真っ黒な空に浮かんでいる月を見て、ロイはタイを緩めた。
雲が月光を遮ろうとする。夜が更に深さをまして辺り一面を闇に変える。
それでもロイは月を見上げた。
金色。輝きの色。黒に映える、唯一の色。
この世でたった一つの、愛しい、色。
世界の果て
ベッドにタイを投げ捨てて、ジャケットも乱暴に脱いだ。上げていた髪を無造作に崩して溜息をつく。
それは一人きりの部屋に大きく響き、ロイは苦笑しながらシャツのボタンを外して胸元を寛げる。
カーテンを開けたままベッドに腰掛けると、スプリングが音を立ててロイの重みを受け入れた。
見上げれば金色の月は今もなお窓の中にある。
ぼんやりと、けれど食い入るようにそれを見つめた。
暗闇の中にある、金色。どこに行ってしまったのだろうか、あの色。
自分の世界はすべて彼と共にあった。色鮮やかに日々を飾り立てていた。
すべての中心に、あの子がいた。
月は今も空にある。ロイの隣に彼はいない。
そんな日がもう何年も続いていた。
「・・・・・・ 」
名前さえも今は呼ぶことが出来ない。昔は呼んでいた別称も呼ぶことが出来ない。
今もなお思い出には出来ない。
女々しい自分にロイは笑った。
彼は明日、妻を迎える。
最後に名前を呼んだのは何時だったのか。
最後に名前を呼ばれたのは何時だったのか。
こうなるのなら覚えておくのだった。
君の声を、君の響きを、君の熱を、君の言葉を。
思い出すことの出来る過去が、日毎に少しずつ減っていく。
忘れたくないのに思い出せなくなる。
遠くなる。そんな現実とは裏腹に想いだけが募ってく。
愛しいと想う。愛していると想う。
出会ったときよりも、最後に会ったときよりも、一年前よりも、昨日よりも。
君を、君だけを、愛しく想う。
会えなくても、愛さずにいられない。
後悔ばかりが心に残って。
それでも想わずにはいられない。
闇が、月を隠す。
「――――――誰だ」
低い声を発して、ロイは鋭く周囲を見回した。
他愛もない自室。カーテンを開いたままの部屋。
そこに今、自分以外の誰かの気配を感じる。
出来るだけ静かにジャケットを引き寄せて、手袋を探り出す。
火蜥蜴のついているそれをきつく手に填めた。
気配はまだある。動いてはいない。誰かいる。敵がいる。
張り詰める神経の中で、ロイの鼓膜が震えた。
・・・・・・心が、震えた。
月が現れる。
「・・・・・・・・・大佐」
想いは今も、この胸にある。
エドワード・エルリックが消息を絶ったのは、今から7年前のことだった。
16歳の誕生日を間近に控えたある日、彼は突然に姿を消した。
弟のアルフォンス、ただ一人を連れて。
ロイにも、リゼンブールにいる親しい者たちにも、誰にも告げずに、エルリック兄弟は掻き消えた。
名前を呼んでも返事はない。どこにいるのか誰にも判らない。
死んでいるのではないかという憶測は、ロイの手前を憚ってはいたけれど、数え切れないくらい飛び交っていた。
優秀な国家錬金術師の失踪に少なくない軍も動いた。
けれど彼らの消息は誰も掴むことが出来なかった。
エルリック兄弟は消えた。
ロイの愛した子供は消えた。
けれど今、彼は7年の時を経てロイの前に現れた。
キィと音を立てて、まるで導くかのようにバルコニーへの窓が開かれる。
月光を背に現れた姿。黒いコートが逆光になって彼の身体を隠し、フードが頭を覆っていた。
けれどそこから零れている金糸に、確かにロイは見覚えがあった。
決して身間違えることなどない、唯一の色。
愛しい彼の、髪の色。
コートから出てきた手が、ゆっくりとフードを下ろす。
金色が闇の中に広がった。月よりも輝いて、何よりも眩しく。
最後に見たときよりも長い、編まれていないそれ。
・・・・・・スプリングが音を立てる。
幻なんじゃないかと思った。これは自分が彼を想うあまりに創り出した幻影なのではないかと。
疑うだけの想いが自分にはあった。それでも良いと心の底では願っていた。
幻でもいいから会いたい、と。
それ程までに想った存在が、今目の前にいる。
月光がエドワードの頬を照らした。
「・・・・・・久しぶり、大佐」
