このお話には、テニプリ仁王の病気と死の描写があります。少しでも不快だと感じた際は、すぐさまページを閉じてください。注意書きを無視して閲覧し、気分を害されても責任は負えませんのでご了承ください。





あなたと出会えて、共に生きていること。それが何よりの贈り物です。





彼が愛した青年の話





こんこん、とノックをすれば「今開けます」と声がして、少しの後に扉が開いた。出てきた相手は自分を見て、虚を衝かれたよう目を丸くする。実際には眼鏡に遮られて瞳は見えないのだけれども、表情なんて変わらなくても感情くらい簡単に読める。だって目の前にいるのは柳生比呂士なのだ。中身は違えど、何年共にいたと思ってる。
「・・・雅紀、君?」
「こんにちは、柳生さん。兄ちゃんはお母さんに捕まってるから、先におやつ持ってきた。入ってもいい?」
「ええ、どうぞ。とは言っても仁王君の部屋ですけれど」
にこりと意識的に笑いかければ、柳生は苦笑しながら扉を大きく開けて招き入れてくれる。ありがと、と礼を言って部屋に入る。大きな盆をローテーブルに置くと、かちゃ、と静かな音を立てて柳生が扉を閉めた。それは合図だ。
「どうじゃ、雅治とは。仲良うやっとるんか?」
礼儀正しい、それでも小学校四年生の子供らしさを湛えた口調を一転して問いかける。この部屋は極端に物が少ないけれども、その中で存在を主張しているふたつのビーズクッションのうち、ひとつに小さな身体を沈めた。柳生も同じように、もうひとつのクッションに腰を下ろす。「兄ちゃん」が「雅治」に変わったときに意味することはひとつだ。「仁王雅紀」が「テニスの王子様の仁王雅治」として現れる。世界が流転して繋がっている限りどこを基軸とするのかは不明だが、現在の仁王雅治の中にいる「彼女」が本物だと信じている「仁王雅治」が、弟の中でその素顔を露呈するのだ。柳生が困ったように少しだけ笑うのは、未だその変化に慣れないからだろう。彼にとっては仁王こそが唯一の仁王雅治なのだから、それも当たり前だと思う。
「そうですね、仲良くやっていると思いますよ」
「それは僥倖ナリ。母さんがケーキを切ってたから雅治はしばらく来ないぜよ」
「お構いなく、と言っているのですが」
「折に触れて手土産持ってくる奴の台詞じゃないのう」
一応、ホストとして盆からコップと皿をテーブルに並べてやる。ありがとうございます、と告げる柳生に、よかよか、と適当に手を振ってから、じっとその姿を見つめる。行儀悪く片膝を立てたりするのは、仁王雅紀としては決してしない仕草だ。何度も生を繰り返すのなら、前はしなかったことをしてやろう。そう考えて人生は三度目なので、今回は比較的真面目に過ごそうと思っているのだ。だから髪だって黒いし、ピアスも今のところ穴を開ける予定はない。仁王雅治とは違って。
「・・・そんなに見られると、食べ辛いのですが」
眉間にうっすらと困惑を載せた柳生に、思わず笑う。
「いや、相変わらずそっくりだと思ってるだけナリ。遠慮せず食べんしゃい」
「私はそんなに似ていますか? あなたの『柳生比呂士』に」
「そうじゃのう、外見はそっくりじゃ。その髪の色も、声のトーンも、身長体重スリーサイズも全部一緒じゃろ。でも、違うところもあるぜよ」
「あるのですか?」
「当然じゃ。俺が仁王雅治じゃないんじゃ、おまんも『柳生比呂士』じゃなくて当然ナリ。例えば」
子供の、まだ短い指がローテーブルの上を指し示す。柳生の手元にある。小さな器を。
「俺の『柳生』は、三杯酢派じゃった」
硝子の皿の中では、ところてんが蛍光灯の光を浴びてきらきらと輝いている。うっすらとした艶を与えているのは黒蜜だ。柳生がいつ訪れてもいいように、仁王家には常に黒蜜が用意されている。今度は明確に眉間に皺が刻まれたため、くつくつと肩を震わせた。
「・・・やはり、会いたいものですか? あなたがこうして転生しているのなら、あなたの『柳生比呂士』も、もしかしたらこの世界に存在しているのかもしれないでしょう?」
