どうしよう、とそのときは思っていた。
目の前にはニコニコと笑顔を浮かべている男の子。
それだけならばよい。
そう、それだけならば。
「はじめまして。ボク、葵剣太郎っていいます!」
「・・・・・・・・・・・は、はじめまして・・・・・・」
爽やかな笑顔と挨拶。そう、それなのに。
第六感が警報を鳴らすのはどうしてなのだろう、とは内心で冷や汗を流しながら思った。
青春学園中等部生徒会(六角編)
それは、本当に偶然だった。
たまたまが父に頼まれて、書類をお台場にある会社へと届けに行った帰り道。
何気なく駅までの道の途中で聞きなれた音がしたからそちらを振り向いた。
そこには予想と違わず黄色い小さなボールが音を立ててやり取りされていて。
思わず毎日顔をあわせている生徒会長兼テニス部部長の顔を思い出しては苦笑する。
そんな中、コートの中にいる片方の選手に見覚えがあることに気づいた。
「・・・・・・・・・サエ君?」
そう、ここで声に出して呟かなければ良かったのだ。
けれどもう遅い。
「あれ? サエさんの知り合いですか?」
フェンス越し、一番近くにいた同年代と思われる男の子が振り返って。
その瞬間、は何故かひどく後悔したのだった。
どうしよう、とは思う。
夏の暑さではない汗が背中を伝って、本気で自分は困っているのだと他人事のように思った。
目の前には先ほどと変わらずにニコニコと爽やかに笑っている男の子。
身長はよりほんの少し高いくらい。短く切った髪がどことなくスポーツ少年を連想させる。
そしてそれは彼の持っているテニスラケットから間違いではないことが窺えた。
は自分の双子の片割れがサッカーをしていたり、所属する生徒会の会長がテニス部部長だったりして、スポーツ少年には何故か縁がある。
他校に知り合いも多いし、もちろん東京都だけでなく他県に知り合いもいたりする。
そう、今まさにテニスコートでボレーを決めてみせた佐伯虎次郎もその一人だった。
――――――――――しかし。
「さん。青学の人なんですね」
「・・・・・・うん、まぁ・・・・・・・・・」
「サエさんとはどこで知り合ったんですか?」
「いや、あの、試合会場で・・・・・・・・・」
「いいなぁ、サエさん! こんなに綺麗なお知り合いがいるなら紹介してくれればよかったのに!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
どうしよう、とはここ十分で数え切れないほど思ったことをもう一度繰り返した。
葵、剣太郎君。
千葉にある六角中のテニス部の部長さん。
一年生にして部長であるということはスゴイことなのだろう。
手塚を見ていればそれは判るし、分野は違えど人をまとめる地位にいる父や祖父をはずっと近くで見てきている。
そう、彼はきっと素晴らしい少年なのだ。
素晴らしい少年なのだ。
・・・・・・・・・素晴らしい少年なのだ!
は隣でずっと喋り続けている少年から微妙な距離を取りながら何度も何度も自分に繰り返す。
葵剣太郎君は、素晴らしい少年なのだ。
少なくとも、テニスにおいては。
ならば何故こんなにも鳥肌が立ちそうなくらい自分はこの少年に第六感を覚えなくてはいけないのだろうか。
とりあえず誰でもいいから助けて欲しい。
はいまだ一方的に喋り続ける少年の隣でひそやかに目を伏せた。
「――――――――――あれ、?」
助かった、とが声に出して言わなかったのはまさに奇跡に近かった。
「サエ君」
「ひさしぶり。今日はどうしてここに?」
「ちょっと用事でね」
あからさまにホッとした様子のに気づいたのか、佐伯はほんの少しだけ苦笑して後輩へと振り返る。
「剣太郎、おまえの番」
「ずるいっすよ、サエさん! ボクもさんと話したいのに」
名前呼び、とが小さく呟いたのに佐伯はさらに苦笑を深める。
「後で話せばいいだろ? ホラ、行ってこい」
手を振るように追い払われて、しぶしぶとコートへ向かう。
「じゃあさん、また後でっ!」
相変わらずの爽やかな笑顔にはぎこちなく首を縦に振った。
嬉しそうに笑ってラケットを握り締める姿。
どことなく緊張したままのに佐伯は軽く笑う。
「剣太郎、苦手?」
「・・・・・・・・・やっぱり、判った?」
「まぁね」
小さく舌を出して肩を竦める。
コートでは活き活きと動き回っている少年。
「珍しいね、がそういうのを表情に出しちゃうのって」
「うん・・・・・・何でかな。何となく苦手なのよね・・・」
会ったばかりなのに、とが呟くと、佐伯はその黒髪へと手を伸ばして笑う。
「たぶん、の感は当たってるよ」
「え?」
「見てれば判る」
そう言って示されたテニスコートでは負けそうな形勢の少年がいて。
けれど一発のショットでそれは見事に覆された。
こちらを見て、爽やかな笑顔を満面に浮かべる少年。
「さん! もし5−0から逆転できたらボクとデートしてくださいっ!!」
「もしこのボールがネットインしたらこのあと食事でもっ!」
「このショットが決まらなければボクは一生さんと手を繋げない・・・っ!」
「このスマッシュが決まらなければ一生さんと話も出来ない・・・・・・っ!!」
延々と続く「もし・・・なら〜〜〜」構文。
最初はゾワワワワワワと立っていた鳥肌も、何度も繰り返し聞いているうちにだんだんと収まってきて。
はぼんやりとコートを眺めながら呟いた。
「・・・・・・・・・個性的な子ね、葵君って」
その言葉に佐伯が楽しそうに笑う。
「まぁそういう評価の仕方もあるかな」
「今日はバネ君たちはいないの?」
「今日は俺と剣太郎だけ。練習試合の申し込みの帰りでさ」
「なんだ、残念」
たいしてそう思っていない様子の彼女の向こうで、こちらの会話など知らない様子の少年がノータッチエースを決める。
「・・・・・・・・・これで葵君が勝ったら、私はデートにお付き合いしなくちゃいけないのかしら」
切実とした声音に佐伯が笑う。
「さすがのも剣太郎は苦手?」
「苦手というか・・・・・・・・・・・うん、そうね。少し苦手かもしれない」
「それじゃあ」
の透き通った白い肌をした手を取り、瞳を覗き込んで佐伯が笑う。
「俺がお供することをお許し頂けますか?」
軽やかに忠誠の口付けを。
あまりに自然な動作には笑って。
許可を出そうと思ったそのとき―――――――――・・・・・・・・・。
「あああっ! ズルイ、サエさんばっかり!さん、俺にもさせて下さいっ!!」
「・・・・・・・・・剣太郎、次の試合でラブゲーム決められたらいいってさ」
「よっしゃー! 頑張るぞ!!」
より一層テンション高くゲームに臨み始めた少年には深く深く肩を落として。
「・・・・・・・・・余計なこと言わないでよ・・・・・・・・・・・・」
「本格的に苦手なんだ?」
「・・・・・・ちょっと、うん・・・・・・・・・」
「可愛いね、」
いつもは誰を相手にしても物怖じしない少女が本当に困った顔で眉根を寄せている。
初めて見るその表情に佐伯は楽しそうに笑った。
「大丈夫だよ、俺が守るから」
サラリとした黒髪にキスを落として。
「ご安心を、お姫様」
再びコートであげられた大声に二人して笑って。
は小さく頷いた。
夏のある日。
は彼女にとって苦手な部類に入る人間を初めて発見した日だった。
2003年7月9日