あの頃よりも大人びた微笑みがロイへと向けられる。
泣きそうになって顔が歪んだ。
この7年、色々なことがあった。
言葉では表すことの出来ない日々を送ってきた。
エドワードがいないだけで世界は色褪せ、日常はつまらないものへと成り果てた。
信頼の置けるものを得ては失い、失っては得て。
何度も繰り返して、ただ野望のためだけに生きてきた。
今となっては何故そんなものを望んだのかさえ判らずに。
ただ、生きてきた。
大総統まであと少しという大将の地位。
元帥である上司の娘との婚約。
昔とは比べ物にならない金と権力。
この7年でロイは確かに彼の目的への階段を登っていた。
腰まで届くほどの金糸は昔とは違い編まれていない。
小さかったあの頃よりも大きく、けれど細身の身体。
造作の整った顔は穏やかな表情が良く似合って。
この7年でエドワードは子供ではなく一人の大人になっていた。
覚束ない足取りで、ロイが一歩距離を縮める。
エドワードがその分だけ、彼に近くなる。
言いたいことがあった。聞きたいことがあった。
どうして急にいなくなってしまったんだとか、どうして何も言ってくれなかったんだとか。
元気でやっていたのか。この7年間何をしていたんだ。今はどこで暮らしているんだ。誰と一緒に生きているんだ。
聞きたいことが山ほどある。言いたいこどが山ほどある。
会ったら年甲斐もなく文句なんか並べたりして、拗ねた様子を見せたりして、散々困らせてやって、そしてもう二度と離れていかないように約束させる。
そのつもりだった。今、こうして会うまでは。こうして会うことが出来るまでは。
言いたいことがあって、聞きたいことがあって、それなのに言葉にならない。
歯が震えて音を立てる。手袋に包まれたままの指先が小刻みに揺れる。
胸が焔よりも熱くなって、身を燃え尽くすほどの想いに焦がれて。
言葉にならない。ただ、ただ一つの気持ちだけが心から溢れてしまって。
言えるのはどうしようもない、何の力もない想いだけ。
胸を掻き毟って苦しみに堪えて、それでも抱いてきた想いだけが。
「・・・っ・・・好きだ・・・」
透明な雫が想いと共に零れ落ちた。
月光の中でエドワードが笑った気がした。
それが嬉しくて愛しくて悲しいから、想いが止められない。
ずっとずっとずっと。
「好きだ、好きだ、ずっと前から好きだった。鋼の、君だけが・・・・・・っ」
言えなかった。明日もあるからと言えなかった。
こんな日が来ると判っていたなら、何にも気にせずに言えば良かった。
余裕もポーズもすべて投げ捨てて、どんなに情けなくても請えば良かった。
ただ、好きなのだと。好きになって、欲しいのだと。
「・・・・・・愛している。本当にずっと、君だけだ。鋼のだけを愛してきた。鋼のだけを、愛している」
零れ落ちる涙に月光が映って消えた。
子供のように泣きつづけるロイに、エドワードが静かに歩み寄る。
コートの中から手を差し伸べて。
触れるのを戸惑うように怖々と、ゆっくりとロイの頬へと近づけた。
寄せられた手の温かさにまた涙が零れて。愛しさが募って。
「・・・・・・相変わらずしょうがねぇな、大佐は」
困ったように笑うエドワードを抱きしめた。
夢にまで見た、温かな、確かな身体だった。
「泣くなよ、大佐」
エドワードが優しく言うから、余計に涙が零れる。
安心させるかのように背中を撫でられて、抱きしめる腕を強くして。
まだ現実だとは思えない。月が見せる幻かもしれない。
「俺はここにいるよ」
頬に寄せられる指に、そっと肩口から顔を上げさせられて。
7年ぶりに見ることの出来た太陽のような瞳は、今までで一番近くにあった。
瞼にキスが落とされる。
ロイの頬を伝う涙を、そのままゆっくりと唇でなぞる。
頬に、鼻先に、顎に、眉間に、すべての箇所に口付けを降らせて。
エドワードの目はロイのそれと合わされていた。
浮かぶのは、狂おしいまでの愛おしさだけ。
「・・・・・・ロイ」
初めて呼ばれた名前に、どうしようもなくなって唇をぶつけた。
すべて奪うように、すべて与えるように、この想いをすべて伝えるように。
