俺と彼女の恋人が会った日の話





邂逅は、柳の予想を裏切り、唐突に、そして偶然に訪れた。
その日、柳は母親に使いを頼まれ、部活が終わった後に小田原を訪れていた。立海大附属中は藤沢にあり、柳の家は逗子だ。方向からすれば小田原は正反対なのだが、母は別の用事がありどうしても行けないという。全国大会をいよいよ来週に控え、気分転換にもなるだろう。ずっと気を張り詰めたままでは本番を迎える前に疲れてしまうと考え、柳は快く請け負った。使いを済ませた後、駅ビルのラスカをぐるりと回る。時間が許すなら小田原城に足を運んでも良いのだが、すでに五時を回っているから諦めた。伊勢屋で豆大福を家族の数だけ購入し、さて帰るかと一度ビルの外に出てから、エスカレーターで改札のある階に向かおうとしたときだった。
しゃっと柳の視界を何かが横切った。振り向いて確認すれば、ロードバイクだった。特徴的なドロップハンドルに高いサドル。泥除けやスタンドを撤去した、軽さと速さを求める形の自転車だ。最近は競技ではなく通勤の手段として街中で乗っている者も多く、の恋人が自転車競技をするから、その関係で目に留まったのだろう。感化されているな、と柳は小さく笑う。夏休みに入ってからこっち、との交流はメールで行っている。もちろん毎日ではなく思いついた頃にといった感じだが、来週の全国大会はアデルと共に観戦に来てくれると言っていた。応援してる、というメールの文章に、ありがとう、と返した記憶は新しい。そのためにも早く帰宅し、明日の練習のために身体を休めよう。そう考え、柳は改札に向かおうとしたのだが。
「そこの少年! 背の高い黒髪の! 君だ、君!」
背後から呼び止める声に、一応少年期であり黒髪を自負しているため、柳は足を止めた。振り向いている最中に先程と同じ車輪がアスファルトを滑る音がして、それは柳が完全に身体を返すのと同時に目の前まで来て停止した。本当に速いな、と思っていると、サドルに跨っていた人物が顔を上げる。青年だった。柳は思わず開眼した。柳より十センチメートル弱身長は低いが、顔立ちと雰囲気からして年上だろう男は、上から下まで視線を走らせた後に口を開く。
「立海大附属中のジャージに、テニスのラケットバッグ。加えて身長百八十センチメートルオーバーの黒髪細目の醤油顔イケメン。君が柳蓮二か!」
「・・・そういうあなたは、箱根学園自転車競技部のジャージに滑らかな口上。十人中八人がイケメンと称する美貌の持ち主、東堂尽八さんですか?」
「・・・十人中八人という評価は誰から聞いた?」
「桑嶋アデルからです」
「そうか、桑嶋さんなら仕方がないな」
眉根を寄せて少しばかりの不服を表すけれども、それをすぐさま消し去り、男は笑った。
「ここで会ったが百年目だな! はじめまして、柳蓮二君。俺がの恋人の東堂尽八だ!」
「こちらこそお会いできて光栄です。はじめまして、東堂さん。の友人の柳蓮二と申します」
「是非とも固い握手を交わしたいところだが、汗だくのため叶わずすまんな。しかし会えてよかった!」
どれだけロードバイクで走って来たのか、流れる汗は爽やかで、それすらも魅力的だった。闊達な笑顔はそれだけで華となる、男らしい美形だ。ちゃらくはないな、と柳は以前抱いた印象を取り消した。それが、柳と東堂尽八の生身での初対面だった。
折角なので話をしないか、という東堂の誘いに、柳は一も二もなく頷いた。これを逃せば、次はいつ会うことが出来るかも分からない相手だ。東堂が飲み物を買いに行っている間に、柳は少し遅くなる旨を自宅に知らせた。気を付けてね、という言葉を貰い、閉じた携帯電話をジャージのポケットにしまう。生憎とベンチが空いていなかったため、腰を預けているのはガードレールだ。東堂の愛車であるリドレーも、今は柳の隣に立てかけられている。コンビニエンスストアから出てきた東堂は、柳を見つけて戻ってくるとビニール袋から二つの飲み物を取り出した。
