強さに殉ずる
1.漆黒の出会い
その日、咲世子が連れて行かれたのは本国の中でも最も貴い、聖地と呼ばれるに相応しい場所だった。皇帝が唯一神として頂点に座し、すべてを統括している神聖ブリタニア帝国。その中心と呼ぶべき皇室は、家族などという言葉で表すにはあまりに不適切な大きさだった。皇妃の数だけで五十を超え、それは宮の数に等しいという。ひとつひとつの離宮にそれなりの広さがあり、付随した庭がついてくる。車で行き交わなくてはならない「自宅」など無粋なだけだ。嫌いな顔を見なくて済むためのものかと思えば、それすら失笑に変わるのだから見事だと咲世子は心中で囁く。先に車から降りて後部座席のドアを開ければ、十二歳の少女が飛び出してきた。大公爵家の令嬢に相応しくない行動だが、本人もそれに気づいたのだろう。すぐさまスカートの裾を直し、髪を整える所作は咲世子からしても微笑ましい。祖父であり咲世子の雇い主でもあるルーベン・アッシュフォードも車を降り、孫娘の姿に苦笑した。行きましょう、と弾んだ声でミレイが二人を引き連れて宮の門をくぐる。整然を好むブリタニアにしては割合と自然に近い緑だと、咲世子はその庭を評した。
ブリタニア宮殿の中でも、比較的本殿に近い場所にあるアリエスの離宮。主であるマリアンヌの出自は庶民とのことだったが、咲世子は彼女を一目見て与えられている境遇の良さの原因が何たるかを理解した。美しかったのだ、マリアンヌは。豊かな黒髪を背に流し、凛とした姿勢を保ちながらも柔和に微笑む姿は、内に走る確固とした芯を感じさせる。なるほど、これならば貴族の令嬢とも互角に渡り合っていけるだろう。マリアンヌを見初めたブリタニア皇帝は見る目がある。
「あら、新しい方ね」
声は意外にも僅かなアルトで、耳に心地よい。しかしそれよりも驚くべきは、マリアンヌが日本人である咲世子を前にしても態度を何ら変えなかったことだ。ブリタニア人は種を蔑する。同じブリタニア人を重宝し、他を見下す傾向にある。いくら庶民の出とはいえ、すでに皇妃であるマリアンヌも自分に良い顔はしないだろうと考えていた。しかし咲世子のその推測は外れ、マリアンヌはまっすぐに視線を合わせてくる。深く頭を下げ、許しを得て顔を上げて数瞬。咲世子は理解した。マリアンヌは皇妃ではなく、戦士だ。だからこそ人種などというくだらない枠に捕らわれないのだ。
「新しく雇ったメイドでね。サヨコ・シノザキという」
「ルーベンが見初めたのなら、きっと優秀な方なのでしょうね。はじめまして、私はマリアンヌ・ヴィ・ブリタニア。こちらは息子のルルーシュと、娘のナナリー」
「はじめまして、ミス・シノザキ」
青のドレスのふわりとした裾の左右に並んでいる子供たち。右側にいた少年が歩み出て、咲世子に向かって笑顔を浮かべた。ルルーシュという名のこのブリタニア第十一皇子に関しては、咲世子も多くのことを知っている。その情報源はほとんどがルーベンの隣で瞳を輝かせているミレイで、凄く綺麗で賢い子なのだと噂には聞いていた。確かにミレイの言葉は真実だった。ルルーシュはマリアンヌの美貌を余すところ無く受け継いでいると言ってもよい、将来を嘱望させる美童だ。
しかし左側にいる娘、ナナリーは紫の瞳を瞬かせている。波打つ豊かな髪だけがマリアンヌに似ており、他はおそらく父親似だろうと思われる小さな少女は、母のドレスを握り、不思議そうに問いかけた。
「おかあさま、このかた、ナナリーとちがいます」
舌足らずな口調は幼さよりも無知を示しており、やはり、と咲世子は薄く笑う。やはり小さくてもブリタニアはブリタニア、そういうことなのだろう。これではどんなに貴いと讃えられようとも、その心根は民草にすら劣る。いや、環境がそうさせるのか。だとしたらブリタニアという国丸ごとが愚な物に違いない。
ミレイが眉を顰めても、ルーベンが眼差しを伏せても、咲世子の表情は動じない。ただこの宮に足を踏み入れたときと何ら変わらない微笑を浮かべて、彼らの前に立ち続けるだけ。それがメイドとしての己に許されていることなのだと理解していたし、ブリタニアの醜さも認識でき、屈辱どころか咲世子の心中は愉快だった。しかしそれを静止させたのは、高い少年の声だった。
