どこにいても時間は変わることなく過ぎていく。与えられるそれは万人に等しく、けれど受け手次第で大きく価値が異なった。
ルルーシュは十二の誕生日を迎えるに当たり、初等学校には通わないことを明らかにした。勉学から離れていた期間が余りに長く、同世代の生徒たちに混ざって学ぶには知識が足りないと判断したのだ。しばらくは家庭教師に習い、中等学校の入学式に合わせて復学すると彼は皇室に許可を求め、許された。
テロリストに母を殺され、父親に見捨てられ、目と足が不自由な妹と共に敵国へ追いやられた皇子。流転地でも散々な扱いをされ、戦火の中を逃げまとい、無事に生き抜けたは良いものの、妹の命すら何者かに奪われた。ひとり、荒野のような敗戦国を彷徨い、そしてようやく母国ブリタニア軍に保護され、皇室へと戻ることを許された。悲劇の皇子、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。けれどそんな皇子への憐憫や同情など、ブリタニア皇室には存在しなかった。正確に言えば、存在しなくなった。ルルーシュが帰還してから数日後に行われた夜会で彼が姿を見せた瞬間に、寄せられていた気遣いはすべて真逆のそれへと変わってしまったのだ。
第一皇子オデュッセウスの主催で開かれた夜会は、ルルーシュの生還を祝すためのものだった。人が良く争いには向かない、政治も当たり障りのない手腕程度の長兄であったが、それでも皇位継承権第一位を無視することも出来ず、百を越す弟妹たちはそれぞれに着飾り、母と共にオデュッセウスの離宮を訪れた。笑みの下で互いに腹を探り合う。他愛のない嫌味の応酬など挨拶でしかなく、皇族の嗜みに近かった。流石に高位の皇子皇女たちは違ったが、それでも彼らとて弟妹の振る舞いを咎めようとはしない。玉座を求める位置にいる兄弟姉妹は、誰もが己の敵であると認識していたからだ。
そしてオデュッセウスに手を引かれホールに現れたルルーシュも、刹那にその枠へと組み込まれた。数日前、皇帝の前で涙したみすぼらしい面影などどこにも見出すことが出来ない。伸ばしっ放しだった髪は短く整えられ、シャンデリアにも負けない漆黒の艶を輝かせている。肌には染みどころか汚れひとつ付いておらず、紫の瞳は音すら立てそうな長い睫毛に囲われていた。襤褸切れだった衣服も仕立ての良い子供用のスーツに変わり、絞られた腰は折れそうなくらいに細い。
オデュッセウスに促され、ルルーシュが挨拶のために立ち上がる。大勢の兄弟姉妹、義母らを見回して、子供ははにかむように目元を和らげ、唇を綻ばせた。その様は誰をも戦慄させた。あどけなさの中に恐ろしいほどの美貌があったのだ。庶民から軍人に志願し、ブリタニアで最も身分の高い女性にまで登り詰めたマリアンヌにそっくりの、貴さを匂わす美。
その瞬間にルルーシュは、本人からしてみれば意識外の部分で、皇室の大半を敵に回した。この皇子の成長した姿を思い描くことは、彼らにとって恐怖に近い出来事だったのだ。
その夜会以降、皇室ではルルーシュへの牽制が始まった。大変な目に遭った義弟と、義兄と、久し振りに会って旧交を温めたいと誘えば、ルルーシュはぱちりと目を瞬いた後に「喜んで」とひとつ返事で頷く。この第十七位皇位後継者を、どう虐めてやろうか。後ろ盾である皇妃の母もない、世俗と戦乱に塗れ地の底を舐めた子供、おまえなど皇室にいるべきでない。それをどうやって分からせてやろう。新しい玩具に対する扱いを、義母兄弟姉妹らは嬉々として考える。けれどルルーシュがまだ幼いことに所以してか、毒を盛るなどの命を奪うほどのそれは行われなかった。些細な、それこそ暇潰し程度の嫌がらせが、隙を縫っては行われていく。
「・・・ヴァイオリン?」
その日は、第四皇女カリーヌの番だった。生まれが比較的早く皇位継承権も高い彼女がルルーシュへの茶番に名乗りを上げたのは、ひとえに暇だったからに他ならない。加えて小さく注釈するならば、カリーヌはルルーシュの妹、すでに亡いナナリーが幼い頃から気に入らなかった。運動神経が良く、明るい笑顔を持つナナリーとは、歳が同じこともあって何度となく比べられた。テロリストの襲撃で足が動かなくなり、目が見えなくなったと知ったときは密かに喜んだものだ。忘れていた敵愾心が、今になって顔を出す。
