請うのはキス、ではなく笑顔、そのためなら
シングルス3で真田が、ダブルス2で柳と赤也が、それぞれ勝利を立海に齎した。このシングルス2で勝ちを収めれば、ストレートで立海の全国三連覇が決まる。靴紐を結び直し、ラケットを手に柳生は立ち上がる。
「柳生」
その背に声をかけたのは、コーチ席に座っている幸村だ。
「どんな試合内容だろうと、勝ちは勝ちだ」
「・・・分かっています。私は必ず勝利を掴んでみせます。それが、例えどんな形であろうとも」
冷静な表情を崩さずに、コートへと入っていく柳生の背を見送り、幸村は客席を仰ぐ。客がちらほらとしかいない最上段の席で、その姿は目立って見えた。立海のギャラリーから遠く離れた場所で、仁王はこの決勝を見守っている。それは本当に正しく「見守っている」ようだと、幸村には思えた。シングルス2、柳生と不二の試合が始まる。
「・・・何か、柳生先輩らしくないっすね」
悪魔化が引いて、目も元に戻った赤也がタオルで汗を拭いながら繰り広げられている試合に首を傾げる。コートの中では、柳生が不二のトリプルカウンターのひとつである「白鯨」を返したところだ。不二のカウンターについては、準決勝で四天宝寺の白石がすべて攻略してみせている。なので柳生が返すことが出来ても当然ではあったが、やはりそこには仁王の影もあるのだろう。自身に置き換えて考え、赤也は納得する。あの夏の日、部活が終わった後、仁王が見せてくれた乾と海堂のダブルスは、やはり大きな力となって赤也と柳に働いた。一度きりだったから練習を重ねたとは到底言えない。それでも脳裏に刻みこまれたイメージを覆すべく勤しんだ練習は、ふたりに確かな勝利を齎した。だとしたら柳生も、仁王から不二のすべてのカウンターを見せられているはずだ。だから不思議ではないのだけれど、どうにも腑に落ちない。何故なら、試合はすでに開始から三十分を超えているのだ。それなのにカウントはまだ2-1で柳生がリードと、遅々とした進み具合だ。いつもの柳生なら颯爽と決めていそうなものなのに。首を傾げた赤也に隣から柳が問いかける。
「柳生らしくない、とは?」
「だって、いつもの先輩ならストレートに無駄なくさらっと勝っちゃうじゃないすか。それなのにこんなに時間かけて、しかもコートを走り回って。もう汗だくっすよ? こんな柳生先輩、初めて見るっす」
「ならば赤也、どうして柳生がわざわざこんなスローペースの試合をしていると思う?」
「へ? もしかして、これ、柳生先輩がわざとやってるんすか?」
「当然だろう」
驚いて振り向けば、柳は涼しい顔で頷いている。その向こうの真田も無言でコートを見据えているあたり、やはり嘘ではないのだろう。背後では次の試合に備え、丸井とジャッカルが仕度をしている。ちらりと向けられた視線に、ええと、と赤也は言葉に詰まった。
「柳生の持ち味は、ストレートとカーブ、二種の速球を巧みに使いこなす試合運びだ。ショットの速度と正確さなら立海でも一・二を争うだろう。不二のカウンターを返せるだけの技術も持ち合わせている。それなのに柳生がこんなスローペースの試合を選んだ理由は何だと思う?」
「・・・相手の体力を削るため、とか?」
「それも理由のひとつだろう。不二は小柄に見えて案外スタミナがある。握力が強いせいか、ショットの威力も決して弱くない。天才と呼ばれるに相応しい能力を有している。だからこそ柳生は勝負に出た」
「勝負?」
「そう、勝負だ」
コーチ席から幸村が肯定し、赤也はそちらを向く。柳生のパッシングショットがレーザーに等しい速度でもって襲い掛かり、尚且つ不二の手前で急激に軌道を変えた。直線と同じフォームから繰り出されるカーブを見抜くのは至難の業だ。それでも不二は食らいつき、コートの端まで駆けてそのショットを打ち返す。互いに息を切らして走り回る泥臭い試合だ。紳士と天才という華やかな二つ名を持つふたりに相応しくない、汗まみれの試合。
「テクニックでは勝敗はつかない。だからこそ柳生は、確実に不二に勝てる分野に勝負を持ち込んだ。それが体格だ。柳生は背も高く、体力があってパワーもある。この分野で挑まれたら、小柄な不二はどうしたって劣勢にならざるを得ない」
「だから、ああやってわざと試合をスローにしてるんすか?」
「そうだよ。格好悪いと分かっていても、勝つためなら柳生は紳士という肩書きを捨てる。女神のために、柳生は何だってするだろうね。いいじゃないか。嫌いじゃないよ、そういうの」
くすくすと幸村は笑う。後半の意味は赤也には分かりかねたが、ふむ、と柳が頷いたので彼には真意が伝わったのだろう。不二の放ったフィフスカウンター「百腕巨人の門番」を、柳生は一球で返してみせた。白石でさえ攻略するのに一試合かけた、超回転のショットだ。それでも柳生は難なく返し、そしてまた不二を走らせる。おそらく、おそらく、柳生は、直線と曲線のレーザービームだけでは不二を破れないと考えたのではないか。赤也はふと思う。カウンターを返せる、けれど勝負を決めることは出来ない。だからこそ柳生は、今までのスマートなテニスを捨てて、泥臭い体力勝負に持ち込んだのではないか。立海の勝利のために。あるいは、女神に捧げる勝利のために?
柳生のショットがネットに触れ、コードボールになる。それに駆けつけ、不二がラケットを振り抜くと共にボールが消えた。赤也だけではなく、その場にいた誰もが知らなかったが、それは不二の新たなカウンターである「星花火」だった。ボールはどこだ、と皆が探し始めた瞬間に柳生は天を仰ぎ、走り出す。まるでボールがどこに落ちてくるか分かっているかのように。
汗に塗れて、自分のプレースタイルを崩して、馬鹿みたいに走り回って。それでもその試合は、勝利の女神に捧げられた聖戦だった。客席の最上段で見守る、儚い少女に捧げる、柳生の魂からの一戦だった。
柳生さんは一年生の頃にヒロイン仁王嬢に告白して、振られた挙句ダッシュで逃亡されるという苦い経験をしております。
2011年1月16日