その日の彼女の恋人の話





その日の箱根学園自転車部、そして男子寮には、常とは違う空気が流れていた。一触即発のそれは一点を中心にじわりじわりと広まり、瞬く間に伝染していく。その中央にいるのは東堂だ。明るい性格と賑やかなトークで輪の中心になりやすい彼が、今日はまったく逆の空間を作り出している。うるさいと言われることの多い口は引き結ばれ、その端は何かを堪えるように下げられている。眉間には深い皺が寄り、眼は競技中よりも真剣で冷ややかだった。美形が怒ると怖いと言うが、東堂はいつもが軽快な分だけギャップが酷い。彼がこれほどまでに怒りを露わにし、不機嫌を振り撒くことなど過去になかった。美貌は黙り込むことで冷酷と化し、彼がいつもと違うことに気が付いた寮生たちは、腫れ物に触れるようにしてそれぞれが慌てて自室へと引っ込んでいく。携帯電話を握り締めている東堂を、少し離れた場所で見つめているのは福富に新開、荒北という自転車部で今年三年目の付き合いになる者たちだった。
「・・・あいつ、どしたのォ?」
余りの剣幕に、声は自然と顰められる。荒北の呟きに、新開が小さく答えた。
「俺もよくは知らないけど・・・。ちゃんが、痴漢に遭ったらしい」
チャンって、東堂の彼女の?」
「ああ。ほら、昼休みに電話があっただろ?」
新開の言葉に、ああ、と荒北も思い返す。昼休みが始まって十分も経っていない頃だっただろうか。学食でいつもの四人でさて食うか、とそれぞれが箸を握り締めたところで東堂の携帯電話が鳴ったのである。いつもは恋人だとかライバルだとかにかけることの多い東堂だが、着信は珍しい。けれども画面に表示されたのが恋人の名であると分かるや否や、東堂は箸を置いて電話を取った。箱根学園でも携帯電話の使用は基本的に禁止されているが、授業中ではないから大目に見てもらえるだろう。そうして恋人からの電話に嬉しそうに出た東堂を余所に荒北たちは昼食を食べ進めていたのだが。
喜びと愛しさ満面といった声音が驚きに、不安に、心配に変わるのは早かった。荒北には電話の向こうの声は聞こえなかったけれども、東堂の反応を見ていれば大体は分かる。大切な恋人が泣いているのに気づき、東堂は椅子を蹴って立ち上がると、表情を焦りに変えて言葉を連ね、そうして途方に暮れたような表情になった。けれどすぐさま真剣な面持ちになると、席を外す、と言って返事も待たずに学食を出て行った。残された手の付けられていないかつ丼をどうしたものかと、荒北と新開は悩んだものである。
といえば、東堂が死ぬまで共に生きたいと宣言している、愛して止まない彼の恋人だ。声を大にして詳細には語らないものの、親しい荒北や新開、福富は毎日のように東堂の口から彼女の話を聞いている。溺愛とはまさにこういうことを言うのだろうと荒北は思っていた。まだ実物にお目にかかったことはないけれども、一目で分かるだろうくらいには、東堂から日々話を聞かされているのだ。そのが、痴漢に遭った。
「・・・あいつ、電車に乗り合わせた男を皆殺ししそうじゃナァイ?」
「洒落にならないこと言うなよ。尽八のことだ、その男にも自分自身にも苛立ってるんだろう」
「あァ? 何でだヨ」
「恋人が辛いときに近くにいてやれないんだ。こういうとき、寮生は辛いな」
新開の話を聞きながら、荒北は東堂を見やる。初めて見る険しい表情はレース中とは違う鬼気迫ったもので、握り締められている携帯電話が今にも壊れてしまいそうだ。どこかにぶつけたい憤怒を必死に己の中に抑え込んでいるような、そんな張り詰めたものを感じる。ふいにその背中が動き、談話室の出口へと向かう。
「――回してくる」
「こんな時間にか?」
「消灯には戻る」
声さえ低く、怖いくらいだ。東堂が出て行った後の談話室で、荒北と新開は不本意ながらも胸を撫で下ろした。脅えているわけではないが、いつもと違い過ぎてどう対応すればよいのか分からなくなる。痴漢の野郎、と諸悪の根源を忌々しく思っていれば、週末のトレーニングメニューを確認していた福富が顔を上げた。
「東堂の実家は強羅だったな」
「ん? 確かそうだと思うけど」
「幼馴染だというから、おそらく彼女の家も近いのだろう」
「そうだろうけど。どしたヨ、福チャン」
「東堂の脚なら三時間で往復できる」
箱根学園からなら、電車よりもクライマーとしての本気を出して登っていく方が、東堂は速いかもしれない。きょとんと目を瞬く荒北と新開に、福富は至って真面目に告げる。
「個々の自主トレーニングの時間に、少し遠出をしたところで誰も文句は言うまい。その件が気にかかり、練習に身が入らないのなら尚更だ。東堂はうちのトップクライマーなのだから」
ベストな状態でいてもらわなくては困る。その言葉の裏にあるのが気遣いであることに気づかないほど、荒北も新開も鈍くはない。それはいいな、と新開は笑い、福チャンは甘いんだヨ、と荒北は舌打ちした。きっと今頃憤怒のままにペダルを回しているだろう仲間を思い、肩を竦める。
傷ついた恋人を抱き締め、癒し、そして東堂自身も安堵を得て、そうしていつものうるさい彼に戻ればいい。あいつが静かだと調子出ねェ。荒北の言葉に、新開も福富も頷いた。





東堂さんの御実家が箱根の歴史ある旅館なのは公式ですが、強羅なのは捏造です。
2014年4月20日