「・・・分からない。ナナリー、僕にはミス・シノザキが僕たちとどう違うのか分からないよ」
「おはだのいろがちがいます。ひとみも、かみも」
「肌や瞳や髪の色が違うと、何か問題でもあるのかな。だって僕とナナリーも髪の色は違うよ」
「ひとみのいろはおんなじです」
「それはきっと、僕とナナリーは血が繋がっているからだね。ナナリー、知らないのなら教えてあげる。人はね、みんな違うんだ。同じ人なんてこの世にひとりもいないんだよ。それに本当に見るべきなのは、肌の色でも髪の色でもない。心の色だ。・・・ナナリーには、まだ少し難しいかな?」
困ったように眉を下げて、ルルーシュは妹の髪を撫でる。彼はそのまま咲世子の前まで歩み寄ると、深くその頭を下げた。ブリタニア皇族が、他人種である日本人に頭を垂れるなんて。ルルーシュ様、と思わずミレイが叫んでいたが、咲世子も似たような心境だった。再び顔を上げたルルーシュは、酷く申し訳無さそうな顔をしていた。
「ミス・シノザキ。あなたの心を傷つけてしまいました。どうかお許しください」
「いいえ、ルルーシュ殿下。勿体無いお言葉です」
「さっきは違うと言ったけれど、やっぱり同じですね。僕と、あなたの髪の色。ほら、お揃いの真っ黒です」
身長差の関係とはいえ見下ろすことなど出来ず、咲世子が床に膝を着けば、ルルーシュは自身の短い髪を示すかのように少しだけ摘まみ引っ張ってみせた。明確に気遣いなのだと分かる。ルルーシュは敏く、そして聡い。マリアンヌが泰然と微笑んでいるのが咲世子にとって印象的だった。
「お星様が輝く夜の色。僕のとても好きな景色です」
さもあっさりと述べたルルーシュに、さすがの咲世子も唖然としてしまった。何たる殺し文句を吐き出すのだろう、この子供は。
その翌日から、咲世子はアリエスの離宮にメイドとして派遣されることが決まった。それはマリアンヌから寄せられた希望であると共に、ルルーシュの意を汲み取ったルーベンからの指示だった。
(ああなんて、きれいな皇子様だこと。)
2.イエス、マイ・ロード
「いらっしゃい、咲世子。アリエスの離宮にようこそ」
諸手を開いて歓迎を示したのはマリアンヌだ。昨日とは異なる、それでも仕立てのよいシンプルなドレスに身を包んでいる彼女が、今日から咲世子の主となる。座って、とテーブル越しのソファーを示され、一礼してから腰掛けた。その所作をずっと見られていることには気がついていたし、気づかれているということにマリアンヌ自身気づいているだろう。何度かアッシュフォード家で見かけたことのあるメイドが紅茶を並べ、音を立てずに部屋から出て行く。彼女もこの宮に来ていたのかと認識すると同時に、そういえば確かな器量を持っていたとも思い出した。ルーベンはメイドとしての働きだけでなく、人として優れた輩を皇室に送り出しているらしい。それも当然だと咲世子は思う。この目の前のマリアンヌが、アッシュフォード大公爵家の命運を握っていると言っても過言ではないのだ。彼女の一言でアッシュフォードは浮沈する。
「本日よりお世話になります、サヨコ・シノザキです。至らない点などあるかと思いますが、どうかよろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ。昨日はナナリーが不快な思いをさせてしまってごめんなさいね。あの子はまだ皇室しか知らないものだから」
「いえ」
「だけど駄目ね、やっぱり。周囲が陰険な輩ばかりだから、ちゃんと教育しないと皇室の色に染まってしまうわ。せっかくシャルルに似て可愛い子に生まれたんだから、中身も可愛く育ってもらわないと」
マリアンヌの口からは、ぽんぽんと己を取り巻く環境に対する軽口が出てくる。皇妃にあるまじき態度と物言いでありながらも、咲世子は逆に好感を持った。マリアンヌは仕えるに値する主だろう。少なくとも他のブリタニア人のように高慢ではないから、その点だけでも評価できる。
「あなたには、今日からルルーシュ付きのメイドとして働いてもらいたいの」
「ルルーシュ殿下の、ですか」
