彼女とロードレースの話
期末テストを無事に終えれば、夏休みがやってくる。柳にとっては全国大会を控える重要な夏だ。八月末の大会を目指して、どれだけ己を成長させることが出来るか。そこにリベンジのすべてが懸かってくる。知らず緊張で高揚しかける精神に、我が事ながら苦笑して柳は隣の席を振り向いた。担任の一存で、席替えは学期ごとに行うとされているため、結局のところ四月からの三ヶ月間、隣はで固定だった。もはや彼女がいて当たり前になってきており、はてさて二学期の席替えはどうしてくれようか、などと柳は画策しているくらいである。
「彼氏のインターハイはいつなんだ? も応援に行くんだろう?」
数学のテストをファイルに収めていたが顔を上げる。相変わらず目立たないけれども優秀な彼女は、今回も九十二点という高得点を獲得していた。どの教科もそんな感じらしいので、やはり学年順位では二十代後半を得るだろう。流石だな、と柳は常々思っている。
「自転車競技部の大会は八月の一日から三日だよ。今年は江の島スタートで、箱根を通ってゴールは富士山の五合目」
「ホームグラウンドか。それは応援も凄そうだな」
「そうだね。尽八君には応援に来てくれって言われてるから、行く予定」
「なるほど。言われなければ行くつもりはなかったと?」
意地悪く唇を吊り上げれば、が困ったように眉を顰める。この程度の言葉遊びが日常になるくらいには親しくなった一学期だった。
「うーん、何て言うかね・・・。柳君は尽八君と同じ側の、競技をする人だから上手く伝わるか分からないんだけれど」
「ほう?」
「私、尽八君とは、尽八君が自転車を始める前から知り合いなの」
「ああ、幼馴染だと言っていたな」
「そう。だから私、尽八君が自転車を始めたときのことも知ってるの。どれだけ尽八君が自転車に本気かも、一応分かってるつもり」
だからね、とファイルを机の中に仕舞いながら、が微笑む。
「だからね、私、尽八君の邪魔をしたくないの。ううん、ちょっと違うかな。私という不純物を、尽八君の本気の中に混ぜたくない。自転車は尽八君にとって凄く、凄く大切なものだから、その中に余計なものを入れたくないの。尽八君には自転車と、それに纏わるものだけを見つめていて欲しい」
「・・・・・・」
「巻島さんって人がいてね、千葉の人なんだけど、尽八君と同じクライマーでライバルなの。次のインターハイで決着をつけようって約束してるらしくて、尽八君、凄く楽しみにしてる。だから、何て言うのかな。上手く言えないんだけれど」
柔らかな微笑はどこか諦観を帯びた、少し寂しげなものだった。
「自転車に乗ってるときの尽八君は、私の恋人の尽八君じゃなくて、競技選手の東堂尽八なんだと思う。だから応援はしたいけれど、レースは見たくない。私は尽八君のことが好きだから、私を見てくれないとやっぱり悲しいし、でもレース中は私のことなんか気にしないでほしくて、レースだけに集中してほしくて、それなのにやっぱり分かち合えない何かに夢中になってる尽八君を見るのは少し、寂しいから。これはもう完全に私の我儘。尽八君には絶対に言えない」
「言えない、か」
「うん、言えない。言ったら嫌われちゃうもの。私と自転車どっちが大事、なんて聞いて悩まれたりしたら、本当にショックで泣いちゃう。私を選んでもらえたら嬉しい。でもそれで尽八君が自転車を捨てることになったら、私は私が許せない。・・・ね? 我儘でしょう?」
冗談交じりに言っているが、本心なのだろう。そうか、と柳は頷いた。そんな考え方があるのか、と思考の裏側で把握する。
時折、選手の家族が、その選手の試合を見ないという話を聞くことがある。見ているのが不安で堪らなく怖いのだと、いつだったかニュースのドキュメンタリーで耳にした。その気持ちは分からないでもない。スポーツには必ず勝ち負けがついてくる。大切な人が今までどれだけ努力をしていたのか知っていて、けれどもそれが実らなかったのだとしたら、その慟哭は関係が親しければ親しいだけ深くなるに決まっている。当の選手本人が勝敗に納得していたとしてもだ。自分のことではないからこそ、上手く昇華しきれない。そういった心境に陥るのだろう。
加えては、幼い頃から東堂と一緒だったという。もちろん幼少時の関係は幼馴染で、恋人ではなかっただろう。それでも同じ時を過ごし、共に遊び育ってきた中で、東堂だけが自転車という己を懸けるものを見つけてしまった。熱中していく幼馴染に、幼いは何を思ったのか。柳には推測することしか出来ない。けれども、こう思う。置いていかれてしまう。そう感じたのではないか。大切な幼馴染が遠くに行ってしまう。そうは思ったのではないかと、柳は予想する。
同じチームで、同じ厳しい練習を積んできた仲間たちなら、例え勝敗がどうなろうと試合の行く末を見守ることに痛苦はない。やりきった、と思えるのなら尚更だ。柳とて関東大会で乾に敗北したけれども、真田だって越前に負けたけれども、そこに悔しさはあれど自らの糧とし前進することで昇華できると考えている。
けれど、違うのだ。は選手ではないから、分かち合うことが出来ない。分かってる、と言ってもそれは所詮「つもり」だ。同じ経験をしていなければ、同じ情熱を得られない。明確なラインが引かれている、その外側で、はただ見ているしかない。無力に拳を握り締めて、応援に声を張り上げるしかないのだ。でも、それもしたくないと彼女は言う。
人にはいくつもの側面がある。その、自転車競技選手である東堂尽八の中に、は存在しなくていいと、はそう考えているのだ。純粋に努力している彼を、無様な感情なんかで汚したくないから。自分のためにも、彼のためにも、それが一番良いと考えているのだろう。もはやこうなっては水掛け論だ。だから言わない。自分勝手な我儘だから、だから言わない。はそう言って笑うのだ。
「声援は力になる。恋人からの応援を無視するような男じゃないだろう?」
「うん、そうだね。でも何だろうね」
柳の言葉に、は困ったように眉を下げて笑った。
「私の声援が後押しして勝つような、そんな人にはなって欲しくないのかもしれない。尽八君は尽八君ひとりで勝つことの出来るような、そんな人で在って欲しいのかもしれない。・・・変なこと言ったね。ごめんね」
謝るに、いや、と頭を振りながら柳は己の認識を改めていた。彼女の愛情は思ったよりも深く、そして人としては複雑なのかもしれない、と。
けれどそれは当たり前のことで、決して恥じることはない。
2014年4月20日