彼女について俺とテニス部の話





幸村が復帰したことで、練習メニューは過酷を極めた。柔らかく嫋やかな容姿をしていながらも、幸村は誰より厳しく容赦がない。彼を前にしたら、副部長の真田などまだ可愛いものだ。コートに立てば残酷なほどの強者。それが立海大附属中男子テニス部部長、幸村精市である。
全国大会を前にして、今日も遅くまで部活が続けられる。五時のチャイムが鳴ったから、ここで一休憩を入れて、その後は更に練習だ。テニスコートには夜間照明も備えられており、七時まで全体での練習が続き、解散した後もレギュラーは更に居残ってやる者もいる。これもすべて全国大会で青学に借りを返す、そのためだ。
「あれ? 柳先輩どこ行ったんすか?」
休憩に入り、ボトルのドリンクを飲み干した切原は、ベンチにいるはずの先輩がいないことに気づいて首を傾げた。タオルで汗を拭っていた桑原は「あー・・・」と曖昧に視線を逸らし、逆に丸井は新しいガムを口に入れて指だけである方向を指し示す。
「柳ならあれだろぃ」
「へ?」
丸井の親指の通りの方向を見やれば、切原の目に柳の後ろ姿が飛び込んできた。いつでも姿勢の良い、凛とした背中だ。もう夏場だというのにジャージの上を着込んでいながらも、暑さなど無縁だという涼しい雰囲気を醸し出している。その柳はテニスコートから少し離れた場所にいた。水道で顔でも洗ってきたのだろう。手にはタオルを持っており、黒髪は遠目にも分かるほど艶やかだ。そんな柳の前には女子生徒が二人いた。切原の位置からでは名札の色まで見えないが、何となく恐縮した空気を感じないので三年生だろうと予測する。柳はその女子たちに捕まり、何か話しているようだった。白い箱を押し付けられている様子に切原が眉を顰めていれば、やっと用件が過ぎたのか柳がこちらへと向かい歩いてくる。二人の女子生徒は校門へと歩き始め、片方のブロンドの髪が夕陽でオレンジ色に輝いていた。いつの間にやって来たのか、仁王と柳生が切原の隣に立っていた。
「あれは桑嶋じゃのう。三年でも指折りの美人ぜよ」
「くわじま? あの金髪の人っすか?」
「フランス人とのハーフじゃ。お高く留まっとるけえ、難攻不落の高嶺の花って言われとるぜよ。それを落とすとは流石柳ナリ」
「でも練習中に差し入れ持ってくるような女でしょ? そこらのミーハーと変わんないんじゃないすか?」
強豪テニス部の肩書きからか、女子に騒がれることの多い切原は、むやみやたらに近づいて来ようとする異性にあまり良い感情を抱いていない。彼にとって大切なのは共に戦う、尊敬する先輩たちで、彼らに迷惑をかける輩を好きになれという方が無理な話だ。ベンチに戻ってきた柳は白い箱をこれ見よがしに掲げてみせる。
「喜べ、丸井。差し入れのケーキだ」
「は? だってそれ、柳が貰ったもんだろぃ?」
「みんなで分けていいと、すでに許可は貰っている。それとも食べないか? あの家庭科部が作ったケーキだぞ?」
付け加えられた言葉に、丸井の目がすっと細められた。甘いもの好きが高じて自分でもケーキを作るようになり、昨年の文化祭こと海原祭の料理大会菓子部門で優勝を果たした丸井にとって、家庭科部は近いようで遠い存在である。何故なら、彼女たちはその専門性が有利と見られるために、料理大会に参戦する権利を持たないからだ。だから丸井は、家庭科部が作ったものを食べたことがない。食べたいとは何度も思っているのだが、生憎とその機会がなかった。あの部は意外と少人数の上に彼氏持ちの部員が多くて、丸井に差し入れしてくれるような女子はいないのである。
その、噂に名高い家庭科部の部員が作ったケーキ。これはもう食べないでいられるわけがない。丸井はベンチからさっと白い箱に向けて手を伸ばした。避けられた。予期していたかのように柳が箱を持ち上げたのである。ふ、と柳が意地悪く笑う。
「おまえさんも隅に置けんのう。桑嶋を落とすとは中々やるナリ」