「あの子はあなたがブリタニア人ではないからといって差別をしないし、何よりそれは昨日のことで分かるでしょう? 自分のことは自分で出来るように躾けたし、手のかからない良い子よ。ただシャルルに似て運動神経が悪いから、その点だけは注意して見てあげて」
「宜しいのですか? 私のような新参者が、ルルーシュ殿下のお傍になど」
「構わないわ。あの子があなたを気に入ったようだから」
「メイドの振りをして、殿下を害するやも」
「あら、私ったらそんなに見くびられているのかしら。前線を退いたとはいえ『閃光のマリアンヌ』の名は伊達じゃないのよ。殺気を感じたら咲世子、あなただって一瞬で殺せるわ」
ふっとマリアンヌが唇を綻ばせた瞬間、咲世子の今までの経験がメイド服のスカートの下から鋭いナイフを抜き出させていた。反射的にマリアンヌの首筋を狙ったが、下から飛んできたソーサーが手首を強かに打ち、角度を逸らす。次の一手を繰り出すよりも早く、咲世子の視界は金属に覆われていた。紅茶に副えられていたティースプーンだ。見事に輝いているシルバーの向こう、いつでも眼球を潰せる位置でマリアンヌが笑っている。
「信じてくれた?」
「・・・はい。出過ぎた真似を、どうかお許しください」
「活発な子は好きよ。性格が悪い子も、口が悪い子もね」
どうやら完全に見透かされていたらしい。咲世子が表情に出して失笑すれば、マリアンヌも楽しげにころころと声に出して笑った。一回り近く年の離れている皇妃がまるで姉のように感じる。いい職場を得たと、咲世子は心からそう思った。
「あなたの経歴はルーベンから聞いてるわ。天涯孤独になって拾われたのだということも、篠崎流の第三十七代目だということも。すべて知った上で、あなたにルルーシュを任せたいのよ。あなただからこそと言うべきかもしれないわね。ルルーシュはナナリーと違って皇位継承権が高い、能力からいってもシャルルの跡を継げる子だから」
玉座に就ける可能性のある皇子。それすなわち、それだけの命の危険も負っているということだろう。アリエスはともかく、その他の宮はどうやら咲世子の抱くブリタニア像とたいして変わりがないらしい。もっと酷いわね、とマリアンヌは馬鹿らしいことのように頭を振った。
「ルルーシュが皇帝になることを目指すなら、あの子の人生なんだもの、好きにすればいいわ。だけど母親としては自分の息子が殺されることだけは許しがたいのよ。復讐は嫌いじゃないけど、私がするとなると皇室中が惨劇に染まるわ。さすがにそれは不味いでしょう? だから咲世子、あなたはルルーシュの死だけは避けてちょうだい。私から命じるのはそれだけよ」
「かしこまりました。この篠崎咲世子、命に代えましてもルルーシュ様をお守りすることを誓い申し上げます」
「ありがとう。ああそれと、向かってきた輩は殺しても大丈夫よ。軍で培ってきた杵柄でね、手を貸してくれる人は大勢いるの。身元不明の死体がひとつくらい増えても戦場じゃ誰も気にしないわ」
「御意」
「それと、このことはルルーシュには内緒ね? 私、良いお母さんでいたいもの」
唇に人差し指を立てて秘め事を約束され、咲世子も笑って頷いた。あの敏いルルーシュが気づくのも時間のうちかもしれないが、それは成長具合によるだろう。昨日見たままの、優しい純真な皇子であり続けるのなら、きっと生涯気づくこともあるまい。だけどそうはならないだろうと、何故か咲世子は予感していた。
その後紹介された新たな主は、やはり美しい子供だった。よろしくお願いします、咲世子さん。今度は頭を下げずに手を差し出してくる姿は、やはり一端の皇子に相応しい所作だった。
(よろしくお願い申し上げます、我が君。)
3.キングメーカー
ルルーシュは確かにマリアンヌの言う通り、手のかからない子供だった。朝は六時に自分で起きるし、クローゼットから制服を取り出して自ら着替える。挨拶は誰に対してもきちんとするし、テーブルマナーも完璧で、定時から一分足りとも遅れることなく「いってきます」と言って迎えの車に乗り込んでいく。ルルーシュが初等学校に行っている間に部屋の掃除をするけれども、汚されること無くいつだって整っているし、ベッドの下を除いてもアダルト雑誌どころか日記帳すら見つからない。ゲームをしないわけではないからゲーム機を所持しているし、漫画を読まないわけではないから本棚にはちゃんと子供向けの本も並んでいる。だからといって勉強を疎かにすることもないから宿題は毎日こなすし、政治経済に興味がないわけでもないからニュースや新聞にはちゃんと目を通す。不思議な子供だ。それが咲世子のルルーシュに対する印象だった。不思議な子供だ。すべてに対して誠実である、そんな印象すら受ける。素のルルーシュという子供がどんな個性をしているのか、咲世子は捉えきれずにいた。これならばまだ戸惑って距離を取って気にしてくるナナリーの方が、ずっとずっと分かりやすい。
