沈丁花が小さな花をつけ、香りと共に早春を知らせる。―――三月。
出会いと別れの季節が来る。
一年間(三月)
『仰げば尊し』を歌い終わっても、不思議と涙は出てこなかった。それはきっと、周りにいる自分と同じ卒業生たちが泣いていないからだとは思う。氷帝の生徒は八割以上が内部進学するので、高等部でも面子はほとんど変わらない。だから泣く必要性はないし、そんな周囲に囲まれている中ではも泣くことは出来なかった。
だけど卒業式の後、調理部の後輩から花を渡されて、そのときにはさすがに少し目頭が熱くなる。
「また来て下さいね、先輩」
もらった花束は他の同級生よりも大きくて。そのことでようやく、自分は氷帝を出て行くんだと実感する。
卒業式が終了し最後のHRも終え、教室を出て昇降口まで来たところで忍足は囲まれた。
「忍足先輩! 卒業おめでとうございます!」
「あのっ・・・ボタンかネクタイ、もらえませんか!?」
花束を渡されて、願いと言うにはいささか迫力のありすぎる要望。忍足は苦笑して、けれど丁寧に断った。
「堪忍なぁ。悪いんやけど、誰にもやる気はないねん」
「そうですか・・・・・・」
項垂れる少女たちには申し訳ないが、忍足とて卒業式にボタンやネクタイをあげることの意味は知っている。だからこそ、誰にも渡したくなかった。今は、ただ一人の存在があるから。
はどこにいるのだろう。目の前の少女たちに対応しながら、忍足の視線は周囲を巡る。彼女は今日で氷帝からいなくなってしまうのだ。会わなければ。会いたい。会って告げたい気持ちがある。
「あの、すまんけど・・・」
次から次へと現れる少女たちに、忍足が断りを入れようとしたときだった。
「アーン? 忍足てめぇ、こんなとこで何やってんだ?」
自然と割れる人混みを悠々と歩いてやってきたのは跡部だった。その隣には岳人もおり、彼らの胸元には忍足と同じく卒業生を示す小さな祝福の花が添えられている。小首を傾げるようにして、岳人が不思議そうな表情を浮かべる。
「侑士、教室に忘れ物したとか言ってなかったっけ? 早く行って来いよ」
ぱちん、と岳人が大きな瞳でウィンクする。その行為と台詞が意味することに気づき、忍足も息を呑んだ。跡部はともかく、岳人に詳しい話をした覚えはない。ただ、もしかしたら彼はあの夏休みから何かを察していたのかもしれない。だとしたら流石は自分の相方だ。頼れる助っ人ふたりの登場に、忍足は後を任せることにした。
「すまん、おおきに!」
女子生徒を掻き分けて、忍足は校舎へ向かって駆け出した。ヘマすんじゃねーぞ、と背後から跡部の嘲笑のようなエールが聞こえた。
この一年、いろいろなことがあった。外部進学をすると決めて、特に勉強に勤しんだ。内申書のことを考えてクラス委員に立候補し、それなりの責任を持ってやってきた。四月に望んだとおり、完全とは言えないけれど、概ね穏やかな一年を送れたとは思う。もちろんそれは、終わりよければすべて良し、といった上でなのだろうけれど。
だけど、振り返って分かることもある。この一年、思い出の中にある姿。春も夏も、秋も冬も、大抵の思い出の中に彼がいる。
「・・・!」
勢いよく扉が開いて、現れたのは忍足だった。卒業式もホームルームも終わった今、教室は誰もおらずにがらんとしている。個人の荷物もすべて引き揚げられ、残っているのは規則正しく並べられた机と、黒板に書かれた「卒業おめでとう」の文字だけ。走ってきたのか、肩で息をする忍足の呼吸が静かに響く。
「忍足君」
振り返って、名を呼ぶ。卒業生と在校生が入り交ざった雑踏の中、氷帝に入学してから二回目、跡部に話しかけられて、教室で待っているように言われて、命令形だったけれども今回は頷いたのは、きっと忍足が来るだろうと思ったから。来てくれたらいいな、と自身も思ったからだ。伝えたい言葉がある。覚悟が同じかは分からないけれど、忍足に言ってもらえたら嬉しい言葉がある。
「」
扉から手を離して、忍足がゆっくりと足を踏み入れる。自分の席だった机の前で、はそれを待った。見上げる忍足の顔は強張っている。笑ってほしいな、と思う。
「・・・」
「うん」
「あん、な」
「うん」
「・・・俺、な。に言いたいことがあんねん。ずっと前から」
「うん」
眉が徐々に下がっていく。そんな顔も格好いいけれど、どうしてだろう、自分は忍足の意外な表情ばかり見ている気がする。不思議、とは少しだけ笑ってしまった。朗らかに話す顔も、涙する姿も、おそらく男としての一面も、頭を下げたところも見てきた。そして今、困ったようにへにゃっと顔を歪めて、徐々に頬を染めている忍足がいる。確かに彼は格好いいのかもしれない。氷帝テニス部のレギュラーで、有名なのかもしれない。それでもにとっては、この一年間、近くで見てきた彼だけがすべてだ。
これからも一緒にいたい。一緒にいる努力を、きっとしていける。一緒にしていきたい。忍足と、一緒に。だから
「ねぇ、先に言ってもいい?」
言いあぐねている相手に、は笑った。
