は無残にもエドワードに優しくなかった。
棺桶に突き落とした人物が、今度は無理やりにエドワードを引きずり出したのである。
「鋼の坊や!」
「エドワード君!」
美しいのに恐ろしいラストとホークアイの顔に覗き込まれて、エドワードは本気で泣きたかった。
それなのに彼女たちは言うのだ。
「「私とこの女、どっちが好き!?」」
どっちも怖いです、とはさすがに言えなかった。
しかし120%真面目な顔でこちらを見つめて(むしろ睨んで)くる二人に何も答えない訳にはいかず。
エドワードは必死で考えた。12歳で国家錬金術師の資格を取ったほどの優秀な脳みそで考えた。
そして導き出した答えは――――――・・・・・・。
「お、俺は大佐が好き!」
己の知る中で誰よりもしぶとくて強い、そして謝れば何とか許してもらえそうな、今この答えに最適な人物。
ゴメン大佐ゴメン大佐ゴメン大佐。
1秒間に100回のスピードで謝りながらもエドワードは結局差し出してしまったのだ。
自分の代わりに、標的とされる生贄を。
極寒の地は一瞬のタイムラグを経て、どこかの異世界へと飛ばされたようだった。
ほのかに温かいような風が吹き、生ぬるいような太陽を感じる。
ラストの伸縮自在の爪が音を立てた。
「ふうん・・・・・・焔の錬金術師、ね」
ホークアイの腰で愛用の銃身がキラリと光る。
「そう・・・・・・大佐」
エドワードの謝るスピードが上がった。
緩く笑っているらしい美女たちの表情を見る勇気はなかった。
二人は同時に席を立つ。
「悪いわねぇ、鋼の坊や。ちょっと用事が出来ちゃったの。また今度デートしましょ」
「ごめんなさい、エドワード君。また東方司令部にも遊びに来てね」
「代金はもちろん払っておくわ。ねぇ、鋼の坊やの分も入れて割り勘でいいでしょ?」
「えぇもちろん」
こうしてラストとホークアイは肩を並べて颯爽と去っていった。
二人が店から出ていくと同時に、異世界の気候がようやくイーストシティのものへと戻ってきて。
オレンジジュースが相応しい温度へと変わり、エドワードは堪えていた溜息を大きく深く吐き出した。
「・・・・・・・・・マジで、死ぬかと思った・・・」
カランと氷が音を立てる。
きっと数分後に起こるであろう東方司令部の惨劇を思って、エドワードはもう一度謝った。
でもあれ以上ラストとホークアイに挟まれているのは耐えられなかったのだ。
「・・・・・・・・・ゴメン、大佐」
今度会ったときは優しくしよう。
エドワードは心の中でそう誓うのだった。
2003年12月2日