「ただいま帰りました、咲世子さん」
「お帰りなさいませ、ルルーシュ様。学校はいかがでしたか?」
「いつも通りでした。ああでも今日は、ミレイとニーナと一緒にお昼を食べました。中庭に猫がいて、とても可愛かったです」
『いつも通り』だけでなく、具体的にエピソードを混ぜることで相手が安心することを知っているのだろう。ルルーシュの行動は咲世子からするに、他愛ない子供の気遣いではなく綿密に計算されているそれだった。自分がどう行動すれば最も模範的なのか、ルルーシュは知っている。これがマリアンヌの仕込んだ「自分のことは自分でする」行為なのだとすれば、実に見事な教育だ。他に迷惑をかけない、他に心配をさせない、それすなわち他に付け入る隙を与えないことに等しい。出来すぎた皇子だと、咲世子は思う。実に出来すぎた、作られた皇子だ。だが、このまま皇帝になるには些か面白みが足りない。悪く言えば個性が無い。
「ルルーシュ様、今日のお茶は何になさいますか?」
「そうですね、じゃあダージリンを。メーカーは咲世子さんのセレクトに任せます」
「かしこまりました。本日のおやつには、プリン・ア・ラ・モードをご用意させていただいております。テラスにご用意してよろしいでしょうか?」
「はい。二十分もあれば宿題も終わるので、そうしたら行きます」
「お待ちしております」
ルルーシュは甘いものを好む。プリンの名が出たところで瞳が一瞬綻び、その表情は子供らしくて咲世子も微笑んだ。この出来すぎた皇子に個性を持たせることが己の使命なのだと、咲世子は理解をしている。マリアンヌは死なせなければいいと言ったが、それだけではつまらない。この皇子をどこまで皇帝に相応しい人物に変えられるか、それが咲世子の抱く仕事へのモチベーションになっていた。さて、まずは勝利の味でも覚えていただこう。テラスのテーブルにクロスを敷き、その上にチェス版をセットする。生贄は誰にしようか。顎に手を沿え、咲世子は最適の人物を選択し始めた。
(今日はチェスでもいかがですか? 第三皇子、クロヴィス様に教わってはいかがでしょう。)
4.そして知ること
咲世子がアリエスの離宮に勤めるようになって、二年。ルルーシュは初等学校を卒業し、付属の中等学校に入学した。半ズボンだった制服が変わり、すっきりとしたシルエットが少しだけ大人の雰囲気に近づける。幼さを脱し始めたことでルルーシュの美貌はもはや隠し切れないほどになってきていた。皇室の中でも目立つ、マリアンヌに瓜二つのそれ。柔らかい微笑を常としているからか、優しい皇子だという評判は未だ変化していない。しかし時折覗き始めた悪戯な光りに気づいている者も確かにいるようだった。結果としてルルーシュに年上に勝つことの楽しみを覚えさせる羽目になった、第三皇子のクロヴィス。自分はチェスが強いのだと思い込み始めていたルルーシュの自惚れを砕いた、第二皇子シュナイゼル。軍人だったマリアンヌに憧れて出入りするようになった、第二皇女コーネリア。弟妹誰しもに声をかける第一皇子オデュッセウスを除くとしても、ルルーシュはそうそうたる面々と関係を築き始めている。皆が母親の身分も高く、次期皇帝に近いと目されている人物だ。面白くなってきた。次はルルーシュに、どう征服欲を覚えさせるか。かいがいしい給仕の影で、咲世子は常に考える。手始めに、互いに好意を寄せ合っているらしいユーフェミアを抱かせてみるか。倫理に背いていようと子供さえ作らなければ問題ないだろう。そう画策していた咲世子を止めたのは、当のルルーシュ本人だった。
