わたしのすべてはあなたへの愛なのです
「弦一郎っ!」
柳の焦った静止も間に合わなかった。真田の平手を正面から食らった仁王の身体はひとたまりもない。吹っ飛ぶようにして、その細い身体は僅かに浮いたのかもしれなかった。その威力を身に染みて知っている赤也は息を呑んだ。幸村はただ黙って見ているだけだったが、仁王の身体は倒れ伏す前に動き出す。足底がコートを滑るように抉って、勢いを殺す。低くなった身体は逆に反動をつけて前へ出た。そうして真田の顔面に向けて繰り出された拳は異様な鋭さで、誰もが一瞬後の、女子に殴られる真田の姿を想像した。けれど、そうはならなかった。
「・・・何の真似だ」
仁王の拳は、真田の頬骨から僅か一センチメートルの距離で静止していた。防御が間に合わなかった己の無様さを罵っているのか、それとも殴り返してこなかった仁王の行動に憤慨しているのか、真田の声は低い。射るような眼差しは正面から仁王と対峙し、両者の間で火花が散った。
「殴らんのか」
「殴られたいんか?」
「ふざけるな! 殴るならさっさとしろ!」
「阿呆か。殴るわけなか」
構えを解いて、仁王は腕を下ろして一歩下がる。ひらりとスカートの裾を舞わせて、彼女は悪戯に肩を竦めて唇を吊り上げる。
「おまんはスポーツ選手じゃろう。全国大会を控えてる奴に手を上げたりなんか、俺はせんよ」
はっと真田が息を呑む。容赦のなかった平手打ちは、すでに仁王の頬に赤みを帯び始めさせていた。もともとの色が白いだけに、それは見る側に痛々しい印象を与えて広がる。痛かっただろうに、僅かに唇の端に血を浮かべ、それでもまるでパフォーマンスのように仁王は舌で己の赤い滴を舐め取ってみせた。そうして飄々とした態で真田を見上げる。
「俺がおまんに見せたのが手塚のすべてじゃ。言うとくが、手塚が本当に『手塚ファントム』や『零式サーブ』を習得しとるかどうかは知らんぜよ。俺が見せたのはあくまで可能性じゃからのう」
「・・・貴様は、それだけの実力があって何故テニスをやらんのだ」
「さあのう? 人生は謎だらけナリ」
「道化が。貴様ごときに手塚を真似されるなど虫唾が走る」
吐き捨てて真田は踵を返した。その背は憤怒に満ちており、仁王は少しばかり瞳を細めて見送る。けれど最後とばかりに声をかけた。
「おまんの負けは、立海の負けじゃ。文句を言うよりも先に精進するんじゃな。ルーキーに無様に負けた、皇帝さん?」
くわっと目を見開いて半身を返した真田の形相は恐ろしかった。しかしそれを仁王は正面から受け止めて、あたかもわざとらしく笑みまで浮かべて返してみせた。屈辱に奥歯を噛み締め、真田が足取り荒く去っていく。その姿が見えなくなって、ようやく赤也は潜めていた息を吐き出すことが出来た。
「・・・痛い」
「真田の馬鹿力を馬鹿正直に受け止めるからだよ。ほら、湿布」
「ん」
やはり今までは我慢していたのか、掌で頬を押さえる仁王に幸村が救急箱から取り出した湿布を渡してやる。今日、赤也と柳は部長である幸村から練習の後に残れと言われていた。何だろうと思いながらジャージのまま着替えずに待っていたところ、現れたのは仁王だった。彼女のことは学年の違う赤也でも知っている。三年の、立海一美人な先輩。独特の婀娜っぽい雰囲気は年がひとつ違うだけなのに、仁王をまるで大人の女性のように見せている。容姿は派手で、どちらかと言えば素行も良くなくて、一部では社会人の恋人がいるなんて噂もある仁王に、実は赤也も淡く憧れていたのは口が裂けても言えない事実だ。少年期の年上女性への憧憬など、誰もが通る道だろう。しかしこうして目の前にしてみても、仁王はやはり美人だった。だけど何で仁王先輩がテニス部に、なんて思っていたところに真田が登場し、先ほどの事態に陥ってしまったのである。
「・・・精市」
どういうことだ、と柳が薄く開いた眼差しで問い詰める。幸村はそれを横目で流し、仁王が湿布を貼り終えたのを確認してからふたりへと向き直る。
「全国での対青学戦のオーダーを伝える。柳と赤也はダブルス2だ。相手に乾と海堂を想定して、今から仁王と試合をしてもらう」
「へ?」
「精市、それはどういう」
「乾と海堂のプレーを仁王が再現する。そこから学び取って、必ず勝ちを掴め。俺たち立海大付属には、もう負けは許されないのだから」
幸村の背後で、仁王はラケットを手にさっさとコートへと入っていく。赤也は今更ながらに気づいたが、その足元はローファーではなくテニスシューズだ。格好こそ制服だが、ラケットはかなり使い込まれているらしい。とはいえ仁王ひとりが、どうやって乾と海堂のプレーをして見せるのか。不思議に思っていると、仁王がふたりに増えた。え、と赤也が我が目を疑って瞼を擦るけれども、ふたりの仁王は減るどころか、にやりと同じ所作で笑ってみせるのだから現実に違いない。
「菊丸の一人ダブルスの応用じゃ。明日は丸井とジャッカルの相手もしなきゃならんからのう。さっさと終わらせるぜよ」
そうして次の瞬間には、そこにいたのは乾と海堂だった。柳が息を呑む。幸村が冷やかに告げた。ここまでされて負けたら、俺たちこそとんだ道化だよ、と。
ヒロイン仁王嬢が「これから先の技」を見せるのは、たったの一度きりです。邪道だと分かっている彼女のせめてものスポーツマンシップ。
2011年1月16日