「豊かな感性を身につけるのは、私たちブリタニア皇族にとって当然の嗜み。ルルーシュお義兄様もそう思うでしょ?」
「そうだね。音楽は素晴らしいものだよね」
「私はフルートを習ってるの。ギネヴィアお義姉様はヴィオラよ。皇室の皇子皇女たちは、みんなそれぞれ楽器を持ってるわ。国立芸術学院の教授たちに教えてもらって、その腕を毎日磨くのよ」
わざとらしく唇を吊り上げて、カリーヌは三つばかり年上の義兄を見上げる。彼女の母の離宮には今、両手で少し溢れるくらいの兄姉らが集まっていた。下位の皇位継承者たちまで呼んでやるほどカリーヌは親切ではない。玉座から遠い弟妹など、彼女の視界には入ってこないのだ。
「ルルーシュお義兄様は確か、ヴァイオリンを習っていたでしょ? 是非カリーヌにも聞かせてちょうだい」
強請れば、ルルーシュは困ったように眉根を下げる。もちろん、それもカリーヌの計算のうちだ。皇室に復帰したばかりの彼は、皇族が当然備えているマナーの大半が欠けていると聞いている。二年の時は無情であり、だからこそカリーヌは強請っているのだ。この場で醜い演奏を披露すればいい。そして二年前の自分との差に愕然とし、気力を落とせ。そうすればおまえは皇子に相応しくないのだと、たくさんの噂をばら撒ける。
「・・・せっかくだけど、カリーヌ、僕はヴァイオリンなんてしばらく弾いていないから、満足のいく演奏を聞かせてあげられないよ」
「あら、いいのよ、そんなの! ルルーシュお義兄様はただ弾いてくれればいいの。マリアンヌ様が自慢した腕を早く見せて!」
「でも、ヴァイオリンもないし」
「そう言うと思ったから用意してあげたわ。これは私からのプレゼント。皇室復帰おめでとう、お義兄様!」
メイドに持ってこさせたヴァイオリンを押し付ければ、流石にルルーシュもそれ以上断ることが出来ずに押し抱く。
彼が戸惑いながら見下ろしているヴァイオリンは、カリーヌからすれば粗悪品にも近い値段の代物だ。それが例え一般市民からすれば十分に高いものだったとしても、名器と呼ばれるフルートを母に与えられている彼女からしてみれば、子供の玩具と変わりない。周囲を見回し、それでも助けを出してくれる相手がいないと分かったのか、ルルーシュが僅かに肩を下ろす。勝った、とカリーヌは心中で喝采をあげた。円形のテラスの中央にルルーシュを押し出し、カリーヌも自身の椅子に座る。
「曲は何でも構わない?」
「もちろん。頑張って、ルルーシュお義兄様!」
ぱちぱちと心にもない拍手を送れば、幾人かの兄弟姉妹らも手を叩いて場を整える。ぎこちなくルルーシュがヴァイオリンを構えた。一際鮮やかな紫の瞳が伏せられ、緩やかに調べが始まった。
「・・・っ」
その音は、カリーヌの呼吸を奪うのに十分足るものだった。兄弟姉妹の息を呑むかすかな叫びすら、その演奏を妨げられない。ユーフェミアの瞳が喜びに輝いた。
楽曲こそ高度なものではなかったが、小さな楽器からは想像も出来ない豊かな音が溢れ出てくる。ルルーシュの指が過去を思い出し、弓の操りに慣れてしまえば、それは身体を震わせるほどの演奏に変わった。滑らかに指が弦を押さえ、次々に調べが紡がれる。二年の間、練習する機会などなかったはずだ。けれどブランクを感じさせず、ルルーシュはヴァイオリンを奏で続ける。盛り上がりに向けて瞼がきつく瞑られ、過ぎればゆっくりと解けていく。最後に慈しむような眼差しで何処かを眺め、ルルーシュは演奏を終えた。拍手は起こらないが、それを当然のように受け止め、彼は頭を下げる。
「お耳汚しを失礼しました」
嫌味か、と罵る勢いさえ、そのときのカリーヌにはなかった。それだけルルーシュの演奏は素晴らしかったのだ。皇族の嗜みという枠を飛び出している。多くの兄弟姉妹の中でも、これだけ弾くことが出来るのは第二皇子シュナイゼルと、第三皇子クロヴィスくらいではないか。ぱちぱちと喝采を送る音に、カリーヌが勢いよく振り向く。ひとつの椅子に泰然と腰掛け、両の手のひらを叩いていたのはシュナイゼルだった。彼は眼差しを細めてルルーシュを見つめる。