「あなたから見れば、きっと僕は何不自由なく生きてきた幸せな子供に見えるのでしょう。それを否定するだけの材料を僕は持たないし、実際に恵まれた生活を送らせてもらっている。飢えも貧困も、縁遠い言葉だ」
自室の窓際に立つルルーシュは、咲世子の目から見ても美しい。差し込む光が陰翳を作り、睫毛の本数さえ数えられることだろう。声は少しずつ低くなり、それだけがマリアンヌとの目に見える差異だ。否、薄いままの胸もそうだろうか。マリアンヌが備えている柔らかさを、ルルーシュは持っていない。代わりにすらりと伸びた折れそうな手足が少年期の危うさを助長させている。最近になって増え始めた縁談の話。アッシュフォードのミレイは良いとしても、後は適度に潰さなくては。ルルーシュはこれから更に変貌するのだ。余計な芽は早めに摘むに限る。
「それは恥ずべきことではありません。ルルーシュ様は皇子なのですから、恵まれているのは当然のことなのです」
「選ぶことの出来ない出自に何の意味が? 真に認められるべきは個人の為してきた経験だ。その点でも僕は空っぽであることを理解している。母上に作られた皇子の見本品。そこにあなたが息を吹き込み、螺子を巻こうとしている」
「わたくしはルルーシュ様のメイドです。そのようなことをどうしてすることが出来ましょうか」
「まっさらな皇子に様々なことを教え込んでいく。楽しかったですか? 僕はあなたの娯楽になれましたか?」
「ルルーシュ様」
少し声音を強めれば、ルルーシュが身体ごと振り返る。敏い彼のことだから、いつしか気づかれることなど予想していた。だが、意外にも早かった。予定ではあと三年は誤魔化せただろうに、一体どこから齟齬が生じたのだろう。心中で舌打ちするけれども、表情には出さない。少なくとも二年、咲世子は忠実なメイドとしてルルーシュに仕えてきた。信頼も得ていると自負している。そんな輩を切り捨てることが出来るほど冷酷でないことも、すでに十分確認してきた。
「僕自身、負い目もあった。皇子であることに、恵まれた生活を送ることに。けれど憐れむことは侮蔑なのであり、分け与えることは屈辱なのだとも理解していた。所詮、僕は皇子だ。民と同等になることは出来ず、皇室という引かれたラインの中で生きるしか許されない。そう思っていた。だけど違った。咲世子さん、あなたは僕に与えてくれた」
「わたくしが、ルルーシュ様に?」
「そう、あなたは僕に与えてくれた。最も足りなかったものを。誰かに殺意以上に恨まれるという、底のない憎悪を」
あなたは僕に、それを向けてくれた。微笑んだルルーシュの美しさが理解できず、その言葉すら咲世子の脳に届かない。何を言っているのだ、この子供は。瞠った瞳に、ルルーシュは言葉を連ねる。
「あなたの出自を、僕は知らない。けれどあなたが他人を憎んでいることは理解できる。その言葉に、態度に、眼差しに、思考に、あなたはあなたの持つすべてのものに悪意を注ぎ込み、そして相手を毒そうとしている。無意識なら構わなかった。僕だけなら構わなかった。だけどあなたは、他の人まで巻き込もうとしている。それだけは許さない。そうはさせない」
こつん、と靴音が聞こえる。ルルーシュが一歩踏み出した足音だと理解するまでに時間がかかった。二歩、三歩と彼は距離を詰めてくる。身をかわすべきだと判断したが、メイドとしての仕事意識がそれを拒んだ。50センチメートルの距離で相対するルルーシュは、いつの間にこんなに背が伸びていたのだろう。目線が、等しい。咲世子は紫の瞳に覗き込まれて愕然とした。いつの間に、この眼はこんなにも深い色合いを帯びていたのか。
「あなたがどんな風に生きてきたのか、僕は知らない。あなたに僕をあげられたなら良かったけれど、それももう出来ない。あなたの憎悪が教えてくれた。僕はこの身を晒して生きていかなくては、皇族たる義務を果たせない」