「私、忍足君のことが好き。だから私と、」
気が付いたら、手のひらに柔らかなものが触れていた。それがの唇だと分かったのは、彼女が瞳を丸くして自分を見上げていたからで、忍足は知らずの口を自身の手のひらで塞いでいたのだ。触れる熱が、今この瞬間が現実なのだと伝えてくれる。つまりは、この耳に届いた声も、言葉も、気持ちも確かに現実のもので。
認識した瞬間、忍足の中を駆け巡ったのは歓喜と、そして情けなさだった。耳まで真っ赤になるのを自覚しながらも、はぁ、と肺の中の空気をすべて吐き出すような溜息をして背を丸くしてしまう。こつん、と額がの肩に載った。距離が近い。それでも、きっともう、この距離を許してもらえる関係なのだ。
「・・・、格好良すぎやで」
腹の底からの敗北宣言に、彼女が笑ったのが微かな息を手のひらに感じることで知る。そっと手を退かせば、やはりくすくすと小さな笑い声が聞こえた。鼓動が速い。
「何で言うてしまうんや・・・。せめて告白くらい、俺の方からしたかったんに」
「だって忍足君、いつまで経っても言ってくれないんだもの」
「せやけど、せやけどなぁ・・・。何や俺、ほんまにヘタレやん。情けな・・・」
「そうかな? 私はそんな忍足君も好きだけど」
耳に直接流れ込んでくる声に、速い鼓動がまたひとつ大きく跳ねた。こんなに近くにがいる。ずっと焦がれていた彼女が、こんなに近くに。ならば、と忍足は意地で顔を上げた。少しばかり開いた空間が寒さを感じさせるけれども、両の手のひらを優しくの肩に置く。見上げてくる瞳が浮かべているのは信頼と好意で、そのことが嬉しくて堪らない。この一年、ずっと傍にいたが、今はこんなにも近くにいる。友人ではなく恋人の距離で。
「・・・頼むから、これだけは俺から言わせてや」
懇願に、はうん、と頷いてくれた。それに励まされるようにして、忍足は大きく息を吸い込んで吐き出し、唇を開く。
「好きや、」
言葉にすれば途端に目の奥が熱くなって、それでも視線だけはそらさずに、忍足は懸命に笑った。
「ずっと好きやった。四月はちょっと気になっとるだけやったけど、五月に一緒にクラス委員やって、六月に負けたのを慰めてもろうて、ええなぁって思うた。七月は話すんが楽しゅうて、八月はが他の男と歩いとるのを見て、好きなんやって気づいた。他の男に渡したないって気づいた」
肩に置く手に力を込める。握っても彼女は逃げないでいてくれる。
「九月は、ほんまにすまんかった。もう二度とせえへん。ほんまに、死んでもせえへん。・・・十月は話も出来なくなってしもうて辛かった。自分がこないな阿呆やとは思うてへんかった。十一月、声かけてもろうて、死ぬほど嬉しかった。ほんまに、ほんまに嬉しかってん。好きやって痛感した。のこと、ほんまに好きやと思うた。好きになって良かったと思うた」
ゆっくりとの頬が色づいていく。好かれている。その気持ちが忍足の背中を後押ししてくれる。
「十二月、ほんまはクリスマスプレゼントも用意してたんや。今度持ってくるから貰ってやってな。一月、卒業が近づくのが苦しかった。に会えなくなると思うと怖かった。がどんだけ頑張ってたか知っとるのに、応援せなあかんのに、どうしても出来へんかった。せやけど二月、ちゃんと考えたんや。、俺はが好きや。高校が別になっても一緒におりたい。そりゃ離れるし、俺は部活もあって、あんまり会えへんようになるやろうけど、そないなことで諦めたくないんや。電話もする。メールもする。部活がない日はの学校に迎えにも行く。デートやてぎょうさんしたい。距離も時間も関係あらへん」
一気に心を吐露して、忍足は言葉を切った。せやから、と呟いて。
「のことが好きやから、と一緒に努力していきたい。これが三月、俺の出した結論や。一年間、と一緒におって、とやから出せた結論や。せやから、俺と」
ごくりと唾を呑み込んで、忍足は口を開く。喉はもうからからに乾き切っていたし、気づかなかったけれども手のひらには力を込め過ぎていて、本当に情けないとは思うけれども、それでもこれが自分だ。頼むから、と願いながら忍足は告白する。答えはもう貰っているようなものだったけれども、緊張感が薄れることはない。好きだという気持ちだけが溢れて忍足の中を満たしていた。これが、恋だ。
「俺と、付き合うてください。・・・のことが好きや。ずっとずっと、好きやった」
見つめていた瞳にじんわりと涙が浮かんで、けれど零れるよりも前に、うん、と頷いて。胸の中に飛び込んできたを、忍足も引き寄せられるようにきつく抱き締めた。大好き、とくぐもって告げられた気持ちに泣きそうになって、忍足は歓喜に目を瞑る。
卒業を祝うメロディが遠くから聞こえる。それでももう、苦しくはなかった。春も夏も秋も冬も、ずっと一緒にいたいから。
一年分の想いを込めて抱き締め合う。幸せ過ぎて、思わず笑ってしまった。
さ、最後までお付き合いくださりありがとうございました・・・! 本当にお待たせしまして申し訳ありませんでした!
2011年6月5日