愛しているからさようなら





「総帥」
無視をする。いいんですか、と視線で問うてくるマルコにも、視線を流さないことで答えてやる。そうすればオルフェウスの選手たちは納得し、と同じスピードで足を止めずに歩み続ける。
「総帥っ」
己を乱すな、冷静であれ、付け入る隙を見せるな、常に三歩先の光景を予測しろ。そうやって言い聞かせてきたのに、未だ実行できていないのは雷門の空気に馴染んでしまったからか、それとも相手がだからか。
「・・・総帥」
最後まで追うことが出来ない子供だと知っている。賢い分、途中で諦めてしまう子供だと知っている。伸ばした手が触れることなく、だらりと力なくぶら下がって悔しさに拳を握る子供だと知っている。何故なら、自分がそう育てた。
「・・・」
そうして最後には立ち尽くし、俯いて絶望するのだ。そういう子供にが育てた。鬼道有人という少年を。
ぴたり、足を止める。溜息を吐き出したくなるのは、かつてから考えればどうしようもない甘さだと自覚している。それがルシェやオルフェウスの面々と関わったことによる変化だとするのなら、いい加減にして、と自身思わなくもない。彼女の抱く影山という女は、こんなに優しい人間じゃなかったはずなのに。
「先に行ってなさい」
「待ってたら駄目ですか?」
「覗きは趣味が悪いわよ。・・・ちゃんと行くから、バスで待ってなさい」
必ずですよ、俺たち、ずっと待ってますからね。フィディオの念押しにが頷きを返せば、副キャプテンである彼は他のチームメイトを促して彼女を追い越して歩き出す。アンジェロが眉を下げてを見上げ、それでもジャンルカの後を追っていった。皆が気にしている様子だったけれども、彼らがいなくなれば廊下に残されるのはたったふたりだ。と、そして。
ヒールの音をわざとらしく鳴らして、振り向いた。これから振り向くという合図を送ってやった。けれども少し離れた場所で、やはり立ち尽くしている鬼道は俯いたまま顔を上げない。赤いマントに包まれた肩が僅かに震えているかのように見える。離れて、少し時は経った。成長期の真ん中にいるだろう目の前の子供は、少しくらい逞しくなっていても可笑しくないはずなのに、どうも変化は見えない。それどころか途方に暮れている様子は、更に幼い頃を思い出させる。フィールドで、ふたり、サッカーの練習を繰り返した。
何を言えばいいのか分からない。何を言ってやるつもりもない。何も言うことなど出来ないのだとには分かっている。鬼道はすでに、彼自身の意思での手を離れたのだ。離れるようなことをやってきたのはだ。だからこそ口を開くのは、鬼道であるべきだった。
「・・・帝国には、もう・・・戻らないのですか・・・?」
ようやく紡がれた言葉は、もう懐かしいと感じてしまう学校名が含まれていた。どうしてそんな無駄なことを言うの、と思ってしまうのはが大人だからだろう。きっと鬼道が顔を上げる。
「帝国にはもう戻られないのですか?」
「戻らないわ。戻れるわけがないでしょう? 汚い手段を使ってチームを勝たせ続けた監督を、今更学園が雇うと思う?」
「ですがっ・・・! 今の総帥は立派な指導者です! 総帥が率いるオルフェウスの戦績を見ても、それは明らかで・・・!」
「黙りなさい、鬼道。同じことは二度言わないわ」
ぐっと唇を噛んで、鬼道が再び俯く。まだ見下ろせる位置にあるその頭を、は静かに見つめた。いつ、この子はあたしの手を離れたのかしら。そんなことを思い返す。だからか、次の言葉をやけに落ち着いて受け止めることが出来たのは。
「俺は・・・もう一度あなたと、サッカーがしたい」
都合の良いことを。そうは言わない。も分かっているからだ。自分が変わったことを、そして鬼道がずっと自分を純粋に慕い続けてきたことを。信じたいと、ずっと思ってきたことを。
「帝国で、総帥ともう一度、サッカーがしたいんです」
