寂しくないから大丈夫
裏会総本部のある場所。神佑地の中でも最上級とされるそこに、新たな異界が形成された。良守の作ったそれは主となる烏森こと宙心丸のために、立派な城と大きな城下町が備えられ、たくさんのあやかしが創造された。その中には良守がかつて戦った相手もおり、それこそ宙心丸はきっと退屈せずに時を過ごすことが出来るだろう。四百年以上に亘り子供のままだった彼も、この空間の中でゆるやかに年を取り、大人へと成長していく。そうして消えるまでを包み込むのがこの真界の役目だ。だがこの世界は、内側から封印する者がいなくては成立しない。嫌だと訴える良守を、息子を送り出して、ひとり残ったのは母親であり墨村の結界師、他とは次元が違うとまで言われた術者である守美子だった。否、もうひとり。
「・・・ああ、本当に空間抜けが上手くなったのねぇ、ちゃん」
黒く長い髪を揺らして守美子が振り向いた先、そこにいたのはこの和製の空間には似合わない、スキニーパンツに身を包んだ存在だった。墨村と対を成す存在である、雪村家の長女。方印が出なかったのをこれ幸いに、高校卒業と同時に家を出て行った彼女がどうしてここにいるのか。それが分からない守美子ではない。にこ、とが綺麗に彩られた唇で笑う。
「お久し振りです、守美子さん」
「久し振り。だけどごめんなさいね、早くここを出て行ってくれる? すぐにでもこの世界を閉じたいから」
「それなら私に任せてくださって結構ですよ。守美子さんこそ早く出て行って、良を安心させてあげてください」
は紛れもない間流結界師だ。それこそ方印が出なかったのが不思議なくらい、見事にバランスの取れた力を有している。時音が聞けばショックを受けるかもしれないが、守美子はこそが正当後継者に相応しいと考えていた。それほどの術者であり、そして彼女の精神は安定しているのだ。
足元には大きなトランクが三つ並んでおり、段ボールもいくつか置かれている。本当にすべての準備を終えて来たのだろう。おそらく今まで住んでいたマンションも解約し、仕事も引き継ぎを済ませて辞め、周囲にも偽りの事情を告げてきたに違いない。その行動に決意の色が見える。守美子の脳裏を横切ったのは、かつて共に烏森を守った時音の父親の顔だった。その妻、そして先代の正当後継者である時子。墨村と雪村は決して好意的な関係にあるわけじゃないけれど、守美子には彼らを憎むほどの感情もない。だからこうして口にするのは、隣人に対する義理なのだろう。
「時音ちゃんが泣くわよ?」
それでもにこりと笑うのだから、守美子はこそが正当後継者だと思うのだ。
「大丈夫です。おばあちゃんにもお母さんにもきちんと話は済ませてきました」
「でもね、私も正守に恨まれたくないのよぉ」
「あははー、それこそ大丈夫ですよ。あいつはきちんと理解します」
アイライナーで縁どられ、マスカラで綺麗に飾られた睫毛を瞬かせ、そっと細められた瞳に剣呑な色が宿る。
「―――使命を与えられて喜んだのは、正守だけじゃなかったってことですよ」
自分でも意外だったんですけど、とチークで染められた頬を掻く仕草は彼女を少しだけ幼く見せた。
「烏森なんて本当にどうでも良かったし、結界術にも未練はなかったから、外国で御曹司でも捕まえてリッチに人生を謳歌しようと思ってたんですけどねー。でも、おばあちゃんに今までの経緯と今回の決着の仕方を聞いたら、何か納得しちゃったんですよ。自分でも不思議なくらい、簡単に」
ああ、真界を閉じるのは私の役目なんだな、って。
だから大丈夫です、と言ってのけるの様子を、守美子は冷静に観察する。そもそもの素質が高かった自分とは違い、烏森に愛されることで希代の術者となった良守の作った真界は巨大だ。それを封印するのは並大抵の術者では出来ない。だからこそ今回自分が残ったわけだが、目の前の彼女にその代役が務まるだろうか。そう考えて、ふと守美子は視線をから外す。多くのあやかしやあやかし混じりに胴上げをされたり高い高いをされたりと構われていた小さな影が、こちらに気づいたようでその行動を止めたのだ。離れていても目が丸くなったのが分かるのは、纏っている気配が驚きに変わったからだろう。近くの者におろしてもらい、子供の短い手足で必死に駆け寄ってくる。途中、長い着物の裾を踏んで転びかけたのには思わず笑ってしまった。そうして子供は、宙心丸は、手を伸ばしたのだ。守美子ではなく、に向かって。