「カフェラテとロイヤルミルクティーのどちらが良い? 独断と偏見で選ばせてもらったが、いちごミルクの方が好みだったか?」
「いえ。カフェラテを頂きます。御代は」
「年上の面子として奢らせてくれ。それにが世話になっているしな」
渡されたチルドカップは冷えていて、夕方とはいえ夏の熱気がアスファルトに残るため気持ちいい。取り出しかけた財布をどうするべきか柳は一瞬悩んだが、いただきます、と礼を言ってからストローに手をかけた。どうも代金を渡したところで素直に受け取ってもらえる気がしないのだ。言葉巧みに収めようかと思ったが、何となくやり返される気配を感じた。頭脳戦になりそうだとでも言えばいいのか。隣に腰を預けた東堂は、取り出したストローをカップに挿して、ちゅうとロイヤルミルクティーを吸い上げている。甘いものもいけるタイプであるとは聞いていたが、やはり本当らしい。喉が渇いていたのか東堂はあっという間に飲み切って、空になったカップを再びビニール袋の中に戻した。柳が三口目を飲み込んだくらいのときである。
「柳君、ずっと君に礼を言いたかった」
「礼、ですか?」
「そうだ」
隣に腰かけているのに、東堂はきちんと柳の方を向いている。しっかりした人だな、と柳は思った。立ち振る舞いが美しい、というよりも礼儀正しい。これはにも多々見られる所作で、似たモノカップルか、それとも育ってきた環境かと柳は考える。
「以前にが痴漢に遭った際、俺に電話するように言ってくれたのは君だと聞いた。ありがとう、柳君。本当に助かった。心から感謝している」
深く、真摯な声音に、柳は口をつけていたストローを離した。東堂はまっすぐに柳を見つめて来ている。いつだったか性根のまっすぐな男だろうという印象を抱いたが、やはりそれは正しかった。に向けられるひたむきな愛情に柳は自然と笑みを浮かべ、いいえ、と頭を振る。
「俺は友人として当然のことをしたまでです」
「だが、その行動がを、そして俺を救ってくれたのもまた事実だ。ありがとう、柳君。友は宝だからな。は本当に良い友人を持った」
「ご存知かと思いますが、あれ以来は桑嶋と一緒に通学していますので、新たな被害には遭っていないかと」
「ああ、そう聞いている。まったく桑嶋さんにも礼を言わなくてはな。俺に甲斐性がないばかりに、君たちには苦労をかける」
すまない、と頭を下げる姿に、柳は軽く目を瞠る。容姿は決して大人びているわけではないのだが、物腰や表情がやはり柳よりも三歳年上なのだと知らせる。これは正しく「年上の男」だ。年季というか、器が違う。惚れ惚れするな、と柳は友人のお目の高さに感心した。
「学校でのはどうかね? 可愛いだろう? 俺の恋人だからな! 間違いなく可愛いだろう! だが惚れてはいかんよ!」
「あなたがいる以上が俺を見ることはないでしょうし、俺も彼女のことは友人としか見ていませんのでご心配なく。そうですね、は派手に振る舞うわけではないので目立ちませんが、男子からの評価は高いです。騒がれるよりも本気で好意を寄せている奴が多い」
「む、それは困るな。の魅力が知られるのは喜ばしいが、それで余計な虫がついては困る」
はあなたしか見えていないようなので心配無用かと思いますが?」
「そして俺もしか見えていないわけだがな! いやしかし、それとこれとは話が違うのだよ、柳君。特に俺とは生活圏がまったくもって重ならない。これは思いの他大きなハンデだ!」
大袈裟な身振り手振りは役者のようで、自分の持つ魅力がどういうものなのか分かっている者のそれだ。立海にはいないタイプだな、と柳は思う。言葉の端々から知性を感じる。時に計算もするだろうその本質が冷たいものにならないのは、間違いなくこの喋りがあるからだ。空気が読める人だろうな、と柳は判断した。聡いと言っても良いかもしれない。
「時に柳君、俺は君に対しても複雑な気持ちを抱いているぞ」
びしっと突き付けられた指に思わず苦笑してしまう。再びカフェラテに口をつけ、一口飲み込んでから柳も応えた。
