この日のために一年間努力をしてきたはずなのに。
二月、緊張と躊躇いが心を覆う。





一年間(二月)





「おはよ」
第一志望の都立恵和高校の正門で、はかけられた声に顔を上げた。塾の講師たちが最後の応援にと来ている中で、こちらを見ている小柄な男子学生の姿。この一年同じ塾で勉強してきた彼に向かって、も笑みを浮かべる。
「おはよう、椎名君」
「はい、コレ。塾講から合格鉛筆だってさ。この鉛筆を使うだけで合格できたら僕らの一年間は何だったんだって感じだよ」
「せっかくプールも我慢してきたのにね」
「まったくだよ」
椎名が肩をすくめると白いマフラーも一緒に揺れた。それを見ては小さく笑う。けれど逆に椎名は、その少年にしては可愛らしい顔を怪訝そうに歪めた。呆れたような、どこか不機嫌な溜息が白くなって現れる。
「今になって氷帝の高等部に行きたくなった?」
響いた言葉にはハッと顔を上げた。校舎に向かって歩いている中で、まっすぐな視線が向けられて。いつもは確たる己を持っているの瞳が戸惑って揺れていて、椎名はかすかに笑みを浮かべる。
「忍足だっけ? アイツに何か言われた?」
「・・・何で」
「アイツがに好意を持ってることぐらい、俺は夏休みに見かけたときから気づいてたけど? ついでに言えば、ここ数ヶ月でがアイツのことを好きになってるってこともね」
「・・・・・・」
確かに塾で会ったときには学校でのことを話していたかもしれない。だけどまさか気づかれていたなんて。寒さの所為ではなく頬を赤く染めたに、椎名は楽しそうに笑った。だからこそ、笑顔のままで言われた台詞は辛辣だった。
は、男のためなんかに道を違えるようなクダラナイ女に成り下がるわけ?」
「―――っ」
息を呑む音が寒さの中に響く。大きな目を細めて椎名は企むように笑い、から視線を逸らさずに先を続けた。
「認めたくないなら、俺が指摘してあげるよ。が受験を躊躇う理由」
核心から目を逸らすことを許さないように、椎名は真剣な眼差しでを捕らえて。の指先が小さく震える。聞くのが怖い。だけど聞かなくてはいけないと思う。
今後の自分のために。―――今後の、自分と忍足の関係のために。

は氷帝を出ることに迷ってるんじゃない。忍足のことが好きで、忍足に好意も持ってもらっているのに、それを放って氷帝を出ることに迷いもしない自分が嫌なんだ」



ざわざわとした喧騒の入り混じる教室で、忍足は深く溜息をついた。目線を動かしても、いつもは喜びを得られる位置に彼女がいない。それだけのことがひどく辛く感じる。あと一ヶ月もすればは氷帝からいなくなり、今日のような日々がずっと続いていくというのに。
「あかんで、自分・・・」
練習日とも言える今日から無理だと思ってしまうだなんて。忍足は乱暴に前髪を掴んで握りつぶした。睨みつける席にはいない。胸の中を荒々しい感情が暴れ回っている。会いたい。共にいたい。ずっと、一生、の傍にいたい。それだけが忍足の中を占めていた。



吐く息が白く濁り、現れては消えていく。椎名の言葉が大きな響きをもっての中に落ちてきた。それは本音。忍足のことを好きだと気づいてから、見ないようにしてきた心。好きだと思う。一緒にいたいと思う。傍にいられたらいいと思う。だけど、そのために今までの自分を覆すことは出来ない。氷帝を出ると決めたのは自身だ。忍足に出会う前とはいえ、その事実は変わらない。両親に話をして、納得してもらって、塾に行かせてもらって、このまま氷帝高等部に進めばすることのない苦労をかけてきた。だけどそれを決めたのは自身。他人のためじゃない、自分のため。そのために無理を願って、そして努力してきた。だからこそ、それを無駄にすることは出来ない。今まで迷惑をかけた多くの人のために。―――何より、自分のために。
止まってしまったを促して、椎名は昇降口で中靴に履き替える。幸いにもと椎名の受験番号は近く、教室も同じだった。周囲が単語帳や参考書をめくっている中で、二人してのんびりと試験会場である教室を目指して。
「学校が別でも付き合ってる恋人たちはいる。そう難しく考えることはないんじゃない?」
「・・・私と忍足君は、付き合ってないよ」
「まだ、ね。気持ちはもうハッキリとしてる。後はどちらかが言い出すだけだろ」
「・・・言えないよ、そんなこと」
自ら出ていこうとしているのに、そんな都合の良いことは言えない。ワガママにも程があるから。の呟きは頼りなさ気で、それを聞いた椎名は逆に頼もしく笑う。
「そう決めるのは告白してからでも遅くないんじゃない? どうせ高校は別々なんだしさ、これもいい機会なんじゃないの」
それとも同じ氷帝高等部に進まなくちゃ忍足はのことを好きになってくれないとでも思う?
続けた椎名に、は首を振った。それは否定の意味ではなく、そんな想いは恋ではないと思ったから。・・・・そう。

離れていても好きだと思う。その想いが大切だから。

「・・・ありがとう、椎名君」
今日の最初に見せた笑みじゃない、今度はちゃんとした笑顔に椎名も同じように笑った。
「どういたしまして。恋愛に腑抜けて受験に落ちるなんて見てられないしね」
「うん、本当。そうなるところだった」
「今日は英数国に面接だろ。それさえ終われば春の到来さ」
まだ試験さえ受けていないのに合格を前提に話をしている。けれどその自信が椎名に相応しくても頷いた。本当に良い友達を持つことが出来たと心の中で感謝を送って。指定された教室のドアを開けて、椎名は振り返った。そして当然のような顔で、サラリと告げる。
「ところで四月からは同じ学校に通うことになるわけだし、俺としてはそろそろと親友になりたいんだけど?」
その言葉に異論なんてものがあるわけがなく、は嬉しそうに頷いた。



彼女が合格通知を受け取るのは、その三日後のこと。





2004年4月2日