彼女と彼女の恋人の誕生日の話
インターハイも終わって数日経った八月七日の夜。新開は借りっぱなしだったカチューシャを手に、東堂の部屋を訪れようとしていた。夏休みともなれば寮も閉鎖しそうなものだが、箱根学園は運動部が盛んなため、最も盛り上がるシーズンであるこの時期も実家に帰らずトレーニングに励む生徒で賑わっている。自転車競技部のインターハイはもう終わってしまったが、この後はバスケットボールにテニスに陸上と様々な部活が続いてく。そして敗退したとしても翌日から再び練習を始めるところが、強豪校であるが所以だ。翌年を見越して、一時も休むことなく積み重ねていく。その研磨が糧になるのだと、身に染みて理解しているのだ。
そうして後輩たちに最後の置き土産として指導するため、新開たち三年生も未だ部活に参加し続けている。夏休みいっぱいはそうして変わらぬ日々を過ごし、二学期が始まると同時に引退だ。長いようで短い三年間だったな、と感慨にふけりながら、新開は東堂の部屋の扉をノックした。返事はないが、そのままドアノブを捻って開ける。
「尽八、入るぞ。おめさんに借りてたカチューシャ」
「おおっ、良いところに来たな、新開! どうだ、この俺は格好いいか!? いけてるか!?」
「・・・そうだな。いけてると思うぞ?」
「ワッハッハ! さすが山神、どんな服でも着こなしてしまうとは天も羨む才能だな!」
全身鏡の前でポーズを決める東堂に、新開は後ろ手に扉を閉めた。この騒がしい声が廊下に響き渡りでもしたら、荒北あたりが「うっせ!」と殴り込んできかねない。新開はこの賑やかさも好きなのだが、東堂のテンションは人によって好き嫌いがあるから避けた方が無難だろう。黙っているときは普通にイケメンなんだけどな、と思いながら新開は尋ねる。
「そんなにめかし込んでどこに行くんだ? もう門限は過ぎてるぞ?」
「ん? ああ、これは今日のためではない。明日のためのコーディネートだ」
「明日? なんだ、デートか?」
「そうだ! 明日は俺の誕生日だからな! が祝ってくれるんだ!」
「そりゃあめでたいな」
「そうだろう、そうだろう!」
本当に嬉しそうに東堂が笑うものだから、自然と新開も笑顔になった。高校に入ってから知り合ったこのチームメイトが、どれだけ恋人を溺愛しているか知っている。ファンクラブには笑顔で手を振りつつも、本気の告白にはただの一度も靡かなかった男だ。相手が色っぽい先輩でも美人な同級生でも可愛い後輩でも、学校だけでも、身体だけの関係でもいいから、と何を言われても決して頷きはしなかった。男として揺らいだりしないのか、といつか聞いたことがあるが、そのとき真面目くさった顔で言われた言葉を新開は今も覚えている。俺はが好きだから、彼女を泣かせるようなことは絶対にせんよ。ああ、本当にいい男だと感じたのは記憶に新しい。
そんな東堂は鏡の前でくるりとターンを決めては、自身の全身をチェックしている。夜九時を回り、新開はすでに寝巻代わりのティーシャツにハーフパンツだが、東堂は今にも出かけそうな格好をしていた。大きな柄がプリントされたティーシャツに、青がメインのパーカーベスト。下はカーゴパンツでネックレスとブレスレットもつけている。カチューシャは一番の気に入りと言っていた純白で、ややちゃらいと言えばちゃらいが、十分にカジュアルの範囲内だ。にか、と鏡に向かって笑ってみせる様は十分に魅力的で、新開はつい微笑ましいものを見る目で見守ってしまう。
「じゃあ尽八は、明日の部活は休みか」
明日も変わらず、朝九時から夕方五時まで練習がある。寮の夕飯は七時だから、自主練習と片付けを考えたら恋人と会う時間は取れない。だから休みなのかと言ったのだが、いや、と東堂は頭を振った。
「部活には出る。ここで走ることが出来るのも残り僅かだからな」
「ん? じゃあ彼女ちゃんとはいつ会うんだ?」
「朝だ。七時に待ち合わせをしている。心配しなくても部活が始まるまでには戻る。というわけで、明日の朝食は俺抜きで食べてくれ。寂しいかもしれんがすまんな!」
「・・・そうか。おめさんやっぱり、流石だな」
