ふたつのポラリス





神が微笑んだ。退屈な皇室行事の、退屈なパレードの帰り。護送車が列を成す並びから密やかに抜け出し、マリアンヌは気に入りのメイドひとりを連れて市井の街中を歩いていた。ドレスは真っ先に脱いでゴミ箱へ捨て、通りがけのブティックで動きやすいパンツルックに着替えた。サングラスをかけて大股で颯爽と歩けば、皇妃だなんて誰も気づかない。人って可愛いものね。唇を吊り上げながら、マリアンヌは夜の街を行く。そして、気まぐれに覗き込んだ路地裏で見つけたのだ。ゴミに紛れ、布切れだけを身につけ、見上げてくる大きな瞳の色がネオンに照らされて分かった瞬間、マリアンヌは心中で神に感謝した。信じていない存在を褒め称え、そして笑った。間違いない。神は私を愛している。確信した夜から十年の時が流れた。
ん、と両腕を上げてマリアンヌは伸びをした。窓から差し込む光は眩しく、爽やかな朝の訪れを彼女に知らせる。ネグリジェを脱いで青のドレスを身に纏い、支度を整えて部屋を出ればコーヒーの香しい匂いが漂ってくる。マリアンヌは咲世子の入れるコーヒーが好きだ。あれは料理も上手いし、才能に溢れ、腕も立つ。イレブンではあるけれども使える存在だ。だからこそアッシュフォードから貰い受け、傍にいることを許してすでに十数年近くが経つ。ダイニングに踏み入れば、朝食の支度を整えていた咲世子が振り向き「おはようございます」と頭を下げてくる。それにひらりと手を振って応えた後、マリアンヌは先にテーブルについていた「彼女」に向けて微笑んだ。
「おはよう、ルルーシュ。目覚めはどう?」
「とても良いです。おはようございます、マリアンヌ様」
腰掛けていた椅子から立ち上がり、前で手のひらを軽く重ねて柔らかく微笑む。朝に相応しく上品で、そして明るい笑顔だ。目線はマリアンヌと同じ。波打つ黒く豊かな髪の毛も、長い睫毛も紫玉の瞳も、上げた唇の角度さえすべてが同じだ。青いドレスは揃えて誂えたもので、その下の形作られたスタイルも等しい。まさに生き写しだ。もうひとりのマリアンヌが、マリアンヌの目の前にいる。これが十年前に神が与えた、マリアンヌへの愛の化身だ。太陽の射さぬ路地裏でゴミを漁り、薄汚く生きていた子供の面影など今は欠片も見られない。マリアンヌの美しき鏡、その名はルルーシュ。
テーブルでふたり向かい合って朝食を摂る。フォークの握り方も、コーヒーで潤す喉の動きも、すべてがマリアンヌとルルーシュは同じであり違う箇所などありえない。それもそのはず、拾ってからこの方十年、マリアンヌはルルーシュに「マリアンヌ・ヴィ・ブリタニア」になるよう教育を施してきたのだから。
あの路地裏で、国の最下層にいた子供を見つけた瞬間、マリアンヌは歓喜した。幼いながらも己の分身のようなパーツが目の前にあったのだ。これを活かさない手はない。すぐさま連れて帰ることを決断し、マリアンヌは子供をブリタニア皇室へと攫ってきた。身内などいるかどうかも知らない。いても関係ない。内密に事を運び、ルルーシュの存在を知っているのはアリエスの離宮唯一のメイドである咲世子だけだ。もうひとりのマリアンヌ・ヴィ・ブリタニア。惜しむべきは性別が男であることだったが、線の細さから鑑みればそれも大した問題ではない。時は来た。
「今日にしようと思うの」
美味しくいただいた空のコーヒーカップを戻すと、対面のルルーシュの指先がぴくりと動く。さりげない仕種でそれを覆い隠し、けれど不安は抑えきれないのだろう。見つめてくる瞳は戸惑いに揺れていて、自分と瓜二つの顔なのに、美人ね、なんてマリアンヌは思う。
「大丈夫よ、ルルーシュ。あなたなら出来るわ」
「ですが・・・やはり、不安です。俺はマリアンヌ様のように運動神経に秀でていないので」
