先にあった関東大会の初戦で、手塚国光は肩を壊した。
大事には至らなかったが、それでも不安材料を抱えてしまったのは事実。
来たる全国大会に向けて、彼は九州の地で療養に専念することに決めた。
そしてそれを、自らの所属している生徒会の副会長に告げたとき。



「うん、分かった。完治してきてね」



笑顔で送り出されたのに少しだけ胸が痛んだのは、きっと自分が我侭な所為だろうと手塚は思った。





青春学園中等部生徒会(出立編)





「失礼しました」
一礼して、手塚は職員室を出た。
九州への出立を明日に控え、顧問の竜崎をはじめとする教師陣に挨拶をしてきたのだ。
夏休みを挟んで、休学できるのは長くて十月の初めまで。
全国大会までに完治することは難しいだろうが、それでもプレイするくらいまでには治せるだろうと言われている。
今年が、最後のチャンスなのだ。そのために出来る限りのことをしたい。
机やロッカーの荷物はすでにまとめてあるし、後はテニス部へ顔を出して。
・・・・・・そう考えて、手塚は足を止めた。
昇降口へ向かおうとしていたのを、少しの間逡巡してから取って返す。
きっと、まだいるだろうと思いながら。
放課後の静かな校舎内を歩き出す。
――――――生徒会室へと向かって。



九州へ行くと告げたとき、は常と変わらない笑顔で言ってくれた。
「うん、分かった。完治してきてね」
それはとても温かい、励ましの言葉。
だけど、そう言われたときに手塚は自分でも分からない胸の痛みを覚えたのだ。
思い返してみて、気づく。



自分はに「寂しい」と言ってもらいたかったのだ。



「・・・・・・どうしようもないな、俺は」
自嘲気味に呟いた声が廊下に響き、手塚はさらに苦笑する。
自ら行くと決めたのに、惜しまれたいだなんてまるで子供の我侭だ。
しかもそれをに求めているだなんて。
そんなことをしてはいけない、と再度自分に言い聞かせる。
彼女は、縛ってはいけない人なのだから。



という人物は、手塚にとって特別な存在だった。
対等の目線で話す、受け止めてくれる強い存在。
恋愛の情がどうということではなく、ただ彼女だけは、他者とは違う。
それは明確だったし、それさえ判っていれば良いと手塚は思っていた。



辿り着いた二階の端。
細く開いている扉の向こう。
慣れ親しんだ机や本棚の中に。
見慣れた、後ろ姿を見つけて。
手塚はドアノブに手を伸ばした。





「・・・・・・今月末に、体育祭」





聞こえてきた声に、動作が止まる。





「七月に入ったら生徒会選挙の詳細も決めて、文化祭の見積もりも出さないと・・・・・・」
シャッシャッと走らされる音は、何度も書き直しては計画を綴っていく。
「連合水泳大会と陸上大会は他校にも挨拶に行かなきゃいけないし、高校説明会と英検は部活の兼ね合いと場所のセッティング・・・・・・」
細い指が髪をかきあげ、少しだけ雑な仕種で撫で下ろす。
「終業式と登校日と始業式の挨拶も・・・・・・私がやらなきゃ」
カタ、とシャープペンシルの置く音がして。
溜息が一つ、生徒会室に重く響く。



「・・・手塚がいないんだから、私がしっかりしなきゃ・・・・・・」



手に額を寄せる後ろ姿は、細い肩をした少女のもの。
手塚はそれを目にし、愕然とした。



自分は一体今まで、彼女の何を見ていたのだろうか。



強いと思っていた。その見解を今も変えることはない。
彼女は自分よりも強くて、その芯のある優しさがとても好きで。
癒され、受け入れてもらえることが嬉しかった。
だから甘えていた。



だって、まだ15歳の女の子なのに。
自分と変わらない年の、少女なのに。



カチャリ、と音を立てたドアには弾かれたように振り向いた。
そしてそこに知己の姿を見とめ、笑みを浮かべて席を立つ。
今の今までプレッシャーと戦っていたことなど、微塵も感じさせずに。
「どうしたの、手塚? 明日はもう九州へ行くんでしょ? 挨拶回りは終わった?」
ロッカーに近づき、その中からコーヒーメーカーを取り出す。
いつもは必ずと言っていいほど机の上にある菓子も今はなく、手塚はそれに気づいて唇を噛んだ。
「・・・・・・
喉から絞り出す声は掠れていて。
「ん?」
振り返る彼女は変わらずに笑っていて。
自己満足だと分かってはいても。



