ぽーんと何かが星刻の上空を横切り、それがハイヒールだと理解した次の瞬間、「そこの衛兵、いくぞ」という声と共に、今度はドレス姿の少女が空から降ってきた。否、反射的に抱き留めてから、星刻は腕の中の存在が少女というよりも女性であることに気づく。確かな質量はとても柔らかく弾力があったし、何より開かれている胸元から覗いている谷間は酷く豊満だったからだ。二階のバルコニーから漏れてくる光が、彼女の顔を浮き上がらせる。中華連邦では見かけない白い肌に、鮮やかな紫の瞳。一度目にしたら忘れられないだろうその美貌は、今夜の主賓であるブリタニア皇族の一人、ルルーシュ第三皇女だった。彼女は星刻と視線を合わせると、高慢と言っても差し支えのない口調で端的に述べた。
「すまない。靴を落としてしまったんだ。取りに行こうと思ったら、足を滑らせて落ちてしまった」
「・・・・・・では、他の者に取りに行かせましょう」
「いや、いい。自分で行く」
「ですが」
「おまえも付いてきてくれるのだろう?」
謝罪など言葉しか感じさせずに、挑発に瞳を輝かせて皇女は言い放つ。星刻は眉を顰めたけれども、その間にも皇女は軽やかに腕から降り立ち、ストッキングに包まれただけの右足で芝生の上に降り立ってしまった。勝手知ったるままに歩き出す後ろ姿に、星刻は周囲を見回した後に従う。どうせハイヒールはすぐに見つかるだろうし、その間なら侵入者もないだろう。皇女の力、そう遠くには飛ばせないと考えながら。
今夜は、中華連邦天子の誕生祝賀祭として、世界各国から多くの要人が集まってきていた。しかしそれは形ばかりのもので、実際は大宦官による政治の駆け引きとごますりばかりが行われている。天子が幼いゆえ仕方のないことかもしれないが、星刻は彼女を傀儡とする現政権が許せなかった。中華連邦は元々、天子を中心に栄えてきた国家なのだ。それなのに今やその存在を軽視し、大宦官は己らの私利私欲のために国家を作り変えている。貧困に喘ぐ民の声が聞こえるようで、星刻はいつしか大宦官の一掃を企てるようになっていた。そしてまた、天子を頂点に据えた国家を。
「今のままでは無理だな。例え大宦官を排除しようと、あの天子では国は立ち行かない」
幾つかの植木が並んでいる中、前を歩く皇女がはっきりと言い捨てた。遅まきながらに星刻は作り出されたこの現状が、何のためかを理解する。目の前の皇女は、どんなに美しく十代の若さであろうとも、あの神聖ブリタニア帝国の最も尊い一族なのだ。何よりその手腕は目覚しく、第三皇女の名はシュナイゼルやコーネリア、クロヴィスに次いで知られている。
「先ほど誕生祝いを述べる際に先日のEUとの会談についていくつか聞いたが、明確な言葉はひとつも得られなかった。あれは秘匿するというよりも、何も知らないといった感じに見えたな。おまけに何て言ったと思う? 『難しいことは分からないので、大宦官に聞いてください』だぞ? あれには流石の俺も呆れてしまった」
「・・・・・・天子様は、まだ幼い。政治に関してもまだ学んでいらっしゃる最中だ」
「年齢は言い訳にならない。少なくとも、己が施政者であるという気概を見せてもらいたかったが、残念だ。これでは大宦官が専横するのも頷ける」
「・・・っ」
「自覚は生まれるのではなく作るものだ。己のすべき事を理解し、何をするべきで、何をしてこなかったのか、それを認識して立ち上がらなくては、彼女は天子足りえない」
皇女が振り向いた。強く握られた星刻の拳を見つめ、彼の険しい視線に動じることなく微笑を浮かべたまま見上げてくる。その泰然とした余裕こそが上に立つものに必要な資質であり、引きずられるようなカリスマが絶対者の資格でもある。長く黒い髪が満月の光を帯びて、緑色に輝いていた。声は高く甘みを帯びていたけれども、二人の立つ場所は紛れもない政治の場だった。
「今回来たのが俺とクロヴィス兄上で助かったな。これがシュナイゼル兄上だったら、天子の誕生会がオデュッセウス兄上との婚約披露パーティーに変わっていたぞ」
手袋に包まれた指先が、ちょうど花の横に落ちていたハイヒールを拾い上げる。小さな花弁に傷が付いていないことに安堵したのか、ふと緩められた頬を星刻は黙って見つめていた。指先で靴を直し、身を屈めて履く。とんとんと爪先を叩いて馴染ませる所作を見せ、皇女はひとりでハイヒールを履き切った。強い瞳が、星刻を見上げる。