「お、おまえっ! おまえ、雪村だろう!?」
「・・・初対面の相手を呼び捨てにするなんて、教育がなってないんじゃないの。烏森」
「わしは烏森ではない、宙心丸だ! それに初めてではないぞ! わしはずっとおまえを見てたのだからな!」
小さな手での長いカーディガンの裾をぎゅっと握りしめ、丸い頬を高揚に染めながら訴える宙心丸は何とも可愛らしい。ふふ、と守美子は笑みを漏らした。そうしてが自分が、と言い出したその確かな裏打ちに納得する。なるほど、彼女は確かにこの真界を内側から封印することが出来るだろう。本来の彼女の能力からしてみれば無理に近いが、ここには宙心丸がいる。彼はに力を貸すに違いない。自分が想いを寄せていた相手がずっと傍にいてくれるというのだから、力を貸さないわけがない。
「いいのね、ちゃん?」
最後に確認の意味で問いかければ、宙心丸を足に纏わりつかせながらも視線を返され、はい、と頷かれた。
「大丈夫です。ここには藍緋も限も一緒に来てくれたから、寂しくないし」
「そう」
「時間の流れも遅いみたいですし、永遠の美貌を堪能しながら宙心丸を私好みの男に育てることにします」
「正守の式神、置いていく?」
「・・・いいです。本物じゃないと意味がないから」
へらりと眉を下げたは、ここに来てようやく僅かに表情を崩した。そこにあるのが寂しさだったり愛しさだったり、それでも諦めだったりしたから、守美子も多くは追及しない。彼女自身も一度は自らの意思で、夫も家族も置いて残ろうとした身だ。大丈夫、と更には続ける。
「道なんて、とっくの昔に分かれてたんですよ。あいつが中学を卒業して、逃げられるのにそっちの世界に足を踏み込んだときから。分かっててちょっと遊んでたんです。お互いに結末は違うって知ってたのに、昔から、決められたことには逆らいたくなる長兄長姉で」
馬鹿ですよね、と笑い、は両腕で宙心丸を抱き上げる。わぁ、と上がったのは先ほどあやかしたちと戯れていたときのような歓声ではなく、僅かな照れと羞恥を含んだものだった。唇を尖らせ、眉を顰める姿は子供ではなく一端の男で、暗に惚れた女に抱き上げられるなんて、と表情不貞腐れている。そんな宙心丸に向かっては笑いかける。
「ねえ、宙心丸。あんた、私のことが好きなんでしょ?」
「なっ!? ・・・そうだぞ、わしはずっとおまえを見ていたのだ!」
「じゃあこれからずっと一緒にいてあげる。あんたの傍にいてあげるわ」
「本当か!?」
「本当よ」
ぱぁっと宙心丸が頬を薔薇色に染める。そうして子供は無邪気に両手を挙げて喜び、世界を閉じる呪文を唱える。
「ならば、おまえは今日からわしの妻だ! 絶対にどこにも行くでないぞ!」
「・・・オーケイ、お殿様」
宙心丸が命じるのと、が了承するのと、空間がぐにゃりと歪むのと、どれが早かったのか。すぐさま完結し始めた世界の出口を目指して守美子は駆け出す。ちらりと振り向けば、宙心丸に抱きつかれながらもこちらを見送っていると目が合った。静かにそっと目を細めて、ルージュを引いた唇を僅かに動かす。さようなら。音として聞こえなかったそれが、彼女の最後の言葉となった。
間一髪で異界を抜け出した守美子の身体を、爽やかな風と緑の匂いが包み込む。烏森は新たな寝床を定め、その身を深くへと落ち着けた。もはや世界は隔離され、断絶されたのだ。掌をかざして確認した封印は、内側から強固に完全に張り巡らされている。
「・・・元気で」
届かないと分かっていても、ありがとう、と告げて守美子は踵を返す。何故だか今は、夫や息子たちに会いたくて仕方が無かった。烏森が今、永遠の眠りにつく。ひとりの少女を、その傍らに抱き寄せて。
原作完結記念にお送りしました。まぁ、何というか、あれだ。ちっちゃい男の子&美人なお姉さんの夫婦にやられたり、有事には若返ったりする老婦人に尽くして恍惚となったりする青年が非常に好みだったわけですわ、はい。結界師はいろんな意味で好みのキャラが多かったです。
2011年8月21日