二ヶ月、自ら穴を掘った。
最後の望み
深く、深く、落ちていく己を感じる。意識は遠い波の狭間。温い抱擁は輪郭を失わせ、心の縁を深遠へと融かしていく。指先が消える。爪先が消える。髪先が消える。鼻先が消える。すべてがどろりどろりと個人の器を舐め溶かし、大衆の中へと埋没させる。残るべきは何か。記録か記憶か、それとも理性か心臓か。そんな問いかけを抱くところで、いつもルルーシュは目を覚ます。
「・・・おはよう」
朝の挨拶はいらない。それでも自ら声に出して、誰に向けるでもない言葉を紡ぐ。おはようございます。おはよう。おはよー。いくつもの応えが聞こえた気がして、おはよう、もう一度声に出してベッドから立ち上がる。厚いカーテンのせいで室内はまだ暗いけれども、細く差し込んでくる光は晴天を教えてくれる。いい天気だ。洗濯を干そうと決めて、ルルーシュは絹のパジャマを脱いだ。
「さて、朝食は何にするかな」
洗濯機を回している間に、冷蔵庫を覗き込む。巨大すぎるそれは両開きで、広がる冷気が少しだけ肌寒い。食材はすべてどこかしら欠けており、傷みの早そうなものから順に取り出す。朝はあまり食べない方だけれども、そうも言ってもいられないだろう。簡単に、手軽に。そう考えながら作り出したものがチーズパンケーキなのだから失笑してしまう。バターとジャムも並べてしまった。野菜がないと思って、気づけばグリンピースのスープまで作ってしまった。慣れというのは恐ろしい。ひとり広いテーブルに座り、ルルーシュは手を合わせて「いただきます」と目を閉じる。相変わらず、料理の腕は落ちていない。
「ああ、本当にいい天気だ」
洗濯機が軽快な音楽を鳴らして終了を告げ、バスケットに移し変えて庭へと出る。さんさんと降り注いでくる太陽はとても眩しく、右手をかざしてルルーシュは紫外線に目を細めた。立っている二本の柱に、物干し竿がかかっている。ふわりとシーツを広げてから、パンパンと両端を引いて、皺にならないよう洗濯挟みで留める。パジャマも下着もシャツも靴下も、タオルもハンカチも布巾もランチョンマットも。すべてを干し終えれば、祝すように風が揺らす。ふふ、と笑って、ルルーシュは突っかけのサンダルで室内に戻った。
「今日は・・・そうだな、掃除でもするか」
毎日掃除機はかけているけれども、今日は床にワックスをかけよう。外していたエプロンをもう一度まとい、気合を入れて後ろで結ぶ。バランスよく蝶々結びが完成して、そのことが些細に嬉しく鼻歌を奏でながら箒を探し出す。さて、いざ部屋に仁王立ちしてみれば、見回す限りにあるのは家具だ。どれも重厚な飾りつきの一品なので、ルルーシュの細腕では動かすことが出来ない。むっと眉を顰めて、とりあえずテーブルとカーペットだけ退けてみたけれども、それだけで息が切れるのだから不甲斐ないものだ。箒を握る前にソファーへと転がる破目になる。これだからまったく、と深い息を吐き出した。ようやく掃除を始めれば、それ以降はスムーズに進む。床を箒で掃いて、雑巾で拭いて。少し待ってからワックスをかけると、やはりソファーやチェストを動かしたくなってしまった。試しに押してみた。駄目だった。五センチ動いたか動かないかで、再び息切れする自分の限界を知る。生意気な、と小突けば、逆に爪先が痛かった。
「早いな、もう昼か」
意識としては簡単の範囲内だったが、部屋数が多いため掃除に午前を丸々費やしてしまった。風呂とトイレだけは性格ゆえかぴかぴかに磨いてしまい、だからこそ満足がいってルルーシュの腹も空腹を訴える。再び冷蔵庫を開けば、アンチョビが目に飛び込んできた。使って使ってと訴えられているような気がして、キャベツと椎茸と共に取り出す。棚を漁ればパスタはすぐに見つかり、さっと茹でてシンプルなスパゲッティにした。何となくアルコールを飲みたい気分で、白ワインの栓を抜く。窓から見える太陽はまだ高い位置にあるけれども、頑張った褒美に許してもらおう。乾杯、とルルーシュは空にグラスを掲げた。
「『その刹那、彼にはエミリーがとても眩しく目に映った。金色の髪、蜂蜜色の瞳、すべてが愛して欲しいと訴えて、今ニコラスの前に存在している。衣擦れの音がし、彼は自らがエミリーに手を伸ばしていることを知った。頬に触れた指先に、彼女がとろけるように微笑む。愛している。そう唇が勝手に囁き、エミリーの紅潮した頬がニコラスを絶望に追いやった。愛していた。そう告げるはずだったのに、彼は選択を誤ったのだ』」