頬に触れる指先は随分と骨張っている。邪魔な肉を削ぎ落とし、子供から少年へと成長している身体。この二年、決して傍を離れず、ずっと見てきた。確かに、様々な画策をした。ルルーシュが個性を持てるよう、ただの皇子で終わらぬよう、君臨者としての自覚と才覚を教え込もうと計算してきた。それが咲世子の生きがいだった。注ぐ、すべてのものだった。だけどそれがすべて、憎悪によるものだった? 何に対する。何に対する。理解した瞬間、咲世子は自分の頬が一瞬にして熱を持ち、そして蒼白と化したのを理解した。己が可哀想だと思ったことなど一度もなかった。周囲を憎もうと思ったことなど、一度もなかった。だけど咲世子の世界に対する悪意は、その一滴残らずすべてがルルーシュへと注がれていたのだ。理解した瞬間、とてつもない羞恥が咲世子を襲った。何たる傲慢。何たる無恥。関係のないルルーシュを巻き込んだ。これじゃあまるで、子供の八つ当たりではないか。
「あなたの傷を癒せる術を、僕は知らない」
俯いた咲世子の頬を、ルルーシュに指先が撫ぜていく。その優しい触れ方にこそ、咲世子の恥が募って仕方がなかった。こんな、大切に扱ってもらう資格など己にはないのだ。今まで微笑で隠してきた心の内が、如何に醜いものであったかを知る。それを受け止め、すべて分かった上でルルーシュは付き合ってくれていたのだ。ああ、と吐き出したい溜息すら、申し訳なくて喉奥に飲み込む。
「あなたのものに僕はなれない。だからせめて、代わりの何かを贈らせて欲しい。あなたが望むなら出来る限りのことをしたいと思う。どうか、望むものを教えてくれないか?」
ささやかな力で上を向かされそうになったけれども、とてもじゃないが顔など見せられそうにない。何かを望むなど、それこそあってはいけないことだ。己こそどんな贖罪をしても償えないだろうに、それでもルルーシュは救おうとしてくれる。この優しさに自分はつけ込んでいた。理解した今だからこそ、申し訳なくて声も出ない。ただただ頭を振り続ける咲世子に、ルルーシュは困ったように笑ったらしかった。少しだけ気配が離れて、そしてまた戻ってくる。指先を取られ、何かを握らされる。触れた感触から植物だということは理解できたし、きっと近くの花瓶に生けてあった花だろう。しかしきつく閉じた瞼を開けることが恐ろしく、咲世子に確認する術はなかった。
「これは、今年のあなたに。来年も聞くよ。あなたが欲しいものを言ってくれるまで。それくらいしか、僕があなたにしてあげられることはないのだから」
ひとりにしてほしい心を察してだろう、ルルーシュが静かに部屋を出て行く。その足音を聞きながら、ついに堪えていた涙が雫となって咲世子の頬を伝った。親に先立たれ、一族すら喪い、ブリタニア人に蔑まれながら生きてきた。この選択に後悔などしていなかったはずなのに、無意識の悪意が咲世子の内には存在していた。誰に向ければ良いのか分からない感情が、すべてルルーシュに向かい、彼を創り上げて玉座に据えることで世界に対する復讐を果たそうとしていた。何て浅ましい愚か者。己への恥ずかしさで視界が霞む。
滲んだ世界に映る花は美しかった。まるでルルーシュのように鮮やかだった。あの方のために在らなくては。そう、言い聞かせた日だった。
(あの方の、ために)
5.嗚呼、貴い御心に
一切の欲を捨てよう。白いブラウスに腕を通し、上からボタンを順々に留めながら、咲世子は己に言い聞かす。一切の欲を捨てよう。何を思うこともなく、何を望むこともなく、ただルルーシュの願うままに行動しよう。時に影となり、時に光となり。彼の選び取る道を常に信じ、その三歩後ろをついていこう。玉座も、皇位継承権も、そんなものもうどうだっていい。マリアンヌの希望も、もはや忘れよう。ルルーシュが自ら死を選ぶというのなら、自分はその介錯をするだけだ。一切の欲を捨てよう。そして、ルルーシュのためだけに在ろう。何があろうとあの方の傍に。誓いを新たにして、濃紺のワンピースを羽織る。チャックを上げる際に音がして、己の手が震えていることに気がついた。
厚顔だと、ルルーシュは言うだろうか。否、優しい彼はきっと言わない。心中で思ったにせよ、それを表情に出さないだけの機微を彼は心得ている。暇を出すと、ルルーシュは告げるだろうか。否、敏い彼はきっと言わない。咲世子に帰る場所も行く場所もないことを、彼は知っていることだろう。では、では、ただ静かに微笑むだろうか。その可能性が最も大きくて、そして咲世子は恐ろしい。無かったことに、きっと彼はしないだろう。咲世子の行動はすべて彼女の意志であると、そう信じるに違いない。それは酷い暴虐だと思ってしまう。命令してくれれば、いっそ覚悟も決まるというのに。溜息を吐き出して、エプロンを結ぶ。
