今回は少しシリアスに。時間軸は裏U-17合宿中、つまりヒロイン仁王の傍に柳生がいません。
東京の専門店だった。親戚の家へ向かう途中、新幹線の出発時刻まで余裕があったため、言い渡された自由時間。待ち合わせは座席で、と各自にチケットを配って家族は一時解散となった。小さな弟は両親にくっついていったけれど、大学生の姉はここぞとばかりに駅を出たところにあるファッションビルへと駆け込んでいった。ひとり時間を持て余すことになり、本屋でも行こうかと足を進めて気がついた。
日頃を過ごす場所は、すべて知っているようで知らないところばかりだったけれども、ここは違った。記憶の中にある光景と一切何ら変わりがない。黄緑色の山手線すら、かつてのものと全く同じ。見下ろす手のひら、ウィンドウに映る姿、それだけが唯一異なる。中身は、あぁ、彼ではないというのに。あぁ!
恐怖に震える指先で、懸命に携帯電話のボタンを押した。そうしなければ今にも喪ってしまいそうだった。心と身体のバランスが保てない。もう慣れたと思っていたのに、こんなに簡単にも化けの皮が剥がれてしまう。
『もしもし、仁王君?』
電話越し、柳生の声だけが「彼女」を支える唯一だった。
やさしいゆめをみればいいよ
「コシマエー・・・ワイ、トイレ行きたい・・・」
泥のように眠っていたところ、思い切り肩を揺すられて強制的に起こされたかと思ったら、この台詞だ。とりあえず脳天にチョップを食らわせても許されるよね、と寝汚いリョーマは思う。ただでさえ寝袋という粗末なベッドで、日中の厳しすぎるトレーニングの疲れをどうにか癒そうと試みていたのに、全くもってやってられない。それでも同じルーキーのよしみで、リョーマは金太郎に付き合ってやった。ちなみにどうして四天宝寺の面子を起こさなかったのかと尋ねたところ、「光は寝てるとこ起こしたらあかん。めっちゃ怖い。謙也は起きんかった。小春とユウジはラブラブやったから起こさんかった!」とあっけらかんと答えられ、リョーマは先ほど堪えたチョップをやはり金太郎の脳天に叩き込んでやった。
洞窟を出ると、外は意外にも明るかった。雲が月にかかっておらず、また満月に近いというのもあるのだろう。自然が豊かだからか空気も澄んでいて、十月を迎えたこの季節は肌寒ささえ感じさせる。さっさと済ませて戻るよ、とリョーマが金太郎を促そうとしたときだった。
「んー? コシマエ、あれ」
金太郎がリョーマのジャージの裾を引く。欠伸をしながら振り向けば、指差す先に小さな銀色の影があった。
「・・・あの人、あれじゃん。立海の手塚部長になれる人」
「せや、白石になる奴や!」
「何してんの、あんなとこで」
ふたりが首を傾げる先には、立海の三年、仁王の姿があった。名前はすぐに思い出せなくとも、そのプレーはとても印象的で、どんな選手にでもなれるという「イリュージョン」はリョーマと金太郎の関心を否応無しに引き付けて止まない。とはいっても、今の仁王はラケットも持っておらず、上下ジャージ姿で崖の上に立っている。結ばれていない銀色の髪が項から肩へと緩やかに流れており、女みたい、とリョーマが思ったときだった。
「っ・・・!」
「うおっ! 何やあいつ、消えたで!」
「馬鹿! 飛び降りたんだよ!」
仁王の姿が視界から消えた。普通に一歩を踏み出すように、ふわりと崖から飛び降りたのだ。銀色が軌跡を描いて、ぼんやりと見惚れていたのがいけなかった。まさかと最悪の事態を想定して駆け寄り、崖下を覗き込めば、ほんの小さなでっぱりを足場にして、ひょいひょいと容易く降りていく姿がある。やるなぁあいつ、と金太郎は歓声を挙げたが、リョーマからすれば曲芸にしか見えない。何あの人、というコメントが素直な感想だ。そんな間にも仁王は見事地面へと着地し、ジャージのポケットから何かを取り出している。人工的なライトが小さく見えたから、懐中電灯でも持参していたのかもしれない。次いで、がさがさと近くの草むらへと向かっていった。
「・・・何しとるんやろ」
「合宿から逃げるってわけじゃなさそうだけどね。明かりがほとんど動かないし・・・何か探してんじゃないの?」
「ふーん。せやったら、ワイも手伝ってくるわ!」
「勝手にすれば。俺は寝るから」