「俺は、東堂さんが俺のことを知っているとは思いませんでした」
は話さないだろうと思っていたのかね? それは残念! 俺はの交友関係も把握しておきたいからな。柳君のことも君がに恋人の有無を聞いた日から知っていたぞ」
「それは随分と前からですね」
「そうとも! 黙って仲良くなられたら勘ぐる要因になってしまうだろう? 俺としては不安要素はすべて潰しておきたい」
指さした人差し指で、東堂はくるりと小さく円を描く。黙っていれば涼しい顔立ちの美形だから、さぞかし手も美しいのかと思いきや、目の前に掲げられたものは節くれだった男のものだった。むしろ厚く逞しい。握られているために分かり辛いが、おそらく肉刺などもあるのだろう。炎天下の中、長時間自転車を漕ぐというスポーツをやっているのだ。注意してみればその体躯は逞しく、細身に見えながら柳よりも筋肉質かもしれない。全国制覇を成した部の者として、種目は違えど努力の大切さは身に染みて理解している。シンパシーに似たものを感じ、柳は唇を綻ばせた。
「俺とは歳が異なるからな。正直、隣の席で授業を受けているという君には嫉妬せざるを得んよ。隣を向けばがいるという環境にいる君が嫉ましい。ちょっと代われと制服を剥ぎたいくらいには嫉ましい」
「俺と東堂さんでは体格が違うので難しいかもしれませんが、それでも良ければ」
「その長身も羨ましいがな! しかし俺はクライマーだ。山を登るには軽さが物を言うから、身長と体重は程々で良いのだよ。それにとの身長差は十分あるから贅沢は言わん」
「俺も東堂さんとはお似合いだと思います。容姿も性格も」
「ありがとう! だが柳君、君も俺には劣るが中々に良い男と見た」
ゆっくりと東堂の唇が笑みを描いていく。透き通った瞳に見透かされるような気がして、柳はつい動きを止めてしまった。吸い寄せられる、その強さを持っている人だ。魅力的だと言い換えて間違いない。一歩踏み出したなら、これはカリスマとさえ呼ばれる類のものだ。ごくりと柳は唾を飲み込む。東堂の声が夏の夕暮れ、遠く駅のホームのアナウンスに被さり聞こえてくる。
「柳君、君は頭の回転が速く、親切で、物腰が柔らかい。運動も出来るし、勉強も出来るのだろう? 顔も中々にイケメンだし、何より友を大切にする。この東堂尽八が保証する。君は良い男だ」
だが、と東堂は笑った。酷く迫力のある、美しい顔をして。
「だからこそにだけは惚れてくれるなよ。は俺の、東堂尽八の生涯の宝だ。後生だから奪うなんて真似だけはしないでくれたまえ」
もし万が一が起きたら、俺は君を全力で排除しなくてはならない。俺はが愛しいから、あの子の悲しませたくはないのだよ。
「――分かるな?」
「・・・はい」
そう答える以外に何を口に出来ただろうか。手の中のカフェラテが一気に重さを増した気がして、柳は首を縦に振るだけで精一杯だった。にっこりと東堂は笑う。駅前の賑わいが嘘のように遠ざかり、戻って来たときの現実感といったらなかった。非常によく似ている。そう、柳は思う。東堂とは非常によく似ている。表面ではなく本質が、その想いの質が、懸ける本気が、だ。これは育ってきた環境に拠るのだろうか。幼い頃に二人だけでずっと、時を共にしていたからだろうか。そこに愛情が芽生えるとこうなるのか。柳には分からない。だが、東堂とを離してはいけないということだけは理解した。少なくとも第三者が介入して、彼らの仲を乱すことだけは避けなくてはならない。
