01:ただ、偶然かもしれなかったあの瞬間
初めて会ったとき、名を聞くことはしなかった。
いや、したのかもしれない。けれどそれも覚えていない。
もう会うことない相手だと思っていたから。
ひどく惹かれてはいたけれど、時の流れが違う相手だと思っていたから。
「ただいま」
いつもと同じように窓から帰ってきた家族に、一同は驚いたように目を丸くした。
かたん、と利達の筆を置いた音がやけに大きく響く。
返答が返ってこないのに首を傾げて、利広はもう一度言う。
「ただいまって言ったんだけど・・・・・・」
「お帰りなさいまし」
宗麟である昭彰が穏やかに微笑んで、一つだけ主の居ない椅子を引いた。
利広は騎獣をそのまま窓の外に放置し、軽やかに室内へと踏み込んで席に着く。
「・・・・・・今回はずいぶんと早い帰りだねぇ。まだ一ヶ月も経ってないんじゃないかい?」
「本当。一瞬幻でも見てるのかと思っちゃったわ」
「母さんも文姫もひどいなぁ・・・・・・」
「日頃の行いの所為だろう」
苦く笑う利広に、利達が呆れながらも冷ややかに追い討ちをかける。
利広はさらに困ったように頬を掻いた。
「―――それで、何か急いで知らせることでもあったのかね?」
自分の父親でもあり、この奏の王でもある宗王に湯呑みを差し出されて利広は受け取る。
温かいお茶を飲みながら、今度はいつもと同じように穏やかに笑って首を振った。
「いや、特に急な報告はないんだ。ただ今回は雁を見てきたんだけど、すごく楽しかったから他国を回る気もしなくなっちゃって」
「雁?」
「楽しかった?」
「うん、そう」
きょとんとした家族を見ながら利広はくつくつと小さく笑う。
「雁は・・・・・・ちょうど二山を迎える頃か」
二山とはその国の王の死に頃を意味する。国家存続のための大事なとき。
利広は宗王の言葉に浅く頷いた。
「どうやら問題なく先に進みそうですよ。いや、問題はあるのかな」
「どういう意味だ?」
利達の問いかけに楽しそうに笑って。
唇から漏れる声を抑えるようとすると、どうしても肩が震えてしまう。
放っておけばしばらく笑い続けそうな利広の様子を家族は珍しそうに、訝しそうに見つめた。
「いや・・・ね」
笑いを噛み殺しながら利広が言う。
「雁の関弓である二人組みを見たんだ。片方は酒瓶を提げた若い男で、もう片方は饅頭を食べている小さな子供」
「それがどうかしたの?」
「どうかしたんだよ」
笑い声はまだ止まない。
「仲良さそうに露店を冷やかしながら歩いているから、兄弟か、あるいは親子だと思ったんだけど―――それがまぁ」
片手に袋を抱えている子供。
その袋から饅頭を奪って頬張る男。
文句を言う様子と、それを受け流す仕草。
それはひどく微笑ましくて、見ているこちらさえも明るくなってしまうような。
実際に利広は思わず足を止めてその二人を眺めていた。
・・・・・・・・・が。
「「「「官吏が迎えに来た!?」」」」
昭彰以外の四人の声が重なる。堪えきれなくて、ついに利広は卓につっぶした。
握っている拳がふるふると小刻みに揺れている。
明嬉が目を丸くして呟く。
「・・・・・・官吏が来たってことは、その人らはお尋ね者ってことかい?」
「え、でも迎えに来たんだから違うんじゃないかしら?」
妹の言葉に利広は卓から顔を上げて。
「正確に言えば『連れ戻しに来た』ってところかな」
「じゃあ・・・・・・」
「うん、そう。皆の考えてる通り」
思い返すだけでずっと笑っていられそうな。
「男と子供は、延王と延麒だったよ」
心から満面の笑みを利広は浮かべた。
結局は官吏を撒いて逃げてしまったんだけど、と付け足しながら。
雑踏でその姿を見かけたとき、どんなに嬉しかったか。
その顔が、身体が、年を止めているということが、どんなに嬉しかったか。
人よりも長い時間を共にすることが出来るかもしれない。
ずっと会いたいと、在りたいと願い続けても良いのかもしれない。
ひどく惹かれていることだけは確かだから。
今度どこかの国で出会ったら、ちゃんと名前を聞くことにしよう。
共に在り続けたい、彼の名前を。
そう思って利広は緩やかに微笑むのだった。
雁主従、お膝元で遊んでいるのを目撃されるの巻。
利広さんは次回会ったときに名前を聞いて、「風漢」と偽名を教えられます。
だけど利広さんにとってはそれも嬉しい事だったのでしょう。きっと。
2004年10月2日