【「少女は愛を知っていた」を読むにあたって】

この話は、扇に対して少し厳しいかもしれません。どんな話でも大丈夫という方のみご覧くださいませ。
閲覧後の苦情は申し訳ありませんがお受け出来ません。少しでもやばいと思われた方は今すぐお戻りくださいませ。むしろレッツリターン!



▼ 大丈夫です、読みます ▼












































白く細かい泡が水に流されていく。オリーブオイルの汚れが落とされ、皿の綺麗な表面が顔を出す。水分を切って籠に入れていると慌ただしい足音が聞こえてきて、ヴィレッタは蛇口を閉めて振り向いた。先日夫となった男が、慣れない正装に身を包んで黒のアタッシュケースを脇に抱えている。濡れた手を布巾で拭いて、ヴィレッタは扇へと近づいた。指を伸ばし、曲がっているネクタイを丁寧に直す。
「今日は遅くなるから夕飯はいいよ」
「分かった。私も昼間、少し出かけてくるから」
「気をつけてくれよ? 君ひとりの身体じゃないんだから」
急いでいるだろうに頬を撫でられ、小さく頷いて返せば扇は照れたように笑ってから靴を履いて出て行った。ベランダから見送れば、迎えの車に駆け込むようにして乗っていく。小さくなっていくその影を見送って、ヴィレッタはまた食器洗いに戻った。朝はいつも感謝と後悔を抱き合わすことから始まる。





