彼女と彼女の恋人のABCの話
「柳君、おはよう」
週明けの月曜日、かけられた声に振り向けば、そこには登校してきたばかりのがいた。一緒に来たアデルは、自身の席に鞄を置きに行っているのだろう。にこりと、が微笑んでいる。その様を座ったまましばし見つめ、柳はゆっくりと息を吐いた。自然に唇が綻ぶ。
「おはよう。今日は調子が良さそうだな」
「うん。心配かけてごめんね」
「いや、気にするな。友人として当然のことだ」
隣の席に腰かけたは、鞄を机に置くと中から小さな紙袋を取り出した。特に店名が印刷されていない無地のをそれを、はい、と柳に差し出してくる。
「柳君には凄く助けてもらったから、せめてもの御礼に。和菓子を作ってみたんだけど、良かったら食べて」
受け取って中を覗きこんでみれば、どら焼きと胡桃まんじゅう、それに菖蒲と桜のねりきりが入っているのが見えた。どれもの手製だろう。家庭科部は様々なものを手作りするらしいが、は料理や菓子作りも得意らしい。流石だな、と柳は感心する。
「美味しそうだ。有難くいただこう」
「お口に合えばいいんだけど」
微笑むの表情は柔らかい。先週の傷つき、涙に頬を腫らしていた面影はなく、むしろ逆に温かな喜びさえ湛えている。こうも気力を回復できた理由など、柳には一つしか推測できない。だからこそ貰った菓子を自身の鞄に収め、意地悪く指摘してやった。
「それで? 恋人には『ぎゅってして』貰えたのか?」
先日の、泣きじゃくりながら東堂へと助けを求めたが乞うていたことを告げれば、目の前の少女の頬が薄く色づく。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。見知らぬ男に制服の上からとはいえ太腿や尻を撫で回され、嫌悪に陥ったが欲しがったのは恋人の抱擁だった。尽八君じゃなきゃ嫌だ。ぎゅってして。今度、会ったときでいいから、お願い。いっぱいいっぱい抱き締めて。最後の最後まで理性を手放さず、それでも魂からの悲鳴を、あの男は寸分違わずに掬い上げてくれたのだろう。先日の電話ひとつで、柳の東堂尽八という男に対する信頼は確立していた。他はどうか知らないが、彼のに対する愛情だけは信頼に足ると感じている。きっとこの週末、無理矢理にでも時間を捻出して会いに行ったに違いない。そうしてきっとは恋人の突然の来訪に、驚き、涙し、そうして最後には笑ったのだろう。今浮かべられているような、柳の好きな表情で。
「土曜日にね、会いに来てくれたの。部活で一緒の人たちも気を使ってくれたみたいで。凄く申し訳なかったけど・・・でも、嬉しかった」
綺麗だな、と柳は素直に思う。先週よりもずっと綺麗になったように見えるのは気のせいだろうか。いや、きっと気の所為ではないと柳は思う。苦しいことも悲しいことも、ひとつひとつ共に乗り越えて、そうして深い愛と信頼を築き上げているのだろう。その経験がを美しく磨き上げている。これは彼女が愛し、彼女を愛する東堂尽八だからこそ出来ることだと、柳はしみじみ痛感した。
「あ、でもね」
声を潜めて、が手招きする。子供っぽい仕草に釣られて笑い、柳が身体を近づければ、内緒話をするように耳にそっと囁かれた。尽八君の名誉のために言うんだけど、と前置きされて。
「私と尽八君は、まだ、えっと・・・そういうことは、してないから、ね?」
耳を擽る甘い吐息に心を震わせるよりも、柳にとっては言われたことの方が重要だった。思わずを振り向けば、照れくさそうに視線を逸らされる。「そういうこと」とはつまり、そういうことだろう。話の流れで言えば、男女の触れ合い、所謂セックスだ。そうなのか、と意外に思ってしまったのは交際三年目だと聞いているからか。逆に自分たちの年齢を考えれば中学三年生になったばかりで、むしろこの歳で経験していたら早いと言える。しかしの恋人は今年高校三年生になる男で、だとしたらやはり性欲は普通にあるだろうし、愛情や気遣いが足りないなどこの二人に限って有り得ない。ならば致しているのかと思っていたが違うのか。これは考察する必要があるな、と柳は脳内で決定づけた。
「『学生の身では万が一が起きたときに責任を取ることが出来ない』から、少なくとも私が十六歳になるまで待つっていうのが尽八君の主張」
「・・・なるほど。聞けは聞くほど彼氏力の高い彼氏だな」
「うん。まぁ、私もこれに関しては少し悩んだりもしたんだけど、でも焦っても良い結果が得られるとも限らないし。尽八君を性犯罪者にもしたくないしね」
「正論だな。若年妊娠は当事者の、特に出産する女性の人生を大きく狂わしかねない出来事だ。慎重に慎重を重ねるのは当然だな」
「ちょっと大袈裟な気もするけどね」
「だが、身体を重ねるとはそういうことだろう? 結婚を視野に入れた交際をしているんだな。良いことじゃないか」
「うん。大切にされてるって分かるから、無理に強請る気にもなれないの」
ふふ、とは柳に向けて笑った。それはとても柔らかく、恋人に向けるものとは違うが、アデルに見せるような、親愛なる友人に向けるようなものだった。
「柳君って不思議。何だか何でも話せちゃう」
告げられたのは、柳にとって最上級の賛辞だった。
「それは光栄だ。俺もの惚気話を聞くのが好きだから、存分に話すと言い」
「まさか男の子とこんな話をするなんて思ってもいなかったよ」
「俺もだ」
互いにくすくすと笑い合っていれば、アデルがいつものクラフトグッズが入ったボックスを片手に前の席に座り込む。の羊毛フェルトブームはまだ終わらないらしく、今日は猫のマンチカンを作成するらしい。出来上がっている柴犬を待ち受け画面に設定するべく、柳は携帯電話で撮らせてもらった。ちくちくちくちく、ニードルがフェルトを刺す音がする。変わりない日常に、ふむ、と柳は満足気に笑った。
しかし素晴らしい精神力だな、件の恋人は。
2014年4月20日