東堂が凄みを垣間見せたのは一瞬だけで、それ以降は穏便な会話を楽しんだ。テンションが高いと聞いていたのは本当で、喋る喋るとにかく喋る。ここまで口が回る同性は初めてで、柳はある意味感心してしまった。しかも話の内容が、まあ自分を誇るのは別として、不思議なほどに不快を感じさせない。人や物を悪く言ったりすることがないのだ。そして自分が喋るだけでなく柳の話も引き出し、絶妙な相槌を打ってくる。話し上手かつ聞き上手で、この人はもてるだろうな、と柳は思った。異性にはもちろんだが、同性からも慕われるに違いない。うるさいと邪険にする輩もいるかもしれないが、口を噤んだときの表情にもまたはっとさせられる。容姿が硬質な美しさだからだろう。黙っていれば冷ややかに見えるのを、喋ったり笑ったりオーバーリアクションを取ったりすることで変えているのだ。凄いな、と柳はほとほと感嘆した。何と言うか、これだけ優秀な男もそうはいるまい。器の大きさに恐れ入る。
「むっ、随分と話し込んでしまったな。柳君の家はどっちだ?」
「逗子です。今日は母に用事を頼まれて来ていたので」
「そうか。遅くまで引き止めてしまいすまない。しかし君と話せて良かった!」
「俺もです」
「是非とも連絡先を交換したいのだが、どうだろうか?」
「喜んで」
さっと取り出されたのは柳の予想通り、と同じ会社のガラケーだった。ストラップがいくつかついているが、本体に傷は少ない。物は大切に取り扱うタイプなのだろう。画面を見ずにボタンを押している様を見て、どれだけ携帯電話を使いこんでいるのかと柳は苦笑してしまった。きっと今夜も彼はに電話をするのだろう。柳の話はするのかもしれないし、悪戯に秘密にしておくのかもしれない。新学期にでも聞いてみよう。そう考え、柳は東堂の電話番号とメールアドレスを登録した。
駅前の時計を見上げれば、時刻はすでに六時半になろうとしていた。意識していなかったが、随分と話が弾んでいたらしい。ヘルメットを被った東堂が、ガードレールに預けていた愛車を持ち直す。
「これから箱根まで自転車で帰るんですか?」
「ああ。夏場はまだ明るいからな。これからなら暗くなる前に寮に着くことが出来る。柳君はもうすぐ全国大会だろう? 応援している、頑張りたまえ!」
「ありがとうございます」
東堂のインターハイの結果は、すでにからメールで聞いていた。彼個人は総合三位だったらしいが、箱根学園は最後の最後で競り負けて、全国連覇を阻まれたらしい。その悔しさを、彼はどうやって昇華したのだろうか。三年生の東堂は、すでに高校での部活を終えてしまった。大学で彼が自転車を続けるかどうかは分からない。ならば最後の大会での敗北を、彼はどうやって飲み込んだのだろうか。飲み込んで、受け止めて、それでも尚ロードバイクに乗っているのなら、その覚悟を見事だと思う。
「東堂さん」
「うん?」
サドルに跨った東堂を、柳は呼びとめた。言う必要などないと分かっていたが、それでも言っておくべきだと思ったからだ。少し低い位置にある目を見て、柳は告げる。
「俺はあなたとの仲を応援しています。ですが、もしもあなたがを泣かせるようなことがあったら許さない。俺は、の友人ですから」
瞳は細められたが、それでも唇は吊り上がり、それでいい、と柳は言われた気がした。
「君はほとほと良い男だな、柳君。は良い友人を持った」
「ありがとうございます。何かあったらいつでも連絡をください。それと結婚式にも呼んでいただけると嬉しいです」
「ワッハッハ! お安い御用だ! 柳君もの日常報告を待ってるぞ!」
「任せてください」
「うむ! ではまた会おう!」
さらばだ、と東堂がペダルを踏み込んだ。その一瞬でロードバイクは一気に進み、ジャージを着た背中が見る間に小さくなる。凄いな、と柳は初めて目にする競技選手の走りに見惚れた。種目は違えど、柳とて本気でテニスに取り組んでいる身だ。東堂がどれだけ真面目に自転車と向き合っているか、肌で感じる。尊敬に足る男だ。数秒で見えなくなった姿に笑い、柳もようやく電車に乗るべく改札に向かった。ラケットバッグからパスケースを取り出す。
初めての東堂尽八との邂逅は、柳にとって非常に実りあるものだった。生身の彼を得て、そうしてやはり柳は思う。あの二人は実にお似合いのカップルである、と。





ふむ、メールの文面からするに、どうやら東堂さんは話していないようだな。
2014年4月20日