深く深く、口付けた。
月光が儚い影を作る。
「・・・・・・エドワード・・・っ」
言葉にしきれない想いが、コートと共に滑り落ちた。
スプリングの立てる音も気にならなかった。
窓から入ってくる月光でさえもエドワードに触れることを許したくなかった。
この手で熱を分け合って、この身体で想いを伝えて。
高い声を発して反らされる喉に唇を寄せる。
染まっていく白い肌に所有の印を刻み込む。
無我夢中で抱いた。隙間もないほど抱きしめられた。
初めてする彼との行為は、この世のものとは思えないほど熱を帯びていて、堪えきれなくて。
離れないように何度もその身体を抱きしめた。
握った手を、放さないまま。
何度も互いの名を呼び合った。
「・・・・・・世界の果てを見てきたんだ」
波のように乱れたシーツに溺れながら、エドワードが口を開いた。
うっすらと染まっている頬は扇情的で、ロイは啄むように唇を寄せる。
「願いを、叶えたくて。そこに行けば何か得られると思って」
温かな右腕と左足が、ロイの身体に絡み付く。
「ずっと探してた。俺もアルも、元に戻りたくて。ロイにこうして、触れてほしくて」
まだ放れない互いに吐息が漏れた。ロイがそれを唇で拾う。
艶やかな金糸を握り込んで、傷一つない肩口に小さく歯を立てて。
「会いたかったよ、ずっと。俺もロイに会いたかった。ロイのことを考えない日は一日だってなかった」
「・・・エドワード」
「好きだよ、ロイ。今まで言えなかったけど」
微笑むエドワードを消えないようにきつく抱きしめた。
「愛してるよ」
嬉しいはずの言葉なのに、何故か涙が頬を伝った。
抱いている身体は温かいのに、何故かひどく切なかった。
雲が月の姿を隠した。
身を起こそうとするエドワードを押さえつけて、何度目になるかも判らないキスをする。
そのままもう一度、波に呑まれた。
触れる熱も、請われる口付けも。
刻まれる傷も、腕を掴む指も。
全部全部愛しい彼のものなのに。
なのに何故か切なくて胸が苦しくなる。
幸せに満たされてもいいはずなのに。
喜びに溢れてもいいはずなのに。
不安を感じて押し潰されそうになる。
その原因をロイは頭のどこかで判っていた。
認めたくはないけれど、心のどこかが判っていた。
再会を喜ぶには、エドワードの表情が穏やか過ぎた。
それはまるで。
今回こそが、最後の逢瀬であるかのように。
躊躇いもなくロイに身体を預け、望まれるままに彼を受け入れる。
譫言のように何度も名前を呼んで、浮かされるように何度も睦言を繰り返して。
それもすべて最後だから。
これが最後の行為だから。
最初で、最後の。
涙が頬を伝った。
きつく抱きしめて、このまま放さずにいられたら。
誰にも見せずに二人して一緒に、日々を過ごして、怠惰に生きて。
大総統の地位もいらない。明日に控えている名ばかりの結婚もいらない。
すべてを捨てて、ただ二人で。
二度と離れずに生きていけたら。
そうしたら、それだけで。
「・・・・・・もう、行かなきゃ」
月が西の空へと差し掛かる頃にエドワードが呟いた。
それをかき消すように、ロイは抱く腕に力を込める。
ようやく会えたのに、やっと想いを告げられたのに、互いを愛してると判ったのに。
それなのに、何故。
「・・・・・・・・・君のことを錬成しようと何度も思った」
告げられた想いにピクリとエドワードの肩が震える。
細い身体を抱き寄せて、ロイはその肌をきつく吸い上げた。
舌で舐め上げて、もう一度快感を追って。
声を漏らすエドワードを逃がさないように搦め捕って。
「死んでいると誰もが言った。それならばまだいい。月日が経つにつれて君は話題にも上らなくなった。時折思い出して話すだけだ。『鋼の錬金術師は本当にいたのか』―――と」
いないというならば、自分のこの想いは何だ。
夢にまで見た金色は何だ。この心も身体も奪い去ったのは誰だ。
「君は知っているか?自分の愛しい者を、ひいては自分自身を無かったことにされる虚しさを」
「・・・ぁ・・・っ」
「腕だろうと足だろうと心臓だろうとやってもいい。それで君と会えるなら安い物だと何度も思った」