食器を片付けて、読みかけだった本を手にソファーへ深く腰掛ける。音読してみれば室内に声が反響して、まるで舞台のようだった。薄い恋愛小説を読み終え、次は哲学書に手を伸ばす。相変わらず声に出せば、大学の講義のようになってしまい、肩を竦めてティーカップを手に取った。ティーコゼーは午後の日差しと同じくらい柔らかに、紅茶を飲みやすい温度に変えていく。ミルクを入れて、砂糖を入れて、本に合わせて味を変えながら、ルルーシュは読書を楽しんだ。積み重なる役目を終えた本を一撫でして、書斎へと戻しに行く。
「この天気だと、明日も晴れそうだな」
雲の少ない空を見上げながら、日が傾く前に洗濯物を取り込む。タオルなどは先に畳み、アイロンの必要なものだけを脇に避けた。アイロンが温まる間に片付けに行き、戻ってきて低い台の前に座ろうとすると、短いコンセントのコードに足を引っ掛け、たたらを踏んで膝を思い切り床にぶつけてしまった。絨毯だから大したダメージは無かったけれども、骨に伝わる振動にじっと痛みを堪えていると、目の前のアイロンがまるでせせら笑っているように見えてきて、ルルーシュは蒸気を出しているそれを思い切り睨み付けた。これから整えられるハンカチが、お気の毒に、と眼差しを伏せている気がする。
「夕食は鍋だ。決めた」
苛立ちをぶつけるようにして、ルルーシュはキッチンに仁王立ちした。目に付いた具材を片っ端から一口大に切り落としていく。出汁だけは譲れないから鰹節を削るところから始めたけれども、後はもう適当だ。魚に海老、蛤、油揚げに葛きり、春菊、豚肉。椎茸や葱も外せないし、豆腐と白菜は王道だ。テーブルにカセットコンロをセットして、ミトンを嵌めた手で十分注意しながら土鍋を動かす。取っておいた日本酒を猪口に注いで、晩酌ついでに漬物を摘まむ。おおよそ寄せ鍋と化してしまった夕食は中々に箸が進んだけれども、締めとして雑炊とうどんと餅をすべてやってしまったのは失敗だった。餅がすべてを絡みとって、とんでもない事態が勃発したのだ。苦戦しながら食事を終え、ルルーシュは酒気のせいか火照った頬を冷ましてから、食器を洗った。
「ああ・・・・・・いい気持ちだ」
昼間熱心に掃除したため、汚れの見当たらない風呂に身を沈めて、その心地よさに瞼を下ろす。乳白色のバスオイルは少しだけ甘い香りがして、試しに持ち上げてみた手の甲からもミルクに近い匂いがする。つられるように舐めてみたけれども、さすがに味は異なった。バスタブから上がって、髪を洗い、身体を洗い、顔を洗う。肌理の細かい泡が排水溝に吸い込まれていき、スポンジの水分を完全に切ってから、またバスタブに戻る。縁に後頭部を預けるようにすれば、どこからともなく睡魔がやって来て眠りへと誘う。気がつけば時計は三十分も進んでいて、ルルーシュは口元まで湯に浸かった苦しさで目が覚めた。バスタオルは太陽を浴びてふかふかだった。
「さて、始めるか」
パジャマではなくアッシュフォード学園の体育で着ていたジャージに身を包み、再び庭へと降り立つ。今度はサンダルではなくスニーカーで、夜の庭はリビングの明かりだけが頼りだ。物干し竿のある場所から五メートル右に行けば、そこには土が盛られており、地面に置いてあるシャベルを手に取る。プラスチックのそれは存外軽く、すでにルルーシュの手に馴染んでおり、気合を入れずとも地面に突き立てることが可能だ。足で踏むことで深く押し、そのまま梃子の原理を利用して持ち上げる。山となっている方に投げ移すことで、ようやく土の茶色が認識できた。リビングを通り、ジェレミアが食材を補充するべくキッチンに入っていくのが見えた。汗が流れる。額を伝う。透明な雫は涙でも血でもなく、ジャージの袖口で拭うことが許されている。もう一度風呂に入らないと、そう思いながら、ルルーシュはシャベルを握り続ける。今日の目標は、少なくとも縦二メートル×横一メートルの枠を完成させること。でなければ、残りの日数と己の体力を考えると間に合わなくなってしまう。スザクがいない、C.Cがいない、世界中の憎悪を感じている。今はまだ殺されるわけにはいかないから、暗殺されないよう自分のことは自分でする。アリエスの離宮に閉じこもって過ごす日々。静寂はとても穏やかだ。微笑みさえ自然に浮かび、涙を流す理由もない。
「はぁっ」
「ルルーシュ様、紅茶が入りました」
「ありがとう、ジェレミア」
痛くなってきた腰を叩いて振り返れば、柔らかに微笑んでいる姿が見える。月が綺麗だな、と言えば、ジェレミアもそうですね、と頷いた。死がもうすぐやってくる。待ち焦がれ、そのためだけに生きている。
今が18年の人生の中で最も穏やかだと、ルルーシュは心から感じていた。願わくば、この墓穴に自らの死体を横たえんことを。演技が最後まで見破られんことを。どうか自らの死が、祝福されんことを。心の底から―――願う。
この人生、俺の勝利だ。
2008年9月28日