少女は愛を知っていた





朝食を片付けて、洗濯を干して、掃除機をかけて、家事を一通り終えてからヴィレッタは自宅を出た。昼を迎えて日差しは明るく、青い空は小さな雲を漂わせている。短い芝生の広がるそこに、ヴィレッタは足を踏み入れた。ヒールのないパンプスで、並び立つ石碑の合間を進む。抱えている花束が音を立てる。一歩進む度に、少しずつ鼓動が早まる。足を止めてしまいそうで、ヴィレッタは強く唇を噛み締めた。端から漏れる息が重い。それでも石碑は無言のまま、ヴィレッタの来訪を受け入れた。
「・・・・・・久し振りだな、シャーリー」
声は掠れた。酷く無様で、それでも刻まれている文字は笑いさえしない。Shirley Fenette。ヴィレッタの教え子の一人だった少女だ。仮初の一年を共に過ごした。墓石の前に花束を供え、ヴィレッタは芝生に膝を着く。風が彼女の灰色の髪を散らし、白い薔薇の花弁を揺らす。
「一度、来なくてはいけないと思っていた。・・・・・・遅くなった」
スカートの上に載せている手が震える。鼓動が耳元で聞こえる。どくどくと絶え間ない音。生きている証のそれ。息苦しくなってきて、ヴィレッタは己の胸元を握り締めた。知らぬうちに頭が垂れ、髪の先が地面についた。涙すら浮かんで乞う。はっと息を吐く。
「すまなかった・・・っ!」
風が謝罪を流していった。額を限りなく芝生に近づけ、ヴィレッタは悔いていた。記憶の中のシャーリーは明るい。それはすべて、あの一年、学園で共にした姿だ。けれど、それだけではないことをヴィレッタは知っている。痛苦に涙を流させた。ただ、己の欲のために。
「おまえの、ルルーシュへの恋心を利用した。貴族になりたい、上に行きたいという私の欲のためだけに。父親を喪ったばかりのおまえを、私は、利用した。ルルーシュを好きだという、おまえの想いを」
その後、ルルーシュに扇との関係を利用されて、初めてヴィレッタも理解した。心の一番柔らかな部分を他人に陵辱される、耐え難い暴力。大切な想いを他人に握られる、その悲哀。与えられて初めて分かった。苦しんで苦しんで涙すらして、そしてようやくしばらくの後に思い出した。自分も同じことをしたではないか、と。ヴィレッタは、ルルーシュと同じことをしていた。シャーリーという、争いとは何の関係もなかったただの少女を、ヴィレッタは己のためだけに利用したのだ。
けれど、シャーリーはヴィレッタを撃った。愛したルルーシュを守るために、その手を汚す決意をしたのだ。真っ白な、何も知らない無垢な手を、無理やり握らされた銃で汚した。ヴィレッタが、ただの少女を加害者に変えた。撃たれても当然の仕打ちをしたのだ。
「おまえは、強いな・・・」
唇が歪んで、情けない笑みを浮かべさせる。シャーリーは愛した男を守るために、自ら敵に銃口を向けた。ヴィレッタは己個人を守るために、愛した男に銃口を向けた。その、情の差。同じ恋などとは思えない、その利己的な感情の行き先。おそらくそれは年齢の違いでも、歩んできた道の違いでもないのだろう。人の差だ。心の差とも言えるかもしれない。
「ミス・シノザキから聞いた。おまえはルルーシュがゼロだという記憶が戻っても、それでもルルーシュのことを好きだと言ったのだと。死ぬ、最後の瞬間まで。・・・・・・生まれ変わっても尚、ルルーシュを好きになるのだと」
太陽のように笑う少女だった。長い髪をふわりと揺らし、多くの友達に囲まれ、笑っている姿が何より似合う、そんな少女だった。ルルーシュに向けて頬を染める仕草さえ愛らしくて、何気ない日常が誰より似合う、そんな花のような少女だった。まだ成長しきっていない身体に秘められていた強さ。その最期を聞いたとき、ヴィレッタは無意識のうちに涙していた。同じ女として、その捧げられた愛の尊さに打たれたのだ。敵わないとすら、思った。
ヴィレッタは苦く笑う。扇の姿が脳裏に浮かんだけれども、生まれ変わっても彼を好きになりたいかと問われれば、ヴィレッタには答えを返すことが出来ない。言葉に出来ない悔恨が、彼女の中にあるからだ。
「・・・・・・私は、間違っていたのかもしれない」
誰にも言ったことのなかった告白が、墓石の上に落ちていく。
「扇に、ギアスのことを・・・ルルーシュのことを、告げるべきではなかった。私が話したから、扇はただの愚かな男になってしまった。心願を持つテロリストではなく、自分の女に危害を加えられたから相手を責める、ただの男になってしまった」
恋はヴィレッタを愚かにした。長い間抱いてきた名を挙げるという目標さえ揺らがせ、己の中に確固としたものが存在しないことを露呈させた。かといって恋に走るにはプライドが邪魔をし、すべては流されただけの結果が今だ。扇が怒り、ゼロが追放され、ルルーシュが皇帝として起ち、そして彼がゼロに殺されなければ、ヴィレッタは現状を得られなかった。自らは何一つとして動かなかったのだ。シャーリーに比べて、なんて主体のない、意義のない恋なのか。流されたまま得た幸福だからこそ、ヴィレッタの中を罪悪感が蝕む。