「な・・・っふ・・・」
「会いたかった。エドワード、君に会いたかった。こうして口付けて、身体を繋げて、その心に触れたかった」
「・・・ロィ・・・・・・」
「エドワード」
祈るように名を呼んで、神にさえ縋ってもいい。
君がここにいてくれるのなら。隣で笑って居てくれるのなら。二度と離れないと誓ってくれるのなら。
地に伏せて頼んでもいい。世界中に祈ってもいい。
望みはたった、一つだから。
なのにどうして判ってしまうのだろう。
君がこの手をすり抜けていってしまうことを。
「ロイ――――――・・・・・・っ!」
高い声を上げてエドワードが泣いた。
抱きしめる互いの腕だけが唯一なのだと思いたかった。
消えていた月が現れて、エドワードの金糸を輝かせる。
つけられた行為の跡は、コートを羽織っても隠し切れるものではなかった。
けれどとても幸せそうに、エドワードは穏やかに笑う。
未だベッドにいるロイに近づいて、その頭を宥めるように、子供にするように抱きしめて。
「元気でな」
黒髪をゆっくりと撫でて。
「中尉の言うこと、ちゃんと聞けよ。少尉たちにも迷惑かけんな」
顔を見せない相手の耳元で囁いて。
「奥さんのこと、ちゃんと大事にしろよ。子供が生まれても俺の名前だけはつけるな。中佐の名前にでもしといて」
愛しそうに頬を寄せて。
「ロイが大総統になるの、楽しみにしてる。だから絶対に、諦めたら許さない」
鼻先を擦り付けて。
「好きだから」
唇で、額に触れた。
「ロイのことだけが好きだから」
泣きそうになるのを必死で抑えて。
「どんなに遠く離れてても、会えなくても、俺はロイだけを想ってるから」
抱きしめる腕に力を込めて。
「忘れて、いいよ。幸せになれ。ロイの幸せが、俺の幸せだから」
エドワードは、微笑んで言った。
「この世界が終わっても、俺はロイを愛してる」
サヨナラとだけは、言葉に出来なかった。
消えた体温と入ってくる風に身を起こす。
開けられた窓の端でカーテンが揺れていて、エドワードの姿はすでになかった。
急いで立ち上がりバルコニーへと走る。
月の下、金色の髪が翻って遠くなっていくのが見えた。
背の高い門に手をかけて、軽い跳躍で一飛びにして。
エドワードが去っていく方向に彼とは違う金色が見えて、ロイは暗闇に目を凝らす。
エドワードよりは色の薄い、短い髪を持った人物。
その影はエドワードが自分を追い越していくのを見送って、こちらへと向かって深く頭を下げた。
バルコニーにいる、ロイへと向かって。
そして自分も街へと姿を消していく。
金色は、闇に呑まれて消えた。
その影がエドワードの弟だとロイが気づいたのは、完全に二人の気配が消えてからだった。
彼はもう、いない。
結局聞きたいことは何も聞けずに、言いたいことは何も言えずに。
ただ別れだけを残してエドワードは消えた。
今度こそ、完全に。
愛してると告げて、彼は消えた。
「――――――はっ」
ロイの口から嘲笑が漏れた。
月光の中で見下ろす手は、まだエドワードの熱を残している。
「ははっ・・・・・・ははははははは!」
狂う。狂ってもいい。この熱を覚えていられるのなら正気さえもくれてやる。
雫が零れ落ちて絨毯を濡らした。音を立てて終焉を伝える。
薙ぎ払うようにしてロイは月光を遮った。
笑う声が掠れて、涙と混ざって嗚咽に変わって。
力を失った膝が床へと崩れた。けれどそれすらも構わずにロイは月を払い続ける。
「・・・エドワード・・・・・・っ!」
彼はもう、いない。想いはもう、届かない。
月だけが残って、ロイを照らし出している。
頭を抱えて、子供のように丸くなってロイは泣いた。
今もまだ、彼の声が残っている。
「この世界が終わっても、俺はロイを愛してる」
血の滲む手の平を握りしめて、愛している彼にだけ誓う。
同じ言葉を今、一生を懸けて君に捧ごう。
君だけにすべてを捧ぐ。この世のすべてを、君のために。
世界の果て、愛の終焉。
すべての出来事が終わりを告げた夜。
月だけが、闇に浮かんで輝いていた。
2003年11月28日