ヘッドドレスをつけ、鏡の中で全身をチェックし、与えられている私室を出れば一日が始まりを告げてしまう。ルルーシュ付きの咲世子にとって、最初の仕事は朝食の準備が済んでいることを確認し、その上で主を呼びに行くこと。幼い頃から仕込まれてきた所作は足音すら立てないはずなのに、今はこつこつと廊下を鳴らしてしまう。恥ずかしい。熱が頭に湧き上がってくる。それでも行かなくてはならないのだ。一切の欲を捨て、守るために。注ぎ込んでしまった無意識の悪意、その責任を取らなくては。コンコン、とノックをする手が震えた。息を吐け、心を静めろ。何と言われても良い、自分はただ彼を守る、そのためだけに在ればいい。
「失礼致します。おはようございます、ルルーシュ様」
「おはよう、咲世子。悪いが、今日は少し早く出たいんだ。リヴァルと代わって俺が日直なんだということを、綺麗さっぱり忘れていた」
違和感はすぐに分かったし、それが彼の変化なのだとは理解した。それでも表情に出てしまったのか、ルルーシュは瞬きを繰り返す咲世子に苦笑しながら、ネクタイを軽く緩める。片口だけを吊り上げてみせた顔は、13歳という年齢すら忘れさせる皮肉気なものだった。あまりの唐突な変貌に、戸惑うよりも圧倒させられる。
「変かな?」
「・・・いいえ、そんなことはありません」
「良い皇子のままでは、俺はシュナイゼル兄上に届かないから。それなら俗世に塗れ、様々なことを経験したい。今日からは帰りも少し遅くなるかもしれない。寄り道も、実はずっとしてみたかったんだ」
「それでは、迎えの車は」
「いらない。どうしてもというのなら護衛を寄越しても構わないが、邪魔をするようなら即刻帰す。例え誘拐されたり危険な目に遭おうとも、それは俺の意志の結果だ。自分の責任は自分で取る。誰にも邪魔はさせない」
「かしこまりました。すべては、ルルーシュ様の仰る通りに」
深く頭を下げて了承を示しながらも、咲世子は己のスカートの下に備えている武器を確認した。護衛になど任せられるものか。影から守ることに関しては誰にも負けないと、篠崎の名に懸けて断言できる。恐れるべきはこの二年での衰えだが、それも今夜から鍛え直すことで回復させよう。今までとは違い、今度は身体を張ることが出来るのだ。実に明確な方法の提示に、咲世子は心中でそっと安堵する。いってらっしゃいませと、微笑んで主を見送れた。しばらく振りに手にした武器を、自らの手で振り下ろそう。
(剣と在れ)
6.命を賭けてお守り致します
ルルーシュの転身は鮮やかであり、劇的だった。言葉遣いが粗雑になり、帰宅も遅く、街を出歩くことが増えた。その事実は瞬く間に皇室中を駆け巡り、第十一皇子は気が触れたとさえ囁かれた。けれどその影で皇位争いの強敵が去ったことへの安堵も見られ、侮蔑と同時に歓喜を潜めた眼差しが注がれる。そんな中でもルルーシュは常に背筋を弛ませること無く、前を向き歩みを続けていた。その身をどんな境遇に変えようとも、彼の本質は何ら変わってなどいない。それどころか以前にも増した深みの証拠に、シュナイゼルやクロヴィス、コーネリアはルルーシュから離れようとはしなかった。立つ、歩く、座る、駆ける。そのひとつひとつの所作に、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが作られていく。作られた皇子などではない本物の輝きに、咲世子は己の目が焼かれてしまいそうだと感じた。
「それにしても、ルルーシュ様も見事なご友人をお持ちだこと」
自らの足で手に入れた情報を整えて、咲世子は感心したように溜息を吐き出した。ルルーシュの変貌は学校でも同じように披露されており、それによって彼は誰が残るかを試したのだろう。実際、いままで群がってきていた貴族の子爵や令嬢は皇位から遠ざかろうとしている皇子に用はないとまでにあっさりと彼の元を去っている。そして残されたのは、両の手のひらで足りるくらいの人数。ルルーシュの本質を知っているミレイ、そしてその親友であるニーナ。シャーリーという少女は恋慕の情から来るものだろうが、それでもルルーシュの一面を確かに受け止めている。他にも数人いたが、咲世子の目を引いたのはリヴァル・カルデモンドという少年だった。彼だけが実に見事に、ルルーシュの意を汲んでみせている。
