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少女の恋した戦場





全国二連覇を成し遂げ、敵はいないと言われていた立海大付属中は、関東大会の決勝戦においてよもやの敗北を喫した。相手は東京一位代表の青春学園。手塚国光という鬼才を頂く学校を、幸村とて知らないわけがなかった。副部長である真田が、それこそ中学に入学する前から固執していた相手でもある。しかし環境に恵まれず、二年間は大した戦績を残さなかった手塚に対し、些かの警戒を解いていたのもまた事実かもしれない。その青春学園が、王者立海を破った。天才不二や黄金ペア、そして一年生ルーキーの越前リョーマを加えた青学が、立海に土をつけたのだ。
「・・・気に入らないな」
呟きは、誰もいない部室に大きく響く。もちろん幸村とてスポーツは勝敗がすべてであること、そしてそれは己自身の力のみによる結果であることを理解している。しかし、気に入らない。再度の呟きの矛先は、対戦相手の青学ではなく自らの立海に対してだ。戦力で考えるなら、決して劣っているとは思わない。むしろ立海の方が青学よりも強いと断言してもいい。それでも負けたのは何故か。慢心していたからだ。勝利に慣れ切って、手綱を握る手を緩めてしまった。それが敗北へと繋がったのだ。ましてや立海は幸村が不在とすることなく三年間君臨し続け、対する青学は手塚が怪我で離脱していたというのに。
「まぁ、関東大会だったのがせめてもの救いか。青学には全国で借りを返せばいい。負けて強くなるなんて言葉は好きじゃないけど、今の立海には雪辱を晴らすという信念もある」
ただでさえ厳しかった練習が、今は更なる過酷なものへと変わっている。それでも文句を言う輩がいないのは、レギュラーだけでなく部員の誰しもが敗北を屈辱だと捉えているからだろう。さすがに王者を名乗っていたのだ、一敗ごときで腐るような選手はいなかったらしい。無言でより一層のトレーニングに取り組んでいる部員たちに、幸村は密やかに笑みを深める。
全国大会に向けて行われている部活も、今日は終わった。自主練習をしていた面子もすべて帰り、部室には幸村のみが残っている。夏は太陽が沈むのが遅いとはいえ、すでに周囲は夜へと変わっていた。それでもルーズリーフとファイルを広げて、ペンを持って書き込むのは全国大会のオーダーだ。もちろん初戦や二回戦などではない。青学と当たるときのための、立海にとって唯一の意味ある試合のためのオーダーを模索する。
「関東で、シングルスは全滅だった。柳は乾に、赤也は不二に、真田は越前リョーマに負けた。これは弄る必要があるな・・・。丸井とジャッカルは固定として、俺と柳生のダブルスは解消して今回はシングルスに回るか」
ペンで軽く机を叩いてから書き連ねる。関東大会で立海が勝ちを掴んだのは、ダブルスの二勝だけだった。真田なら勝てるだろうと踏んで部長の幸村自身がダブルスへと回ったのだが、それが裏目に出てしまった。しかしよもやまさか、皇帝と呼ばれる真田が一年生に負けるとは。試合後、その頬へ盛大にお見舞いした平手打ちを思い返し、幸村は僅かに笑う。
「だけど全国大会では手塚が戻って来るし・・・。青学は一体、どんなオーダーを組んで来るか」
それが問題だ、と過去の試合記録から予想しようと、幸村がデータファイルへ手を伸ばしたときだった。
「シングルス3に手塚、ダブルス2に乾と海堂、シングルス2に不二、ダブルス1に大石と菊丸。そしてシングルス1に越前リョーマぜよ」
第三者の声に、ぴくりと指先が止まる。反射で振り向いた先、部室のドアの前に立っていたのはテニス部の部員ではなかった。扉を開ける音はしなかった。ならば、彼女は一体どうやって室内に入ってきたのか。そしていつからそこにいたのか。銀色の髪は蛍光灯の下でもその輝きを失っていない。白い吸い込まれそうな肌に、少し痩せ気味の肢体。得も知れぬ独特の雰囲気を持つ少女を、幸村は知っていた。その派手な容姿から学校中の有名人だ。同じ学年。丸井のクラスメイト。B組の、仁王雅治。