「・・・・・・・・・すまない」



謝らずには、いられなかった。



自分がこの学校を離れるということは、生徒会長がいなくなるということ。
六月の半ば、これから行われる体育祭。七月の終業式。
夏休み中には二学期の行事計画をまとめなくてはいけないし、文化祭についての下準備は今から始めなくてはならない。
その大切な時季に自分がいなくなるということを、手塚は頭では理解していたが、現状として分かっていなかった。
全国大会のためというフィルターに、覆われていて気づけなかった。
自分がテニスを選んだことで、すべての皺寄せがに行ってしまったのだ。
そしてそれを隠して、見送ってくれた。
励ましの言葉まで添えて。



どんなに謝っても謝りきれない。感謝してもし足りない。
自分は彼女に甘えてばかりだ。



頭を下げた手塚には目を見開き、そして微かに眉を顰めた。
持っていたマグカップをテーブルに下ろし、溜息を押し殺しながら吐き出す。
「・・・・・・謝らないで。手塚の選択は当たり前のことなんだから」
苛立ったように手を握るのは、きっと自分に対して。
「健康と生徒会を秤に掛ける方が間違っているもの。今後のためを思うなら、手塚は九州に行って治療に専念すべきなのよ」
頭を下げている彼を見ることが出来なくて、視線は窓から外を眺めたまま。
「手塚の不在を辛く思うのは、私にそれだけの器がないから。だけど大丈夫。夏休みを含めて四ヶ月程度なら、何とか保ってみせるから」
笑ってみせたのは意地だ。
手塚への、副会長という立場への、そして何より自分自身に対して。
苦く笑い、肩を竦める。
「・・・・・・いやぁね」
ゆっくりとした動作で、手の平で目元を覆って。
微かに指先が震える。



「本当はちゃんと笑って、もっとかっこよく見送るはずだったのに・・・・・・」



表情の見えない、声だけが伝わってくる部屋の中で。
泣いてしまうのではないかと、思った。



自分も、彼女も。



「・・・・・・・・・俺は、ずっとに憧れていた」
下げていた頭を上げ、手塚が口を開く。
今までずっと胸に抱いてきた温かな気持ちを、今こそ吐露する。
「おまえの強さが羨ましかった。いつでも周囲を気遣える優しさを、素晴らしいと思っていた」
いつもならこんなこと、顔を見て言えない。
だけど、今だけはそうしなければいけないと分かっていた。
「俺は、かっこいいしか知らない。たとえ自身がどんなに情けなく思おうと、俺はおまえをかっこいいと思う」
心からの感謝と、謝罪をすべて込めて。
抱えてきた一番大切なことを、今伝える。



「俺はがいたから、今までやってこれたんだ」



だから胸を張ってくれ。
それだけの権利が、絶対にあるから。



「・・・・・・ありがとう」





静かな校舎。
窓から入ってくる夕日。
伸ばされる影と、陽に染まる顔。
慣れ親しんだ生徒会室。
「・・・・・・寂しくなるね」
言ってもらいたかったはずの言葉。
だけど、今はこんなにも切ない。
「気をつけてね。無理は、しないで」
「・・・・・・あぁ」
の微笑みが、今は少しだけ泣きそうに見える。
「私も頑張るから、手塚も負けないで」
「・・・・・・あぁ」
手塚は苦しくなる胸を、眉間に皺を寄せることで堪える。
「・・・・・・夏が来るね」
頷いて、目を閉じる。
同じ空間にいるの存在だけを、ただ感じて。
今度こそ見失わないように。
―――受け止められるように。
とこれからも並んでいられるように。
切に強く誓う。



「いってらっしゃい」



導かれるようにして瞼を開けば、広がる世界。
素顔の笑顔で見送られて。
手塚も、自然と微笑んだ。



「――――――行ってくる」





2004年6月19日