「モーツァルトの『きらきら星変奏曲』・・・ナナリーの好きだった曲だね」
義兄の言葉に、ルルーシュも悲しげに微笑む。
「僕がこの曲を弾くと、ナナリーはとても喜んでくれました。でも、駄目ですね。指が全然動かなくなってしまって」
「そうだね、ルルーシュ! 小指の押さえが甘かったよ!」
「クロヴィス兄上」
シュナイゼルの隣で、クロヴィスが立ち上がる。大仰に両腕を開いた彼は躊躇うことなくルルーシュに近づき、薄い肩と腕を掴んでヴァイオリンの基本姿勢を取らせ始める。こうですか、と尋ねてくる義弟にクロヴィスは嬉しそうに手解きを施し、シュナイゼルはそんな二人の様子を微笑ましそうに眺めていた。ユーフェミアも今すぐ駆け寄りたそうにうずうずとしており、彼女の姉であるコーネリアは顰めていた眉を解き、困ったように微笑む。何これ、とカリーヌは叫んでしまいたかった。
「仕方ない、ルルーシュ。この兄がヴァイオリンの講師になってあげよう!」
「えっ・・・ですが、クロヴィス兄上はお忙しいのでは。ご迷惑じゃ」
「芸術を愛する者として、その腕を鈍らせることは許せない。おまえは黙って私に習い、うまく演奏できるようになればいいんだよ。分かったなら返事は?」
「・・・はい。ありがとうございます、クロヴィス兄上」
歓喜にか、ルルーシュが頬を染めて頷く。クロヴィスもその様が嬉しいようで、漆黒の髪を幾度も撫でた。何これ、とカリーヌは叫びたくて仕方ない。光の差し込むテラスの中央で、ルルーシュが笑っている。立っている。輝いている。振り向いて彼はカリーヌを笑った。
ありがとう。そう唇が音もなく綴ったのを、カリーヌは見た。





死して候ふ





夜更け、アリエスの離宮は音に溢れる。防音が完全になされた一室で、ただルルーシュはヴァイオリンを奏で続ける。その傍にはヴィオラがあり、チェロがあり、コントラバスがあり、そしてフルートがあり、クラリネットがあり、トランペットがある。照明に照らされるピアノは漆黒で、その上に置かれたメトロノームが規則的に拍子を流す。今宵、アリエスの離宮は音に溢れる。
ある夜は、本に溢れる。有名な絵本から高名な哲学書まで、ありとあらゆる本で溢れる。ある夜は、色に溢れる。絵の具に白いキャンパスから画家の描いた絵画まで、ありとあらゆる色に溢れる。ある夜は、武に溢れる。護身術から急所を狙う術まで、ありとあらゆる武に溢れる。アリエスの夜は、いつだって何かしらに溢れている。
モーツァルト、ベートーベン、シューベルトとショパンを経て、今はパガニーニ。小さな手が超絶技巧を弾きこなすために、何度となく弦を押さえる。繰り返し繰り返しすべてを身に着けるまで、幾度となく同じ箇所を弾き直す。日付が変わり、時計の短針が二時を示した。
「ルルーシュ様、そろそろお休みになるお時間です」
ジェレミアが申し出ても、音はすぐには止まらない。激しく動かされていた弓は、剣の血飛沫を拭うかのように払われて、ようやく弦から離される。しんと沈黙の広がる部屋にはルルーシュの荒い吐息だけが響き、ヴァイオリンは無造作にピアノの上へと置かれた。咲世子の差し出したタオルで汗を拭い、紫の瞳がゆっくりと瞬きする。溺れるような深みから戻ってきたその目は、すでに楽器を見ていない。
「ジェレミア、片付けを頼む」
「お任せください。おやすみなさいませ、ルルーシュ様。どうか良い夢を」
「ありがとう。おやすみ」
咲世子に先導されて、ルルーシュは部屋を出て行く。午前三時を前にして、ようやくアリエスの離宮は灯りを失う。朝日に照らされるまでの僅かな時間が休息のとき。
素質だけでは何にもならない。努力しなければ手に入らない。世界を手に入れるためには皇子として起つことが必要であり、そのために身につけるべきものを、ルルーシュは確かに知た。彼は自分が天才であり、そして凡人であることを理解していた。だからこそ彼は、時間の使い方を知っている。





きっかけをありがとう、カリーヌ。何よりものプレゼントだよ。
2009年4月3日