Cher Lamperouge
1.世界などくそ食らえ
その声はいつだって柔らかかった。穏やかだった。慈しみを帯びていた。洗いたてのシーツで包んでくれるように、お日様の香りをいっぱいに浴びているように、心だけでなく身体にも染み渡るような声で、いつだって兄は自分に話し掛けてくれる。その声が荒げられたのをナナリーは聞いたことがない。兄はいつだって、自分にだけは優しい。そう、どんなときだって。どんなときだってずっと。
「ナナリー、三日だ。三日間だけ、ここで待っていてほしい」
手を握る兄の指は、かさかさで少し痛い。かつては滑らかな絹のような肌だったのに、今は酷く傷んでいる。それが何のせいか、ナナリーは知っている。
「三日ですべて整えてくるよ。屋根のある家、温かい食事、綺麗なお風呂、ふわふわのベッド。そうだね、花の咲いている庭なんかもいいね」
小さく兄が笑う。だからナナリーも笑った。握る手のひらは小さい。声もまだ高い。それでも少しずつ、少しずつ兄は成長している。自分を背負って長い距離を歩けるようになり、他人の気配を察知して身を隠す術も身につけた。他にもいろんなことを学んだのだろう。すりきれた指先が、その証。
「三日で帰ってくるよ。必ず帰ってくる。だからナナリーはここにいてほしい」
食糧はここに置いておくから。タオルと水はこっち。ここは廃墟だから日本人にもブリタニア人にも見つかることはないと思う。言葉を連ね、兄は手を握る。
「三日って、どのくらいですか?」
「一分が60秒だから、一時間は3600秒。それを72回数えると三日だよ。259200秒だ」
「分かりました。待ってます」
「ありがとう、ナナリー。必ず戻ってくるよ。必要なものを手に入れて、必ず」
近づく気配がして、額に柔らかなものが押し付けられる。唇ですらかさついている兄に胸にこみあげる物を感じがら、ナナリーはそっと顎を持ち上げて身を乗り出した。唇は兄のどこに触れただろう。頬だろうか、鼻だろうか、唇だろうか。光を閉ざした視界では、表情すら見えないけれど。
「いってらっしゃいませ、お兄様。どうかお気をつけて」
「いってきます。ナナリーも気をつけて」
手を包んでいた指が離れていく。立ち上がる絹擦れの音。起こる足音は小さくなって消えていく。残されたナナリーは、両の手のひらを握りしめ、そっと唇を震わせた。
世界はまったくもって優しくない。大地にはこびるのは血と憎悪と人間ばかり。綺麗なのは兄だけだと、ナナリーは微笑んだ。
いってらっしゃいませ、お兄様。ナナリーはずっと待ってますから。
2007年5月5日