「何年かかる?」
それは問いかけの形をした、強請だった。酷く渇く喉を自覚しながらも、星刻は皇女の目を見つめ返した。今まさに、この国の行く末が決まろうとしている。正してみせる。その思いだけを胸に、はっきりと言葉を返す。
「三年。それだけ猶予を貰えれば、ある程度の形を作り上げてみせる」
「長いな。二年で天子に意志を持たせろ。大宦官の一掃には、ブリタニアも手を貸してやる」
「―――分かった」
「あれらにはこちらも手を焼いているんだ。下級貴族と馴れ合い、品格を金で買おうとしている。そのような輩をブリタニアに入れるわけにはいかない」
戻るぞ、と皇女が踵を返す。その後に続こうとすれば、すぐに振り向いて見上げられ、眼差しだけで隣を示された。他国とはいえ、皇女と並ぶなど所詮は一武官である星刻に許される行為ではない。しかし今回だけは無礼を承知で、そこへと足を踏み入れた。赤い唇を満足そうに吊り上げ、皇女が笑う。
三分も歩けば、先ほどのバルコニーが見えてきた。時間にすればほんの僅かだったはずなのに、途方もなく長かった気がして星刻は与えられたプレッシャーを思う。遠謀として描いていた計画をすぐさま行動に移さないと、と考えていると、バルコニーにひとりの人物が立っていることに気がついた。ブリタニアの衣装に身を包んだ金髪の男は、第三皇女が連れてきていた彼女の騎士だった。自分がいない間、この場の警備を言い付かされていたのだろう。一体どこまで計画通りなのか疑問さえ浮かんできて、星刻は思わず隣を歩く皇女に問いかけていた。
「何故、俺を選んだ? 身分のある人間ならもっと他にいただろう」
「『神の寵児』の名はブリタニアでも有名だからな。おまえの武勇伝はコーネリア姉上からも多く聞かされている」
それに、と足を止めて、皇女は真上の己の騎士がいるバルコニーと、対面する庭、その先の壁面、そして右手に広がる森に近い庭園を指差してみせた。
「今夜、もし俺がこの祝賀祭を攻めるのであれば、まず間違いなくこの窓から突入する。だからこそこの窓を警護する者は、それなりに腕の立つものでなければならなかった。そこへ配置されたのが星刻、おまえだ。しかも聞けば、警備を考えるのはおまえの仕事らしいじゃないか。だからこそ俺は、おまえを共に謀るに足る相手だと認めた」
「ルルーシュ様、お手をどうぞ」
バルコニーから騎士が手を伸ばしてくるけれども、さすがに高さがあって届かない。降りてこようとする相手を制し、星刻は「失礼」と告げてから皇女の膝裏に腕を添えた。そのまま抱き上げれば、皇女はバランスを崩して「うわっ!」と淑女にあるまじき声を出す。けれどもその様子がこの短い間に見た中でも一番柔らかく、素顔に近いものに星刻には思えた。黒髪が星刻の頬にかかり、むっと尖らされた唇に苦笑しながら騎士へとその身を手渡してやる。会場の眩い光が皇女を照らし出し、艶やかな姿を星刻は見上げて口を開いた。
「礼を言う。必ずや期待に応えてみせよう」
「そうしてくれ。俺とていたいけな少女を侵攻するのは気が進まない」
ひらりと手を振って会場に戻ろうとする背を見送っていると、ふいに皇女が足を止めた。ドレスの裾を乱れさせることなく振り返り、その位置から星刻を見下ろす。深い紫の瞳が美しいと、星刻は思った。
「俺はルルーシュだ。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。星刻、おまえには名を呼ぶ許可を与えてやろう」
「それは恐悦至極、と言うべきところか?」
「次に会う時には、せめて会場の中にいるくらいにはなっていろ。そうすればダンスの相手に指名してやるさ」
鮮やかな笑みを残して、皇女―――ルルーシュは今度こそ室内に戻っていった。それに続いて騎士がガラス扉を閉め、僅かに聞こえた管弦楽の音も途絶える。遠い、と漠然と星刻は感じた。それでも己の手を見下ろせば、抱きとめた身体は確かなもので、与えられた言葉に抱いた決意も確たるものだ。深く息を吐き出し、星刻は瞼を下ろす。輝かしい光が己の中に降り立るのを感じながら。邂逅と機会に、感謝する。





月下の晩餐会





(騎士はジノです)
2008年8月25日