「ファーストフード、CDショップ、ブティックと本屋を経て、各国雑貨店、機械パーツ専門店街、ゲームセンターにクラブハウス。あら、ルルーシュ様のお部屋にあったインディーズバンドは、この方の紹介だったのですね」
リヴァルがルルーシュを連れ回している形になっているが、実際には逆だろう。ルルーシュが見聞を広めたがっているのを理解し、そして「どのような」ものを知りたいのかを正確に分かっているからこそ、彼は様々な場にルルーシュを導いている。綺麗で自分が皇子として立てる場所を、ルルーシュは望んでいないのだ。だからこそリヴァルの働きは咲世子にとって感心できるものだった。
「競輪と競馬で鬼勝ち、さすがはルルーシュ様。先日のお泊まり会では、煙草とビールを経験。あら、アダルトビデオの鑑賞もされたのですね。本当に大きくなられて。チェスバーに出入りをされて、そこのオーナーに実力を買われて賭けチェスの代理を了承。ルルーシュ様のお顔をご存知でない下級貴族など、相手にもならないでしょうに」
中学生の子供に負けたと逆上し、ルルーシュに害意を与えようとした相手は、もちろん密やかに処理しておいた。夜道は咲世子にとって限りない味方であるが、太陽だって決して彼女の敵ではないのだ。それに、その点でもまた咲世子は、リヴァルという少年を評価していた。
「カルデモンドなんて聞かない名だと思っていたら、お母様の姓なのですね。父親に反抗して、母方の姓を名乗る。そういったところもまた、ルルーシュ様が彼を気に入られた一因なのでしょう。あの方は、きちんと己の意志を行動に現す人を好まれますから。けれど、その嫌いな父親のコネを駆使してでもルルーシュ様に踏み台を用意する。その心根には敬意を表します」
リヴァルが案内した店は、どれも「正しい」店だ。もちろん法を犯しているものも中にはあったけれども、それでも皇子であるルルーシュを真実の意味での危険には晒さない。ルルーシュが自ら好意以外の感情を向けられることを望んでいるから排除はしないが、その心を抉り取るような展開にだけは陥らない、そういったぎりぎりのラインをリヴァルは見極めている。賭けチェスにしてもオーナーとルルーシュの間に自分を挟むことによって、マネージメントと同時にルルーシュへの直接の手出しを遮っている。リヴァルはルルーシュを大切にしている。共に同じ経験を得ることによって、対等であろうと考えている。望ましい友人だと、咲世子はリヴァルの存在に親しみさえ感じた。
「目下の目標はバイクの免許の取得。サイドカー付きのバイクを購入したいとのこと、それではルルーシュ様を乗せて事故など起こさないよう、最高の教官がつくよう手配いたしましょう。そして何より、いざとなった時は己の身体を張ってルルーシュ様を守るという覚悟。鞄の奥底に潜ませている拳銃。ふふ、見事です。リヴァル・カルデモンド」
つい、と唇を吊り上げて、写真の中の少年をなぞる。ルルーシュと並んで映っている姿はまだ幼い学生でしかないが、この二人が成長したら一体どんな大人になるのだろう。賢い彼らの未来を想像することは楽しく、咲世子はだからこそ写真の中のリヴァルに向けて微笑んだ。
「あなたに誰かを殺させたり、あなたを誰かに殺されたりはさせませんよ。あなたはルルーシュ様の貴いお友達ですもの。ルルーシュ様が望まれる限り守って差し上げます。この、篠崎咲世子が」
さて、と資料をしまって立ち上がる。もうすぐ学校が終わる時間だ。今日は確かカジノに出入りする予定のはずだ。もちろんそこにもリヴァルの配慮がそつなくされているだろうけれども、それでもルルーシュが有能すぎる余り湧き出てくる連中を始末するのは咲世子の役目。立ち上がり、彼女はスカートの裾を翻した。さてさて、今日も楽しくなりそうだ。
(ルルーシュ様が健やかであること、それがわたくしの喜びです)
ここまで書いて力尽きました・・・。
2013年3月31日(pixiv掲載2011年10月2日)