「・・・部外者は立ち入り禁止だ」
「手塚はシードの二回戦から復帰してきよる。全国大会で、立海と青学が当たるのは決勝じゃ」
「聞こえなかったのかな。出て行ってほしいと言ってるんだ」
「青学は先勝して優位に進めたいんじゃろう。シングルス3に手塚を持ってくる」
「大体テニス部に所属していない君が、どうしてここに」
「決勝で、相手は立海じゃ。万全の態勢で挑んでくるぜよ。シングルスは手塚と不二と越前。これが青学の最強オーダーナリ」
「・・・・・・」
「ダブルスも黄金ペアは崩せん。残り一組は、最も安定しとる乾と海堂で来る。桃城と海堂のペアは関東で丸井とジャッカルに負けちょるしのう」
「・・・河村は?」
「準決勝で四天宝寺の石田と当たって、怪我をしよる。じゃけん決勝のオーダーからは外れるぜよ」
まるで見てきたかのようにすらすらと予想を述べる仁王に、いつしか幸村は椅子から立ち上がっていた。相対すれば分かる、彼女は女生徒にしては長身だけれども、やはり幸村よりは十センチメートル近く背が低い。骨格も華奢で、長袖のブラウスの上からでも細身であることが良く分かる。短いスカートに柔らかそうな足。曲線を描く首筋に、銀髪を緩くまとめるシュシュ。すべてが頼りなく儚くあるのに、それでも瞳だけは雄弁だった。幸村から一瞬たりとも逸らされない。知っている。この目は。敗北を知り、そして悔しさをばねに邁進しようと己を痛めつけるスポーツ選手の。今の立海テニス部の、レギュラーのそれだ。だから幸村は、仁王を部室から追い出すことを辞めた。机に少し寄りかかるようにして、運を組んで仁王を見やる。
「不二と越前リョーマなら、不二をシングルス1に持ってくるのが常識的だろう?」
「もしおまんが青学の部長だったとしたら、どっちに任せる? 越前リョーマじゃろう。あのふたりを並べたとき、ここぞというときに決めるのは間違いなく越前リョーマぜよ。実力じゃなか、勝利への執念と渇望、それとヒーロー性の問題ナリ」
「ヒーロー性ね、確かにあのボウヤにはカリスマがある。真田を負かせたことで、より一層青学内での彼への期待は高まっただろう。黄金ペアには、当てるならやっぱり丸井とジャッカルか」
「・・・立海で一番強いダブルスがそのふたりなら、それが良いのう」
「手塚には真田を当てる。ずっと執着してきた相手だ、真田も今度は無様な醜態をさらすことはないだろう」
「シングルス3に真田、ダブルス1に丸井とジャッカル」
「それなら俺は、シングルス1に回るべきかな。そこまで青学が立海を追い詰められるかは分からないけれど」
「驕りは足元を救うぜよ。おまんら、関東でもう負けとるじゃろう」
「・・・そうだな。気を付ける」
「残るはシングルス2とダブルス2じゃ」
「メンバーは柳と赤也と柳生、か」
幸村は指先を唇に添えて、僅かに考え込む。この三人でダブルスとシングルス、ふたりとひとりに分けるとなると、柳と柳生がどちらにも精通していることから幾通りもの組み合わせが考えられる。無難なのは柳と柳生のふたりをダブルスに回すことだが、そうするとシングルス2で赤也が再び不二と対戦することになる。それは良くないな、と幸村は思う。関東で「無我の境地」を垣間見せた赤也の可能性を考慮するのなら、不二にリベンジを果たすことは可能だろう。しかし、相手は天才と呼ばれる存在だ。奥は深く、読み切れない。勝率は低くはないが、決して高くもない。だとすると赤也はシングルスではなくダブルスに回すべきだろう。組ませる相手は柳か、それとも柳生か。
「―――シングルス2は、柳生じゃ」
ぽつん、漏れた声は今までとは打って変わって弱かった。はたと幸村が仁王を見下ろせば、決して逸らされることのなかった瞳が俯いていて見えない。ただ、ブラウスの袖から覗く拳が小さく震えているのだけは分かった。
「シングルス2は、柳生、じゃ」
「・・・何故?」
「・・・・・・」
「根拠がなければ、俺は動かないよ」
「・・・柳生、が、柳生、じゃから。『仁王雅治』が、このテニス部にいないんじゃ。そしたら柳生しかおらんじゃろ。代わりに戦えるのは、あいつ以外におらんぜよ。俺、が」
