彼女と彼女の悲鳴の話





その日、柳が目にしたのは顔色を真っ白に変えたの姿だった。おはよう、と声をかけるよりも先に心配する言葉が口を突いて出る。
「どうした。体調でも悪いのか?」
「・・・大丈夫」
口ではそう言っているけれども、とてもじゃないがそうは見えない。元々が色白ではあるが、それも度を越して青褪めている。力なく笑い席に着いたは、そのまま鞄をフックにかけると制服のポケットから携帯電話を取り出した。恋人からの朝のメールを確認しているのだろう。けれどもその横顔は柳の愛でる表情ではなく、どこか泣きそうな顔だった。安堵に綻んでいるというのに、眉は下がり、その瞳には涙が揺蕩っていたのだ。言葉に詰まり、柳はその様を見守るしかない。十分後、遅れて登校してきたアデルがを目にして眉を顰めると、すぐさま近づいてきてその両頬を手のひらで包んで上向かせる。ぱちり、の長い睫毛が瞬くのを、柳はやはり隣で見ているだけだった。
「何されたの」
きつい口調で問い詰めるアデルにも、柳が見ていた限りは理由を語らなかった。頑なに唇を紡ぎ、緩く被りを振って否定する。その度にアデルの細い眉が吊り上っていったけれども、は決して話そうとしなかった。それでも柳は見ていた。授業中、ときに机の上で、膝の上で、握り締められた拳が小さく震えているのを。血の気を失った真っ白な顔で、全身の慄きを堪えるように、きつくきつく手を握り締めるを、柳は見ていた。そんなものを午前中ずっと見ていたら、我慢なんて出来るはずもない。
四時間目終了のチャイムが鳴ると同時に、柳は立ち上がった。隣のの机にかけてある鞄を勝手に掴み、自分のと併せて肩にかける。一瞬遅れてのろのろと顔を上げたはまだ眉を下げており、柄にもなく柳は舌打ちしたくなった。
「ついてこい」
有無を言わせず扉に向かう。背後で戸惑う気配がしたけれども、廊下を進んで振り返れば、アデルに手を引かれて教室を出てくるが見えて柳は少しほっとした。アデルも鞄を丸ごとその片手に持っている。昼休みの喧騒で賑わう校内を切り裂くように、柳は己のテリトリーである生徒会室に向かった。部室は駄目だ。あそこは誰が来るか分からないし、万が一仁王などに見つかったら面倒なことになる。だからこそ柳は、己が書記を務める生徒会室を選んだ。ここには基本的に昼間に生徒が出入りすることはない。
三時間目の昼休みに生徒会長から借りておいた鍵で扉を開き、中に入る。自身の定位置に鞄を置いていれば、遅れて二人も入室してきた。アデルが後ろ手に扉を閉める。内鍵をかけたのを、柳は見逃さなかった。長机にセットされているパイプ椅子を引いて勧める。アデルがを無理矢理そこに座らせ、柳は彼女の鞄をその前に置いた。見上げてくる瞳は、未だ揺れている。何と表現すれば良いのか分からない傷心を揺蕩えた色合いに、柳は眉間に深い皺を刻んだ。
「恋人に電話をしろ。今すぐにだ」
ぱく、との唇は開閉したけれども、その手が動くことはない。苛立たしさを感じながら、柳はもう一度言った。
「電話をしろ。俺たちには話せなくても、恋人になら話せるだろう? それとも彼に何かされたか?」
「・・・違う。でも、駄目。迷惑かける・・・」
「おまえの電話を迷惑に思うような男なのか」
「違う・・・。でも、いや・・・」
表情を歪めながらも、その瞳から涙は零れない。常は穏やかで、気丈で、激しい感情の起伏を見せないの明らかな弱った姿に、柳は胸がざわついて仕方がなかった。何が彼女をここまで追い詰めたのか、無理に吐かせたいわけではないが、打ち明けることも出来る相手ではない自分が悔しい。隣のパイプ椅子に座ったアデルがのジャケットに手を突っ込み、携帯電話を取り上げる。素早い行動にはついていけず、ただされるがままだ。アデルが開いた待ち受け画面には、先日完成した手製の柴犬が三匹、可愛らしく映っている。着信履歴の一番上に、その名前はあった。東堂尽八。その文字を見ただけで、が唇を噛み締める。先程とは違い、意図して優しい声を出し、柳は説得を試みた。