「扇に愛されて、嬉しいと思う。何を気にすることもなく、誰かを愛せることは素晴らしいとも思う。だがシャーリー、おまえの恋を蹂躙した私が、幸福を手にすることが許されるのだろうか。・・・扇はきっと、許されると言うだろう。だけど、それは違う。扇は私のことを愛してるから、そう言うだけだ。そこに確固とした主張は存在しない。誰にでも同じことを言えなければ、それはただの感情だ。おまえがルルーシュに捧げた、貴い想いのようなものは何も」
実のない幸福だと思う。日々がただ無為のままに過ぎていき、交わされる愛の言葉さえ空しくて仕方がない。確かに扇を愛していると思うのに、ヴィレッタの中には後悔があるのだ。それは何に因るものか、彼女には分かっている。ヴィレッタは己の在り様が、ルルーシュと、ゼロと何ら変わらないことを自覚している。己のために他人を利用する、ただのエゴイストであることを知っている。だからこそルルーシュが死んだ今、自分だけ生きていることが不安で仕方がないのだ。いずれ自分も、彼と同じような末路を辿るかもしれない。それだけのことをヴィレッタはしてきた。程度が違うと、人は言うかもしれない。それでもヴィレッタにとっては同じことだった。ルルーシュの死は、結果として世界に調和をもたらした。では、ヴィレッタが死ねば、世界は何か変わるだろうか。―――否。
ヴィレッタが死のうと、世界は何も変わらない。ただ扇が嘆き、近しい者が涙するだけ。この存在に意味はない。日々にも意味はなくて、存在にすらきっと価値はないのだろう。だとしたらそれは、死んでいるのと変わらないのではなかろうか。そんな思いで、ヴィレッタは毎日を生きている。だからこそ折に触れて思い出す。仮初の一年、笑いあっていたシャーリーとルルーシュを。すべてを忘れ、幸福そうだった二人を。それを奪った一端が自分にあると分かっているからこそ、ヴィレッタは思い出す度に叫びたくなる。本当は生きて恋をし、幸福な毎日を得るべきだったのは彼らなのではないかと。
「・・・・・・先日、ブリタニアとの会談の際に、扇はゼロに聞いたそうだ。『おまえは一体誰だ』と」
ルルーシュでないことは分かっているのに。帰宅して夕食を共にしたときに、話していた顔を思い出す。
「扇は、もはやゼロという存在自体を憎んでいるのかもしれない。ルルーシュではなく、ゼロという仮面自体を。その憎悪を作り出したのも私だ。扇はゼロを、他に害悪をもたらす存在だと認識している。今の私たちは、ゼロがルルーシュを殺したからこそ存在しているというのに、そういったことをすべて忘れて、扇はまたゼロを詰ろうとしている」
緩く首を振れば髪が頬に触れ、ヴィレッタはそのことにまた自嘲の笑みを浮かべた。墓石は相変わらず何も応えず、ただ花束だけを受け入れるかのように抱えている。すまない、愚痴ばかりで。謝って、ヴィレッタは今度こそちゃんと笑顔を浮かべようとした。
「扇がもしもゼロを害そうとするのなら、そのときは私が止める。必ずだ。おまえがルルーシュの悪もまるごと受け入れたように、私も扇の愚かさをまるごと受け入れ、そして必ず止めてみせる。約束する。この世界は、必ず守ると」
腹にそっと手を当てながら、ヴィレッタはようやく立ち上がった。長いスカートの裾が揺れ、少しだけ足に絡みつく。Shirley Fenette。その文字をゆっくりと見つめて、ヴィレッタは瞳を細めた。
「シャーリー・・・おまえと、話がしたいな。過ちに突き進む男たちを愛した女として。おまえともっと、いろんな話をすればよかった」
今となったからこそ言えるのかもしれないけれど、それはヴィレッタの本心だった。女として、すべてを越えることの出来る愛を抱いた少女と話をしてみたかった。今はまだ目立たない腹の中にいる、いずれ産まれてくる子供が女の子であるといい。そうすればシャーリーという名前をつけられる、ヴィレッタは密かにそう考えていた。
風が吹き、薔薇を揺らす。視線を僅かに迷わせ、ヴィレッタは言葉にあぐねて唇を結んだ。
「ルルーシュに・・・・・・いや、これは私の口から伝えるべきだな。いずれそっちに行ったときに、私が謝りに行きたいと言っていたと、そう伝えてくれ。今更だと、罵られてしまうかもしれないが」
気づかぬうちに随分長居していたのか、太陽が西の空へと移り始めている。帰って洗濯を取り込まないと、と思った時点で己の日常に気づき、ヴィレッタはそのことに苦笑せざるを得ない。幸福だと、そう思わなくてはいけないのだろう。意識を保たないといけない点で、すでに幸福ではないのかもしれないが、それでも。生きている者としての義務を果たさなければと、ヴィレッタは思っていた。シャーリーのような愛は、きっと一生持てないだろう。例え、それでも。
「私は扇と共に、生きる」
それが己の義務なのだと囁き、ヴィレッタは墓地を後にした。薔薇の白い花弁がひらり、風に乗って消えていく。ヴィレッタ先生。そう呼んでくれる声が聞こえた気がして振り向いたけれども、やはり墓石はただ沈黙しているだけだった。





ヴィレッタ先生。
2008年10月1日