丸井の猛攻を片手間にいなす柳に、今度は仁王がからかいの声を投げかける。一瞬の間の後に、ああ、と柳は頷いてから否定した。
「これは桑嶋からじゃない。からだ」
?」
さんですか。彼女なら私も存じています。よく図書室で見かけますが、きちんとされた方ですよね」
「きちんとした、か。柳生はお目が高いな」
仁王は件の女子生徒を把握していないのか、どんな奴じゃ、と柳生に問いかける。柳君と同じクラスの、黒髪がこれくらいの長さで、控えめな物腰の方ですよ、と柳生が説明するが、いつも一緒にいるアデルが目立つからか、仁王の中にの印象はなかったらしい。白い箱に何度も飛びかかる丸井にジャッカルが呆れる一方で、逆に切原は不服そうに唇を尖らせる。
「っつーか柳先輩、そんなに差し入れホイホイ貰ったら駄目じゃないすか! 調子に乗った女どもがどんどん持ってくるかもしれないっすよ?」
「それなら心配はいらない。これは俺からにくれないかと頼んで譲ってもらったものだからな。正確に言えば、強奪に近いか」
「・・・へ?」
「今日、家庭科部ではプリンフルーツケーキを作ったらしい。だが、は自宅まで一時間以上かかるから、保冷剤無しだと悪くなるかもしれないと悩んでいた。そこで俺がケーキを引き取り食べることで、万事解決というわけだ」
予想もしていなかった答えに、切原が目を瞬く。流石に丸井もぴたりと動きを止めて、仁王たちと共に柳を見やった。この見目も性格も涼やかな仲間は、確かにもてるけれども、異性とは一定の距離を置いていたはずだ。特に柳は何と言うか、そういう「逃げ」が上手い。手のひらの上で転がして、自分の思うように動かす。データテニスを得意とする性質をよく知っているからこそ、切原たちは意外でならなかった。柳が自ら、女子にケーキを強請りにいくとは。
「・・・何じゃ、おまえさん、そいつに惚れとるんか」
驚愕から一転、仁王が唇の端を厭らしく吊り上げる。仁王君、と柳生が諌めるが、柳は素知らぬ顔で答えてやった。
「残念ながら惚れてはいない。ただ純粋に友人として交流している」
「でも女じゃろう? いつおまえさんに惚れるか分からんぜよ」
「その心配も必要ないな。彼女は絶対に俺に恋愛感情を持たない。賭けてもいいぞ?」
「なしてそう言い切れる? 女なんてどれも一緒ナリ」
仁王君、と柳生が強めに諌めるが、尋ねている本人はどこ吹く風だ。否、眉間に皺を一本刻んでいるところからするに、面白くはないのだろう。仁王は特に、テニス部内でも女子に対する見解が厳しい。本人の容姿が派手で、それにつられてか寄ってくる相手も軽いタイプが多いからかもしれない。もしくは姉がいるからか。そう考えて、ふと柳は笑った。唇に人差し指を立てて片目を瞑る。
「理由は、俺とだけの秘密だ。友達同士のな」
そこまで言われるとは思っていなかったのだろう。仁王だけでなく桑原も切原も目を丸くした。きっと仁王がと知り合い、彼女に恋人がいることを知ったら、逆にむきになって落としにかかるのだろうな、と柳は思う。それでもは変わらず恋人を愛し続けるだろうし、そうしていつしか仁王も、決してぶれることのない愛が存在するのだということを知ればいい。けれど柳とて友人を譲るつもりはないので、今は秘密だ。頭上に掲げていたケーキの箱をようやく下ろしてやれば、丸井が勢い勇んで飛びついてくる。
「柳、食っていいだろぃ!?」
「ちゃんと人数分に切り分けろよ」
「ひゃっほーい!」
「おいブン太、落ち着けって!」
ケーキの箱を揺らさずに、それでも物凄い速さで器用に丸井が部室へと飛び込んでいく。桑原が慌ててその後を追った。柳生がそれではお言葉に甘えて、と手を洗いに水道へ向かう。仁王と切原はやはり驚愕が大きかったのだろう。唖然とした顔をしており、柳は今度は声に出して笑った。その後、幸村と真田も交えて食べたプリンフルーツケーキは、丸井が負けを認めるくらいに美味しかったのだった。





仁王よりも柳生の方が、先に彼女に接近する確率92パーセント。
2014年4月20日