「そうね。だからこそここ十年は暴れまわったりもせずに『おとなしいマリアンヌ・ヴィ・ブリタニア』を演じてきたんだもの。平気よ。いざとなれば咲世子を身代わりにすればいいわ」
「・・・・・・」
「あなたなら出来るわ、ルルーシュ。もうひとりの私」
褒めてやれば、少しの沈黙の後に「全力を尽くします」という答えが返ってくる。変装だけならば咲世子の方が適任だが、彼女はあくまで補佐的立場で実力を発揮する。そしてルルーシュは何より、マリアンヌに酷似した「華」であれるのだ。美しく、気高く、他を圧倒することの出来る、存在するだけで発揮される力。それをルルーシュは持っている。無自覚だったものを意識して使えるように仕立てたのはマリアンヌだ。おかげでルルーシュは今や立派な皇妃を務めることさえ出来ている。試しにこの間シャルルの前に出してみたけれど、夫はマリアンヌが入れ替わっていることに気づきさえしなかったらしい。これだから人は。愉悦がマリアンヌの中を込み上げる。
小さなトランクに、シンプルでカジュアルな服ばかりを仕舞う。青いドレスを脱いでイヤリングやネックレスも外し、派手でしかない化粧も落とす。豊かな髪は纏め上げて、少し雰囲気を変えてしまえばもうそこにマリアンヌ・ヴィ・ブリタニアはいない。いるのはルルーシュのみ。否、今日からは「彼女」がマリアンヌ・ヴィ・ブリタニアだ。
子供を見つけた瞬間から、マリアンヌは画策していた。こんなつまらない皇室を抜け出し、世界の舞台に出ることを。何をするかはまだ決めていない。それでも戦を起こすのも悪くない。しばらく乗っていなくともナイトメアフレームの腕は未だ健在だし、何より混沌は愛おしい。だからこそマリアンヌは子供を拾い、ルルーシュと名づけ、己の影武者となるよう養育してきた。ルルーシュの正体がばれたとしても構わない。ハンデがある方がゲームは燃えるし、予想外の展開を制するからこそ勝者は君臨者と成りえるのだ。
面会の業者に紛れるよう、纏ったスーツは久し振りだ。正々堂々入口から出て行く。薔薇のアーチの下で振り返れば、咲世子を引き連れてルルーシュが見送りに立っている。どこからどう見てもその様は淑女であって、僅かに下げられている柳眉が儚さすら演出していた。トランクを持ち直して、マリアンヌは笑う。
「それじゃあルルーシュ、行って来るわ。留守をよろしくね」
ふっと瞼を伏せた同じ色の瞳は、次には密やかな強さを湛えていた。ついと持ち上げられる口角はまさにマリアンヌのもの。伸ばされ、頬を包む手のひらも、額にそっと寄せられる唇も。香る匂いすらマリアンヌのもので、境界線が溶けていく。至近距離で微笑んだルルーシュは、マリアンヌよりもマリアンヌだった。
「いってらっしゃい、もうひとりの私。あなたに神のご加護があらんことを」
―――神の加護なら、もはや与えられた。興奮がじわりじわりと込み上げてくる。目の前のルルーシュは、「マリアンヌ・ヴィ・ブリタニア」は、まさに神の与えたもうたマリアンヌへの愛の証だ。己の人生をこんなにも楽しくさせてくれるだなんて。
踊る足取りでマリアンヌはブリタニア皇室を発った。振り返らずとも分かる。ルルーシュはきっと見事なマリアンヌを演じてくれることだろう。漏れる笑いを堪えきれない。
「あぁ、私ってなんて素敵なの!」
マリアンヌは神に感謝した。それは実在するか否かの不確定なものに対してではない。瓜二つのルルーシュに、そしてそんなルルーシュを引き当てた自分自身を賞賛したのだ。





これでマリアンヌ様がゼロになって戦争を起こしたりして、それを知らずにルルーシュはマリアンヌ様の振りを続けて、ランペルージ家の当主になった枢機卿が幼い頃に生き別れた双子の兄(ルルーシュ)を必死に探してたりするんですよ、きっと。
2009年7月14日