銀髪を振り払うようにして顔を上げた仁王の瞳は、じわりと涙に濡れていた。何で今ここで泣き出すのか、幸村にはさっぱり理解出来ない。それでも彼女は言ったのだ。
「俺が、柳生を勝たせる。俺が立海に全国三連覇を成し遂げさせてみせるぜよ。そのために、仁王雅治は、『ここ』にいるんじゃ」
強い宣言は、どこか悲痛にも聞こえた。スカートの裾が揺れている。細い手足だ。ブラウスを押し上げる胸は確かに存在し、長い睫毛も柔らかそうな頬も、少女たるすべてを形にしたかのような仁王雅治は、それでも瞳だけが異なった。幸村は眉間に深く皺を刻む。仁王の、言っている意味が分からない。だけど心が動かされたのは、もしかしたら因縁だったのかもしれない。魂が呼ばれた気がした。
「・・・根拠がなければ、俺は動かない。三連覇を成し遂げさせてみせる? 部外者が随分な言い様だな」
「見せちゃるぜよ、根拠。コートに出んしゃい」
「君が? テニスのをするのかい?」
「出来ないと思うんか? 俺は仁王雅治じゃ。・・・性別は違うけど、それでも『仁王雅治』なんじゃ」
出来んわけがなか。そう言い捨てて、仁王は幸村に対し背を向ける。シュシュに結ばれた銀髪の尻尾がおとなしく彼女に従った。扉を開けて、外に置いていたのかバッグを拾い上げる。ラケットが三本入るそれは、確かに本格的にテニスを嗜んでいる者が持つものだ。ゆっくりとジッパーを開いて、仁王はラケットを取り出した。それを肩に預けて彼女は幸村を振り返る。
「全国大会決勝シングルス1、幸村精市VS越前リョーマ。再現してやるぜよ。コートに入りんしゃい」
「・・・・・・」
「俺が、越前リョーマの技を再現してやるぜよ。そこから何を学ぶかは、幸村、おまん次第ナリ。疑って信じんのも当然じゃ。じゃけん、一度でも目にしておけば対処法は立てられるじゃろう」
「卑怯だとは思わないのかい? 君の言ってることが真実だとしたら」
「なして? テニス部にも入ってない女の子が、ちょっと頑張って真似してみただけじゃ。誰も文句は言わんぜよ。・・・信じるはずも、ないからのう」
フェンスを押し開けて、仁王はコートに入っていく。ラインを越える一瞬、彼女は躊躇するかのように足を止めたけれども、ゆっくりと白線を越えた。向けられる眼差しに促されるように、幸村もラケットを手にしてコートに入る。夜、ライトはない。月光だけがすべての中で、仁王の存在は異質だった。きらきらと輝いているのに、一瞬でも目を離したら消えてしまうのではないかという儚さがあった。ポーンポーンとボールを跳ねさせ、確認する。握り、足を開いた様は確かにテニスプレイヤーのものだった。しかも、相当の実力者の。反射が幸村に構えを取らせる。月に雲がかかり、あたりが暗さを増した。
「・・・正直、俺にも分からんぜよ。仁王雅治が『ここ』にいるんじゃ。違う、から、未来も違うかもしれん。それでも不穏な可能性があるのなら、それを潰すのが俺の役目ナリ」
高く、ボールがトスされる。膝のばねを使って、左腕を大きく振り上げ、スローモーションのように繰り出されるツイストサーブに、幸村は思わず魅入った。それは非常に美しかった。ボールは見事な速度で幸村の横を抜こうとする。身体が動き、サーブを打ち返す。見据えたコートに、仁王の姿はなかった。まばゆい光が月光よりも鮮やかにコートを染め上げて、「越前リョーマ」が笑う。
「まだまだだね」
そうして幸村は生まれて初めて、「無我の境地」の更なる高みである「天衣無縫の極み」を目の当たりにした。仁王は一度きりしか見せなかったけれども、そのイメージは酷く幸村の脳裏に焼き付いた。どう返せばいいのか、無数に頭が、身体がシミュレートする。おまんらを勝たせるために、「仁王雅治」は女に生まれたんじゃ。仁王のそんな嘆きは、勝利を模索する幸村には届かなかった。





この話では幸村様は病気になってません。彼がいたのに関東で立海が負けたので、逆に決意を固めたヒロイン仁王嬢。全国対青学編スタート。
2011年1月16日