「可能性は無きにしも非ず。じゃけん、おってもおらんでもどっちでもよかよ。そりゃあ俺の『柳生』がいてくれるなら俺の人生は薔薇色ナリ。でもな、おらんでも俺は十分に幸せじゃ。あいつは俺を、未来永劫分愛してくれた」
声が甘さを帯びたのが自分でも分かる。それほどに大切な思い出だ。こうして折に触れて思い返し、幸福を感じることが出来るくらいに恵まれた出会いであり別れだった。
「俺な、胃癌だったんじゃ」
ひゅっと柳生が息を呑んだ。皿に添えられていた手が震え、そしてゆっくりと握っていたフォークを下ろす。金属が硝子にぶつかる、どこか澄んだ音が響いた。世界は違えど、目の前の柳生も「柳生」と同じく医師の息子だ。聞いたことはないが、きっと将来は医師になることを目指しているだろう。それも「柳生」と同じだ。目指す分野まで同じとは限らないけれど。
「気がついたときには、もうかなり進行しとった。予後は厳しい言われてなぁ。まだ四十じゃった。もうすぐ死ぬと分かって、生きる気力がなくなった。治療も受けんと、ひとりで死のうと思った」
仕事を辞めて、ひとりで姿を消した。携帯電話も解約して、家族とも知人とも、テニスで青春を共にした仲間とも連絡を絶った。もちろんそれは「柳生」とて例外ではなく、身ひとつで彷徨う様に旅をした。南の、生まれ育った土地を訪れた。繰り返した転校先を順番に回ってみたりもした。その途中で倒れそうになったことは何度もあった。意識を失い、死を覚悟したことは何度もあった。それでも行き着いた先、見上げた立海大付属中の校舎は、変わらずにそこにあった。すべてがあった。すべての始まった場所だった。
「・・・死ぬんなら、やっぱり誰かの傍がええ。そう思ったときに浮かんだ顔が『柳生』じゃった。あいつのマンションを訪ねて、玄関の前で帰りを待った。そうしたらあいつ、夜勤でのう。丸一日待ちぼうけを食らったぜよ。帰ってきたときの顔は、ほんに見物じゃった」
思わず笑みを漏らしてしまう。辛かった人生をこうして穏やかに語れるのは、やはり思い出が優しいからだ。
「あいつがいてくれたから、手術も放射線治療も化学療法もやったぜよ。あいつがいてくれたから、少しでも長く生きようと思うた。髪の毛が全部抜けたときはやっぱりショックじゃったけぇ。そしたらあいつ、何を買うてきたと思う? 銀髪のかつらじゃ。俺も社会に出てからは茶髪にしとったのに、あいつ、よりによって銀髪のを買ってきよった。そんで俺に被せて、何て言うたと思う?」
あのときの「柳生」の微笑みが、今でもありありと思い出される。
「『出会ったときと一緒ですね』って、言うたんじゃ」
あんとき、癌を宣告されてから初めて泣いた。自分は苦しくて悲しくて、寂しかったのだとようやく分かった。そして「柳生」はずっとそんな自分を支えていてくれたのだと、ようやく気づけた。
「最後の二ヶ月は、あいつ、勤めてた病院を辞めてまで俺の傍にいてくれた。四六時中一緒じゃった。俺はもう何か食えるような状態じゃなかったし、錯乱して当り散らすわで最悪じゃっただろうに、ずーっと傍にいてくれた。着替えや清拭だけじゃのうて、排泄物の世話までしてくれた。四十の男が、四十の男の世話じゃ。考えられるか? 友達だからって普通せんじゃろ。でもなぁ、それが『柳生』だったんじゃ。俺がベッドから起きられんようになっても、あいつ、ずーっと隣にいてくれた」
朦朧とした意識の中で、どうにか瞼を開けばいつだってそこにいてくれた。自分はまだ生きているのだと、命を実感させてくれた。距離は近くて、握る手はとても温かくて。そう、それはダブルスを組み、共にテニスコートに立っているかのようだった。真面目にやりたまえ、仁王君。そんな声さえ聞こえそうで、愛しくて感謝が募って堪らなかった。
「こんなにしてもらっても、俺はもう何も返してやれん。金も財産もないし、何もしてやれん。そう言うたら、あいつ、何て言うたと思う?」
問いかけに、柳生は緩く首を振る。だからこそ「仁王」は教えてやった。