雷門が嫌な訳ではないに違いない。それでも鬼道のサッカーの原点は帝国にある。が作り上げた帝国の中で、鬼道はずっと育ってきた。今となっては申し訳ないと感じる。酷く醜い復讐に、この子を巻き込んでしまった。だからこそ冷たく突き放すのがせめてもの優しさだ。
「駄目よ。あたしは帝国には戻らない。それに鬼道、あんたも雷門を選んだんでしょ」
「っ・・・どうして! どうしてそんなことが言えるんです! 俺の中にはずっと総帥がいるのに!」
伸ばされた手はやはり届かなくて、それでも鬼道は地を蹴って駆けてきた。スーツのジャケットを掴んだ指を、は思わず目を瞠って見つめた。一体いつの間に、こうして縋りつくことが出来るようになったのだろう。雷門に行ったからだろうか。諦めることを知っていた子供なのに、いつの間にこうして、視線を逸らせず心を吐露できるようになったのか。何も知らない子供のように、我武者羅に、ただ強く。
「俺にサッカーを教えたのはあなたなのに! ドリブルももシュートも、トラップもゲームメイクする思考だって・・・俺に教えたのは総帥なのに! 俺のサッカーにはすべてあなたがいるんです! 今更、あなたなしのサッカーなんて有り得ないのに・・・! それなのに、どうしてっ!」
「鬼道」
二の腕を締め付けるような掌が痛い。眉を顰めてしまいそうになり、けれどは必死な形相の相手に堪えなくてはならなかった。鬼道のサッカーは、一からが教えた。すべてが与えたものだ。だけど。
「今いる道を選んだのは、あんた自身よ」
突き放す物言いに、が幼い頃に買い与えたゴーグルの向こう、緋色の瞳が悲愴に染まる。ここで自分から切り離してやることが、が鬼道に対して出来る最後の指導だろう。ごめんね、今、心から思う。
「っ・・・」
抱き締めたのは、長い時間を共にして来たのに初めてだった。頭を撫でてやったことは何度となくあったけれども、抱擁したことは一度もなかった。母親ではなく指導者なのだと、思わせることが必要だったから。触れてみて初めて分かる。この子は、こんなにも小さくて、そして細い、ただの少年だったのだ。
「あんたのサッカーの中に、あたしがいる。それはきっと一生変わらないわ。だからこそあたしは、あんたに恥じない指導者になりたい」
「総、帥」
「傍にいなくったって、一生一緒よ。それって結構凄いことじゃない?」
腕の中にある、少し低い位置にある頭に頬を寄せる。そう遠くない未来、この子の身長がを追い越した頃、鬼道はサッカーから離れるだろう。責任感のある子供だ。鬼道グループの跡を継ぐために勉強することは養子の義務だと思っているだろうし、そうしたいと彼自身もまた感じているだろう。だからきっと、鬼道のサッカーは高校までだ。それまでの短い間、きっと共にフィールドに立つことは出来ない。これが時の流れだ。ふたりが袂を分かち、鬼道が雷門を選び、がオルフェウスによって変わったように、すべては必然だったとしか言いようがない。だとしたらきっと、ふたりが共に過ごした幼い日々とて、互いに必要な時だったのだ。
「ずっと、あんたを見てるわ。可愛い教え子、あたしの鬼道」
「・・・あなたは、酷い・・・っ」
「そうね。あんたはこういう大人になっちゃ駄目よ。あたしが胸を張って自慢できるような、いい男になりなさい」
拘束を緩めて、少し身体を離して、見上げてくる顔からそっとゴーグルを外してやる。露わになった眼は深い紅で、そこに理解の色を見ることが出来たからは自然と微笑んだ。ゆっくりと、その額に唇を寄せた。鬼道が目を閉じたのが気配で分かった。ごめんね。愛してるわ。強く、逞しくなりなさい。あたしが育てた、あたしの子。
額に二度、口付けをして、はそっと離れた。鬼道の瞳の端に滲んだ涙を指先で拭い、笑ってやる。幸せになりなさい、そう優しく囁いて。





親離れ子離れ。
2011年9月16日