「無理に話さなくてもいい。だが、声を聞くだけでも安心出来るだろう? ここなら邪魔する者もいない」
本来なら校内での携帯電話の使用は推奨されることではない。授業中に使っているのが見つかれば、没収されるのが校則だ。だが、今のこの生徒会室は施錠がされているし、何より最早他に取れる手段がない。柳としては歯痒かったが、ここは頼るしかないだろう。東堂尽八という男に。
「かけるぞ」
携帯電話を手に取り、柳は通話ボタンを押した。ついでにスピーカーモードにしたのは、の手が力なく落とされ、携帯電話を握ることさえ大変そうだと思ったからだ。コール音が続く。ひとつ、ふたつ。時間にして向こうも昼休みだろう。喧噪に紛れて着信に気づかないかもしれない。けれど、柳は思い、机に置いた携帯電話を睨み付けた。――出ろ。出ろ、東堂尽八。そうして電話は五つ目のコールを鳴らす前に繋がった。
『もしもしか!? 珍しいな、昼休みに電話をしてくるとは! もちろん俺はいついかなるときでも大歓迎だがな!』
柳が件の男の声を聞いたのは、これが初めてだった。いつだったか聞いた、テンションが高い、という評価を思い出す。なるほどこれは確かにそうだろう、と妙に納得してしまうのは、滑らかな口上の所為か。涼やかでありながらも親しみを感じさせる声だ。背後は学食なのか賑わっており、こちらの重い静謐とは真逆である。
しかしやはり、東堂尽八は偉大だった。大歓迎、の言葉を聞くよりも先に、の両目からぼろりと大粒の涙が零れたのである。今朝から午前の四つの授業中、震える拳をきつく握り締めて堪えていた苦しみを、彼女の恋人は電話越しの声ひとつで溶かしてみせた。唇を噛み締めながらもぼろぼろと涙するに、柳はようやく肩の荷を下ろして書記の定位置である椅子へと座った。
? どうした、声が聞こえんぞ?』
首を傾げている姿が、声からも目に浮かぶ。は自身の口を両手で押さえており、漏れそうになる嗚咽を堪えることで精一杯のようだった。黒目がちの瞳から次々に涙が溢れ返っては、スカートの色を変えていく。
? ・・・?』
怪訝そうな声音に深い心配の色が乗った瞬間、ついにぐしゃりとの感情が決壊した。柳は机に置いていた鞄をおろし、弁当箱と水筒を取り出す。
「・・・じん、ぱち、く・・・っ」
!? どうした、泣いているのか!?』
がたん、と電話の向こうでけたたましい音がする。椅子でも蹴って立ち上がったのだろう。うわ、といった第三者の声を聞きながら、柳は弁当の蓋を開ける。はもう言葉にならず、うう、と呻き声を挙げて目を瞑り泣くばかりだ。
『どうした、! 何故泣いている!? 何があった! 泣いているばかりでは分からん、頼む、話してくれ!』
「・・・っ、ふ・・・」
・・・! 何故、泣くのだ。どうした? 悲しいことでもあったのか? 嫌なことでもされたか?』
狼狽したのは束の間で、すぐに声は優しく労わるものに変わる。は首を横に振るばかりで、その様は見えないだろうに、相手にはきちんと伝わったらしい。、と呼ぶ声は、男を直接知らない柳でも分かるほどに愛情に満ちていた。
、今は一人か?』
問いかけに、隣に座っての肩を抱いていたアデルが答えた。
「私がいる」
『そうか、桑嶋さんが一緒か。良かった』
すでに顔見知りなのか、声だけで向こうも把握したらしい。もぐ、もぐ、と柳は弁当を食べ進める。濃い味付けであるはずの鰤の照り焼きなのに、何故だか全然舌に響かない。その間もずっと、東堂はに話しかけている。席を外す、そんな台詞が聞こえ、場所を移動したのだろう。背後の喧騒はゆっくりとフェードアウトし、向こうもこちらと同じように静かになった。