「コシマエも行くでー!」
「話聞けよ、遠山!」
とにかく寝たいというリョーマの訴えは、完全に目が覚めてしまったらしい金太郎に一刀両断された。腕を掴まれたかと思うと、先ほどの仁王よろしく金太郎は大地を蹴りつける。浮遊感にリョーマは溜息を吐き出し、けれどすぐに意識を切り替えてバランスを取った。ふたり同じタイミングで石の壁を何度か蹴って、最後は滑るような形で地面へと着地する。初日は苦労しながら登った崖だが、降りるのはあっという間なのだからつまらないよね、と心中で呟き、リョーマは大きくなった懐中電灯の光に視線を向けた。音がしたからか、地面に膝をついていた仁王が立ち上がって振り返る。月光の下で見る姿は、異常なほどの色素の薄さを感じさせた。
「あんた、こんな時間に何やってんの?」
「・・・おまんらには関係なか。ガキは早よ戻って寝んしゃい」
「なぁなぁ、何探しとるん? ワイとコシマエも手伝うで。その方が早く見つかるやろ?」
金太郎が軽い足取りで近づいていく。木が生い茂り、足元は短いとはいえ草ばかりの崖下は、落し物の大きさによっては探すのに苦労するだろう。昼間なら明るくてもっと探しやすそうなものだが、練習が厳しくてそれも出来ない。かといって、休むべき夜に時間を割いて探すほどに大切な物ならば、やはり少しばかりの手を貸してやるべきだろう。もう眠気もどっか行っちゃったしね、とリョーマは肩を竦めた。
「その落し物っていうのは、あんたの携帯が真っ二つに折られてたのと何か関係があるわけ?」
数時間前、たまたま耳にした情報の提示に、反応したのは金太郎だけだった。目をぱちぱちと瞬く姿の向こうで、仁王はただ立っている。夜が似合うよね、とリョーマは純粋に感心した。仁王が懐中電灯の明かりを消せば、より一層その姿は月光に照らし出されて輝く。
「・・・ストラップじゃ。ディオールの、シルバーでテディベアのついとる、これくらいの」
節くれだった指先が、宙に熊の姿を描く。どうやら携帯電話について何かを語ることはないらしい。「でぃおーる?」と金太郎が首を傾げたので、リョーマは「ブランドの名前」と教えてやった。
「ここら辺で落としたの?」
「さぁのう。投げ落とされたから、どこに飛んだのか分からん」
「っちゅーか真っ二つってどないしたん!? 仁王、いじめられとるんか!?」
「高校生のお兄様方は、俺の格好良さが気に食わんらしいぜよ」
「あんた、派手だもんね。髪の色くらい変えたら?」
「駄目じゃ。『仁王雅治』は銀髪って決まっとるナリ」
「何それ」
呆れて返せば、仁王は懐中電灯のスイッチを入れて捜索を再開する。どうやら同じく裏合宿に来ている高校生に絡まれて携帯電話を壊された、もしくは崖から落とされたときにストラップを失くしてしまったらしい。それだけ分かれば十分だと、リョーマも月明かりを頼りに近くの草むらを掻き分けるべく足を踏み入れた。共同生活が始まってまだ数日だが、それだけで分かっていた。仁王は基本的に、他人とコミュニケーションを取ろうとしない。裏合宿では同じ立海の真田や柳、ジャッカルの傍にいるけれども、他校の選手とは全くと言っていいほど関わりを持とうとしないのだ。話しかけられても言葉を返すことさえ滅多にない。だからこそ、そんな仁王が掻い摘んでとはいえ事情を明かしてみせたのは、探すのを手伝うと言ったリョーマと金太郎に対する礼だったのだろう。礼儀正しいじゃん、とリョーマは小さく笑った。
夜間の捜索は難航を極めた。やはり手元が見辛いというのが大きかったし、昼間の練習で疲れているというのもあった。何度も欠伸を噛み殺し、それでも仁王が黙ってストラップを探しているから、リョーマも手を休めなかった。月がゆっくりと角度を変えて、一時間ほど経っただろうか。
「あった!」
金太郎の歓声に、リョーマも仁王も顔を上げた。木に登って枝を調べていた金太郎が、がさがさと葉を揺らしている。ほっと仁王の肩が安堵に下ろされたのを、リョーマは見逃さなかった。やっぱりそれだけ大切なストラップだったんだ、と納得していると金太郎が降りてくる。けれどその顔は、先ほどの声とは真逆の気落ちしたものだった。表情のくるくると変わる顔が、今は泣きそうに歪められている。握られている拳からはストラップの紐が見えていた。それを仁王に向かって差し出し、金太郎はゆっくりと拳を解く。リョーマは思わず息を呑んでしまった。