驚きに開いた唇を、新開は緩慢に閉じた。同じ箱根にあるとはいえ、寮から東堂の実家までは少しばかり距離がある。朝の時間では往復するだけで精一杯だから、きっと彼女も中間地点まで出て来てくれるのだろう。東堂のために作った朝食を手に。の作るものは絶品だぞ、と自慢されたこともある手料理を、どこかの公園だか何だかで二人並んで食べるのかもしれない。一時間にも満たない逢瀬のために、東堂はロードバイクを回して、彼女は早起きをして弁当を作るのだ。これが愛じゃなくて何なのか、恋人がいない新開には分からない。分かる日が来るのかな、と思わず考えてしまうくらいだ。
「彼女ちゃん、何くれるんだろうな。リクエストはしたのか?」
借りていたカチューシャを投げて渡せば、東堂は難なくキャッチして、ベッドやら机やらに散らばっていた他の洋服を片付け始める。騒々しい言動から意外に思われるが、東堂は整理整頓をきちんとするし、部屋に掃除機だって週に一度は必ずかける。食事の所作も綺麗だし、字も流麗で、礼儀正しく敬語も使える。流石は老舗旅館の息子という育てられ方をしているのだ。そして恋人はホテルの令嬢らしいので、きっと作法のしっかりしたカップルだろうな、と新開は勝手に思っている。
「いや。俺はから貰えるものなら何だって嬉しいからな。リクエストなどせんよ。それに、今年はむしろ俺からに渡したいものがある」
「へえ」
相槌を打つ新開を余所に、東堂はチェックのシャツを畳みながらあっさりと言った。
「給料三ヶ月分とはいかないが、小遣い半年分で買ったペアリングだ。安物だが、に似合うものを選び抜いたつもりだ」
東堂の視線が動いたのに釣られて新開もそちらを見やれば、机の上に大切そうに置かれている紙袋があった。店のロゴは新開には分からないが、今の台詞が本当なら、きっと小さな箱が入っているはずだ。ベルベットの艶やかな、ビロードの、と想像してしまうのは婚約指輪のイメージが強いからだ。それを東堂はに贈ろうとしている。重いんじゃないのか、と思ってしまったのは、やはり新開に惚れ抜いた相手がいないからかもしれない。
「新開、おまえ今『重い』と思っただろう!」
びしっと指さされて思わず肩が跳ねた。罰が悪くて頬を掻くが、東堂は気にしていないらしい。畳み終えた服を重ねてクローゼットへと仕舞い始める。
「別に構わん。重いことくらい俺にも分かっている。何せはまだ十五歳の中学生だ」
「・・・だったら何で指輪にしたんだ? 彼女が十六歳になってからでも遅くないだろ?」
「いいや遅い。俺はもう十八になる。結婚できる歳になるんだぞ。ならば男としての責任を果たしたいと思うのが普通だろう」
「・・・そうか?」
「そうだ! ゆくゆくは結婚し、幸せな家庭を築き、子供をたくさん作って、最後には同じ墓に入る予定だからな! ああもちろん俺の方が僅か一日長生きはするが。をひとり残して悲しい目に遭わせるくらいなら、俺がいくらでも最期を看取ろう!」
「そうか。結婚式には呼んでくれな」
「無論だ! ・・・とまぁ、いろいろ並べ連ねたが、正直に白状すれば独占欲以外の何物でもないよ」
形の良い唇をゆっくりと吊り上げて笑う東堂は、どこか荒く見えて男の艶が滲んでいた。初めて見る類の顔に、新開の胸が微かにざわつく。山頂を狙うときのように、決して逃さないという瞳で、東堂は指輪を、その向こうにいるであろう恋人を見つめていた。
「は俺のものだと、東堂尽八のものだから手を出すなと、世界中に知らしめたい。他ならぬ自身にもな」
そのための指輪だ、と言って東堂は唇の端を歪めた。ああ、と新開はまだ実際には会ったことのないという少女を思う。おめさん、厄介な男に捕まっちまったなぁ、と。でもきっと尽八なら世界で一番愛してくれるだろうから、だからおめさんも尽八のことを嫌いにならないでやってくれよな、と。東堂尽八の友として、新開は心から思うのだ。
そうして翌日から、東堂の右手の薬指には、ブラックコーティングされたシルバーのリングが光るようになった。隠しもしないその愛情が末永く続くように、新開は今日も友の幸せを祈っている。
安物だが、込めた愛情は世界中の何にだって負けはせんよ。
2014年4月20日