「っ・・・」
、どうしても話せないか? ・・・俺にも、無理か?』
責めるような声音ではない。恋人だからこそ話せないこともあるということを理解している口振りだ。それが分かっている上で力になりたいのだと懇願している。泣きながら項垂れるの拳に、アデルがそっと手のひらを重ねる。常は硬質な美しさを持つ彼女が、今はただ親友を思い、心配ばかりを浮かべていた。
はく、はく、との唇は何度か動いたけれども、言葉が音になる代わりに涙が繰り返し流れていく。静かな、受容に満ちた沈黙の後、再び携帯電話の向こうから声が聞こえた。
、今どこにいる? 学校か?』
泣きじゃくって何も話すことの出来ない、面倒な恋人だと思われただろう。の表情にはそんな怯えが浮かんでいたが、電話越しの声は優しく、そして確たるものだった。
『一時間で行く。それまで待っていてくれ』
の瞳が瞠られ、ぼろり、睫毛から涙が零れた。恋人が通っているという箱根学園は、その名の通り観光地として知られる箱根にある。そこから立海のある藤沢まで、まさか今から来ると言うのか。柳は咄嗟に頭の中で路線図を描いてしまった。一時間で箱根から来れるだろうか。乗り継ぎを考えたら不可能な気もするが、それすら可能にしてみせるという決意が、その短い言葉からは感じられた。が慌てて首を横に振る。だめ、と拒絶の言葉は泣きじゃくったせいか掠れていた。
「駄目・・・っ、学校が」
『そんなものはどうでもいい。話すことも出来ないくらいに悲しいことがあったのだろう? ならば俺にはもう、この腕で抱き締めてやるくらいしか、おまえを泣き止ませる術が思いつかんよ』
甲斐性のない恋人ですまない。そう告げた声は深かった。ああ、と柳は感嘆する。美しい男だと、心から思う。心根の良い、まっすぐな男だ。のことを本気で愛し、尊び、慈しんでいるのだろう。恋であると同時に愛でもある、そんな想いの形を、柳は目の前の恋人たちから感じた。
それでもは、恋人の負担になりたくないのだろう。強豪校のレギュラーとして、品行方正が求められていることも分かっているに違いない。だからマイナスになることは絶対にしないと頑なに決めている。その姿勢は有難いし、正しいけれど、それでも恋人が泣いていたら何を置いても駆けつけたいと思うのが男心でもある。
「っ・・・きら、ぃに、ならない・・・?」
掠れた声で縋るような問いかけに、心配は無用だと明るい声が笑い飛ばした。
『なるわけがないだろう? この東堂尽八は、のことを生涯ずっと一番に愛し続けるとも! それはが何をしようと、どうなろうと変わることはない! 心配無用だ!』
「・・・ほんと・・・?」
『むっ、疑うのか? ならばどうやって証明してくれようか』
「・・・ううん、いい」
尽八君のこと、信じてるから。そう言って、そこでようやくは僅かにだけれども笑った。頬は涙で腫れ上がっていたけれども、憑き物が落ちたような表情に、柳はそっと息を吐く。尽八君、大好き。そう囁くは美しく、可愛らしかった。膝の上で彼女はアデルの手をぎゅっと握り締めて、そして口を開く。震えそうになる身体を、きつく守るように抱き締めながら、耐えがたい恐怖を、嫌悪を、屈辱を、唇をきつく噛んでから、吐き出した。
「・・・痴漢に、遭った、の・・・」
気持ち悪かった。ほんとに、ほんとうに。話すことですら苦痛であると、歪められた表情で柳は悟る。携帯電話の向こう、息を呑んだ気配が伝わる。静かに流れ落ちた涙をそのままに、アデルがそっとを抱き締めて、その黒髪に頬を寄せた。





友人を悲しませた原因に、酷く酷く腹が立った。
2014年4月20日