08.とってもこわがりです





とん、とん、と小さな音だけが室に響いていた。夕焼けの喧騒など欠片もない、襖に閉ざされて月光さえも及ばない闇。薄い夜着に身を包み、は濡らした布で膝の上の着物を軽く叩くことで拭っていた。深い青に染み込んでしまった紅。どんなに拭っても独特の臭いが薄れることはなく、糸にさえ付着した色は消えていかない。とん、とん、と柔く抑える音だけが室内に繰り返される。とん、とん。
様は、どうして賊をお庇いになられたのですか?」
細く、開かれた襖。板張りの廊下に座しているのは喜多だろう。他の女中とは違う響きが含まれている。僅かの叱責。その何倍もの当惑。差し込んだ月光が着物の裾を浮き上がらせる。目の覚めるような青だ。奥州を染め上げる、彼の人の色。
「あの者が敵国の武将であることをご存知だったのですか?」
立つ、姿を知っている。雪原の中、その形だけが意識を奪うほどに鮮明だった。抜かれた刀は一本だった。農民相手にはそれで十分だと言っているのだと、いつきは憤ったけれども、今ならば分かる。彼は、傷付けないために、他の五本を抜かなかったのだ。それでも一本を抜いたのは、いつきや他の農民、そしてが武器を握っていたから。命を奪われる可能性を前に無抵抗でいることは、彼に限って許されないのだ。
「どうして、政宗様の前に立ち塞がられたのです」
優しい人だと知った。民を守り、泰平のために起つ、誇りある人だと知った。城主たるに、奥州を統べる筆頭たるに、いずれは日ノ本を治める王たるに、相応しい人であると思う。それは今も変わらない。伊達政宗は人として優れている。それでも、そんな彼の前に立ち塞がってしまったのは。
「・・・様」
喜多には、きっと見えない。ほろり溢れた涙は紫と化した着物に吸い込まれ、それすらも優しく、丁寧に、はずっと拭い続ける。この着物は、が青葉城に連れてこられたとき、初めて政宗が与えてくれたものだ。おまえには青が似合う。満足そうに細められた隻眼が、夕焼けの失望を象ったそれに代わる。
「・・・・・・生きてほしい、と・・・思って、しまったのです」
とん、とん、とは着物を布で撫で続ける。少しでも青が取り戻されるように、そっと、ずっと。
「・・・あの、方は、病魔に侵されていました。・・・咳き込み、血を吐かれたのです。白皙のお顔が、真っ青に、染まって」
手だけは休めずに、はずっと、ずっと。
「・・・触れた肩も、細くて、骨の硬さだけが、伝わって。今にも消えてしまいそうな・・・命の、灯火を、懸命に守っていらっしゃって」
とん、とん、とそれだけが響き続ける。闇の中で、とん、とん、と。とん、とん。とん。
「・・・そのような方を、どうして、わたくしが、見殺しに出来ましょうか」
手を止める。その瞬間だけが、無音だった。
「夜毎、同じ恐怖を抱く身として、どうしてあの方が殺せましょうか。絶えず死に怯えているわたくしに、同じ身の上であるあの方を、どうして、どうして」
しばしの沈黙の後に、とん、とん、と音が再開される。凛とした声は出せない。死を真横に備えながらも、臆すことなく前を見据え、そして謝罪した男のようには。彼のように生きれたら。そう願うことすら罪なのだということを、はちゃんと理解している。
「・・・・・・処罰をお受けいたしますと、政宗様にお伝えください。農民であるこの身、使い様などあるかは分かりませんが、例えそれが斬首であろうと、甘んじてお受けいたします。申し訳ございませんでしたと、どうかお伝えください」
様」
「喜多様も・・・ご期待に沿えることが出来ず、申し訳ありませんでした・・・」
繰り返し、繰り返し着物を拭い続ける。襖が閉じられ、再び闇が訪れた。喜多の気配が去っていき、室にはだけが残される。暗闇の中、すでに見えない着物を何度も何度も拭い続けた。血は取れない。ましてや吐き出された病の欠片は、の身にも隅まで染み付いているのだから。夜着の肩が震えた。それは寒さか、それとも別の。
とん、とん、と音だけが室に鳴り続ける。月の傾きにつられることなく、とん、とん。とん。





わたしも、あの方も、きっと朝日に焦がれている。
2010年1月11日