テディベアを模しているはずのストラップは、粉々に砕かれていたのだ。熊の胴体部分はもはやなく、残っている顔にすら大きな傷がついており、ブランド名のプレートは見るも無残なことになってしまっている。酷い、と言葉が唇を突いて出た。
「・・・木に引っかかっとったんやけど、熊さん、もうこないな状態やったんや・・・」
「ちょっと、これ・・・酷すぎるんじゃないの。ねぇ誰、あんたの携帯捨てたの。顔くらい分かるでしょ? 弁償させてやらなきゃ気が済まないんだけど」
「堪忍なぁ・・・。ごめんなぁ、仁王。・・・仁王?」
憤りにリョーマは眉を激しく顰め、金太郎は自分が泣きそうな顔で仁王を下から覗き込む。リョーマも少しばかり気遣いながら仁王を見上げた。色素の薄い茶色の瞳は、月光を受けて琥珀色に見えた。その瞳に壊れ果てたストラップが映っている。顔に感情はなかった。腕が静かに持ち上げられ、指がゆっくりと、ストラップを受け取る。その拍子にまたテディベアの耳が零れて、金太郎がくしゃっと顔を歪めた。
「・・・初めての給料で買うたのと、同じもんじゃったけえなぁ。まさかあるとは思わんかったから、驚いて、二個買うて。・・・一個、柳生にあげたんじゃ。お願いして、貰うてもろうた。覚えててほしい、言うて」
声は密やかに、夜の森に響いた。消えそうな、掠れた声だった。
「女物じゃけん、それでも構わんかった。往生際が悪くても、手放せんかった」
「・・・大事なもん、やったんやろ?」
「ん・・・。でも、ええんじゃ。また買う。今度はちゃんと男物を。おまえんらは気にせんでよか」
空いている右手で、仁王が金太郎の頭を撫でる。ぐしゃぐしゃに髪をかき混ぜるように、力強く。その手はリョーマにも伸びてきて、乱暴な所作をそれでも文句を言わずに受け止めた。戻るぜよ。そう言って背を向けた仁王について、崖を登った。
「越前、遠山。・・・・・ありがとう」
洞窟に入って、寝袋に片足を突っ込んだとき、聞こえた声。仁王は眠っている真田と柳の間にいて、入口からの月光を背負っていたために表情は見えなかったけれども、何故か泣いているんじゃないかとリョーマは思った。コシマエ、と金太郎がジャージを引いた。何だかとても悲しくなってしまって、その晩、リョーマと金太郎は身を寄せ合うようにして再度の眠りについた。
翌朝、桃城と海堂に叩き起こされるようにしてリョーマが目を覚ませば、やはり前日の行動が祟ったのか練習に遅刻ギリギリの時間だった。慌ててティーシャツを脱いで、バッグから新しいのを引っ張り出して着替える。ラケットを片手に洞窟を出れば、太陽の光が眩しすぎて寝起きの目には辛い。少し離れた場所に容姿の目立つジャッカルがいるのに気づいた。その隣には同じ立海の柳がおり、真田もいる。仁王も一緒にいたけれども、相変わらず会話に参加する素振りはなく、ただそこにいるだけのようだった。目元は赤くないから、昨日の夜は泣かなかったのかもしれない。泣いたら色が白いからすぐに分かるだろうし。そんなことを考えていたら、仁王がリョーマに気づいたのか顔を上げた。少しばかり唇が綻んで。
「おはよーさん、越前」
他者と馴れ合わない仁王からの挨拶に、リョーマは本気で驚いた。うぃっす、と小さく会釈するのが精一杯で、離れていく立海四人の後ろ姿をぼんやりと見送る。隣の桃城はリョーマ以上に驚いていたらしく、力強く肩を掴んできた。
「何だよ越前! おまえ、いつの間に仁王さんと仲良くなったんだよ!?」
「・・・うるさいっす、桃先輩」
ぎゃあぎゃあと喚く桃城だけでなく、海堂も気になっている様子だったがリョーマに答えてやるつもりはなかった。歩いていく先で、仁王は金太郎にも挨拶をしたのだろう。四天宝寺の面子の驚愕している顔が見え、その中で金太郎が弾丸のように飛び出して仁王に抱きつき、ふたりがそのまま真田へと倒れこんでいく。ぷっとリョーマは思わず噴出してしまった。
何あの人、可愛い。それがリョーマの仁王に対する、新たな印象となったのだった。
ねぇ遠山、とりあえず高校生は片っ端から潰していけばいいよね?
2010年9月25日