「『あなたと出会えて、共に生きていること。それが何よりの贈り物です。私のところへ来てくれてありがとうございます、仁王君』」

懐かしい。もう、年月にしたら何十年も前のことだというのに、それでもこの言葉さえあれば何度だって人生を繰り返していける。もう二度と会えなくてもいい。会えたらそりゃあ嬉しいけれど、それでも未来永劫に匹敵する分まで愛してもらえたから充分だ。心から幸せだと、本心から言える。
「死ぬ最期の瞬間、俺も『柳生』の手を握って、ありがとうって言えた。だからいいんじゃ。あいつがおってもおらんでも、俺はこの先を生きていける。俺は十分にあいつに愛してもらったからのう」
「・・・・・・すみ、ません・・・」
「何を謝ることがある。じゃけん、これで分かったじゃろ? 俺の『柳生』はあいつひとりじゃ。おまんはあいつになれん。俺が仁王雅治になれんように、おまんも『柳生比呂士』にはなれんのじゃ」
柳生が首を縦に振る。揺れる優しい茶色の髪は記憶の中の「柳生」と同じだけれど、それでもやはり別人だ。限りなく近しい他人というのが、一番相応しい言い方かもしれない。腕を伸ばして、小さな手のひらで柳生の頭を撫でてやる。微かな嗚咽に失笑してしまった。自分は子供の姿をしているけれども、それでも中身はすでに百を越えた人生を送っている。それに比べれば、純粋に十五歳でしかない柳生は本当に子供だ。精神的に四十を越えている仁王雅治だって、それでもまだ子供でしかない。だから見守ってやりたいと思うのは、きっと自然なことなのだ。
自分たちがかつてなしえなかった未来を、代わりに成し遂げてもらいたい。
「おまんたちはじーさんになっても、一緒に縁側で仲良う茶を飲みんしゃい。それが俺の望みじゃ」
「はい・・・っ」
「よしよし」
ぐりぐりと髪の毛をかき混ぜてやれば、階段を登る気配が近づいてくる。案の定その存在はあっという間にドアの向こうまでやってきて、ノックもせずに扉を開いた。すぐさま眉を顰める顔はかつての自分のものとまったく同じで、それでもやはり異なって見えるのだから嬉しいと心底思ってしまう。
「雅紀。おまん、柳生に何したんじゃ」
「ごめん、兄ちゃん! 俺、学校で聞いた怖い話をしたら、柳生さん泣いちゃって」
「阿呆、柳生の前で怪談は禁止じゃ。今度したらただじゃおかんぜよ」
「ごめん。柳生さんもごめんなさい」
「・・・いえ。私こそ、すみませんでした、雅紀君」
謝ることはない。再度視線で伝えて、軽やかに立ち上がる。ごめん兄ちゃん、ともう一度言えば、ぺしっと黒髪を軽く叩かれた。そしてそのまま廊下に追いやられる。閉まる扉の間から、柳生の傍に寄り添う仁王が見えた。それでいいのだと、自然と笑えた。そう思えるのもすべて、「柳生」のおかげだ。
いつだってどんな世界でだって、仁王雅治は常に柳生比呂士に救われている。





俺の奇跡、俺の魂。何千年経っても愛しとうよ、柳生。
2010年10月3日