「おはようございます、ルルーシュお兄様」
ナナリーは毎朝、最愛の兄に挨拶することで一日を始める。閉められているカーテンを開け、差し込んでくる朝日を浴びて煌めく兄に、微笑みをひとつ。白い羽毛の掛け布団にそっと腰を下ろして、顔を覗きこんで確認する。呼吸は浅く、瞼は閉じられている。喜びと悲しみを同時に覚えて、そして頬に手を伸ばす。黒髪をすいて、唇を寄せて。額を合わせて今日の幸福を願っていると、コンコンと扉が叩かれた。
「おはようございます、ナナリー様、ルルーシュ様。朝食をお持ちしました」
「ありがとうございます、咲世子さん」
ワゴンを押して入ってきたメイドが、手際よく近くのテーブルに朝食をセットする。柔らかなスクランブルエッグを乗せたトーストに、トマトのマリネと野菜とマカロニのスープ。季節は夏なので紅茶はアイスだ。それらを並べ終えると液体の満ちたパックを支柱に吊るし、そこから伸びたチューブの先に細い針を設置して、ちゃんとついたかどうかを確認する。ナナリーが布団をめくってあらわにした兄の腕に、メイドは慎重な所作で針をそっと差し入れた。テープによって固定され、点滴が始まればナナリーもようやく席につく。
「いただきます」
「はい。どうぞお召し上がりください、ナナリー様、ルルーシュ様」
トーストを手に取り、端に歯を立てる。さくりと立つ音が香ばしさを助長させ、口の中に広がるスクランブルエッグが甘さを伝える。ぽた、ぽた、と雫が落ちて、液体が身体の中へとしみ込んでいく。今日も目覚めない兄と共に、ナナリーは朝食をとる。
ナナリーの兄、ルルーシュは、もう二年も眠ったまま時を過ごしている。かつて二人は神聖ブリタニア帝国の正真正銘の皇子皇女だった。しかし七年前にテロリストの襲撃によって母親を喪い、父親に見捨てられるようにして日本に人質同然に追いやられた。枢木家にて虐待に近い日々を過ごしながらも、スザクという友を得て、三人はささやかな幸福の中を生きていた。皇室にいた頃の滑らかな指先や輝くような髪の艶は失ってしまったけれど、それでも大切な相手を映す瞳と道を歩くことの出来る足は健在で、そのことを喜びながら兄もナナリーも静かな日々を甘受していた。
そんな時間を五年も過ごし、ずっとこのままでと願い始めてしまった頃に、日本とブリタニアの戦争は始まった。徐々に緊張が高まり、ついに暴発したそれはナナリーたちにも向けられた。死体をブリタニアに突きつけてやると銃を向けられ、ナナリーは涙し、スザクは硬直して立ち尽くし、二人を庇った兄は銃弾に倒れた。しなやかな身体に小さな穴を開け、真っ赤な血を弾けさせて倒れた兄にナナリーは絶叫した。その後のことはよく覚えていない。幸いにも二人を助け出そうと来てくれたアッシュフォード家に保護され、すぐさま枢木の家から抜け出した。
その後の治療の甲斐もあって兄は命を失うことはなかったが、意識を目覚めさせることもなかった。それは酷いショックと精神的疲労によるものだろうと、医者は言う。兄は世界を拒絶してしまったのだ。この醜い世界で生きることを拒み、その美しい瞳と心を閉じている。ナナリーがどんなに呼んでも笑顔を向けてくれることはない。静かにただ、兄は己の朽ちる日を待っている。
「大丈夫ですよ、お兄様。世界はすぐに優しくなりますから」
テーブルナプキンで口元を拭い、ナナリーは薄く微笑む。手早く身支度を整えて、鏡の中で髪を少しだけ弄る。メイドが持ってきた鞄を開き、中身が揃っているかどうかを確認する。
「ミレイさんにはお休みの連絡を入れておきました。スザクさんが来たらお兄様の薬を受け取りに行ってるとでも言っておいてください」
「かしこまりました。わたくしがナナリー様の代わりとして対応しても構いませんが」
「そうですね、じゃあそちらでお願いします。スザクさんはきっと気づかないでしょうし。いつものように、お兄様にだけは絶対に会わせないでくださいね」
「心得ております」
「お兄様を傷つける人は、何人たりとも許しませんから」
黒いマントを広げて、皺がつかないよう気をつけて畳む。同じ色の装束は胸が隠れるように工夫したアンダーと共に、手袋はその上に重ねて入れる。ブーツは身長を嵩増しさせる厚底だ。仮面を持ち上げてくるりと回し、傷がないことを確認して一度被ってみる。視界は良くもないが悪くもない。少なくともナナリーにとっては十分なので、布に包んで鞄に収める。
ふわりとスカートの裾をなびかせて、手の中には少し大きめのトランク。つばの広い帽子を被れば、一泊旅行に向かう少女にしか見えないだろう。再度ベッドの上の兄へと近づき、ナナリーは手を伸ばす。青白い肌、それでも瞼の下には瞳がある。細い手足、それでも皮膚の下には血が流れている。ただ目を覚ますことなく眠り続ける兄。力のない腕を取り、曲がることさえしない小指に己のそれを絡ませて、ナナリーはうっとりと微笑んだ。
「お兄様にとって優しい世界を、ナナリーが必ず創ってみせます。だからお兄様、その日が来たら起きてくださいね。また私に向かって笑ってください。ナナリーと、名前を呼んで」
そのためなら何でもしますから。幾度となく囁いた言葉を繰り返して、約束、と絡めあった小指を軽く上下に振る。最後に兄の額にキスをしてから、ナナリーはクラブハウスを後にした。向かうべきは戦場だ。ブリタニアも日本もすべて、邪魔なものは葬ってやる。お兄様が笑ってくれるのなら、それでいい。
漆黒を身に纏い、ナナリーは仮面を被る。ただひとり愛しい兄のために、彼女は世界を改変するのだ。
怖くないわ、あなたがいるから
(ばりばりにナイトメアフレームを操縦するゼロなんじゃないかと。)
2008年8月6日