ワンダーワールド・ワンダーデイズ(2)
もしも朝練があったなら、宍戸がまだ見ぬに向かって土下座しただろうハイテンションで、忍足は自身の教室を飛び出した。もちろん一度置いたテニスバッグからはサイン色紙を取り出し、後生大事に胸に抱えている。極太の油性マジックだって用意済みだ。本音を言えばバイブルとしている「そこにいるひと」に直接サインをしてもらいたいのだが、テニス部部室に置いてある本は図書室の蔵書なので叶わない。今現在、忍足は地道にリサーチを重ね、「そこにいるひと」の限定三十冊を所持している生徒の割り出しに勤しんでいた。ちなみに半数はの属する文芸部部員が所有しており、彼らは頑なに忍足への譲渡を拒んだ。曰く「先輩の本を手放すなんて、そんなこと日本中の印刷機が壊れたってしないに決まってます!」らしい。どうやら彼女の文才は同じ部員たちからも尊敬の対象とされているようで、断られて悔しい思いをしながらも、心のどこかで忍足は「そうやろ、そうやろ! 俺かて持ってたら何万円積まれたって譲らへんわ!」と深く頷いていた。残りの十五冊は未だ所有者全員が判明しているわけでなく、日々聞き込みの最中だ。その活動の中で大きな役割を果たしてくれているのはダブルスパートナーの向日であり、学校中に知り合いのいる彼はメールの一括送信機能を利用して調査を行ってくれている。そのおかげもあり、ちらほらと当たりもつき始めていた。ちなみに十五冊のうち三分の一は教師が手にしているというのだから、のファンは年齢層を実に問わない。
「侑士、お待たせ!」
「遅いで、岳人! 何や、その包み」
「あぁ、これ? 昨日姉ちゃんがクッキー作ってたから、ちょっと貰ってきた。が甘いもん好きならいいけど」
「差し入れか!? 差し入れなんか! 抜け駆けやで、自分!」
「ひとりで会いに行こうとした侑士に言われたくねぇし! つーかB組だろ? ホームルーム始まる前に早く行こうぜ!」
現在地は、向日の在籍するD組の前。忍足は四つ離れたH組からはるばるやってきて、更にB組まで行かなくてはならないのだ。確かに時間が惜しい。次はクーデ・デ・ロワのラスク持ってきたる、と意気込みを漏らし、ふたりは教室を遡っていく。テニス部レギュラーに向けられる視線は多く、特に女子からは一歩踏み出す度に「おはよー!」と黄色い声が飛んできた。
「なぁなぁ、B組って誰がいたっけ? 跡部はA組だろ? 宍戸とジローはC組だし」
「滝がB組やったんやないか? 羨ましすぎるわ、あいつ。準レギュラーから落としたろか」
「ひとの教室の前で性質の悪い話をしないでもらえるかな? 俺だって正レギュラーの座を諦めたわけじゃないんだけど」
「滝!」
「おはよう、向日。それと忍足」
気づけばC組とB組の境まで来ていたのか、後ろから割り込んできた声に振り向けば、綺麗に髪を切り揃えたテニス部の仲間、滝萩之介の姿がある。制服を綺麗に着こなし、忍足と向日の身長差のちょうど真ん中に位置するような体躯は細身ながらもどこか優雅で、正レギュラーから脱落してなお女子の人気が衰えない異例の存在だ。特に髪の艶やかさにかけては長髪時の宍戸に勝るものがあるらしく、時に跡部が憎々しい目で滝の肩を流れる毛先を睨みつけているのを向日は知っている。そんな滝は登校してきたところなのかラケットバッグを背負っており、忍足の名を付け足すように呼んだのは、間違いなく先の発言に対する意趣返しに違いない。しかし忍足はそんなもの歯牙にもかけず、ずいっと顔を近づけた。
「ちょうどええとこに来てくれたわ。滝、自分B組やんな?」
「生憎、忍足と同じH組になった記憶はないね」
「せやったら、クラスメイトにおるやろ? 文芸部のや」
「さん?」
忍足が女生徒を話題にしたのが意外だったのか、それともの名前を出したのが意外だったのか、おそらく両方だろう滝は目を瞬いて繰り返す。せやせや、と忍足が頷く横では向日もこくこくと首を縦に振っており、滝は不思議がりながらも肯定の答えを返した。
「いるけど、知り合い?」
「な、わけねぇし! なぁ、ってもう来てる? どいつ?」
「ちょっと待って。見てみるから」
ドアを塞ぐようにして立っているふたりの間を抜けて、滝は己の教室内を見回す。ひとつの席を見て、次にもうひとつの席を見て、そしてぐるりと視線を一周させた後に、近くにいた女生徒たちに話しかける。
「ねぇ、おはよう。さんと花園さんってもう来てる?」
「あ、滝君おはよー。さんたち? まだ来てないっぽいけど」
「あたし昇降口で会ったよ。部室棟の方に歩いていったから、部室に寄ってから来るんじゃない?」
「そう。ありがとう」
にこ、と朝に相応しい爽やかな笑顔を礼として、滝は再び廊下に戻ってくる。この卒のなさは相変わらずだよなぁ、と彼と幼稚舎からの付き合いである向日はクッキーの入った紙袋を揺らしながら感心した。実を言うと跡部と忍足がいなかった幼稚舎時代、女生徒に一番人気が高かったのは滝なのである。フェミニストを自称している彼は跡部ほど強引じゃないし、鳳ほど押しに弱くもなく、そして意外にも忍足に対抗できる精神を持っているのだ。
「まだ来てないって。部室に寄ってくるなら遅くなるかもね」
「・・・・・・そうか。せやったら、また明日出直しやなぁ・・・」
「というか知り合いでもないのに、何でまたさん? ふたりが女子に会いに来るなんて明日は雨が降るんじゃない? いつも『女子はうるさくて嫌だ』って言ってるのに」
「は別や! なんたって『そこにいるひと』の作者なんやで!? 別格に決まっとるやろ!」
どうやらが文芸部だということは知っていても、作品を読んだことはないらしい滝に対して、忍足の「如何に『そこにいるひと』が素晴らしい作品なのか」という説明がとうとうと始まってしまった。しかし個人的には一年の一学期に発刊されたファンタジーを最も好みと感じている向日は、その説明を右から左へ受け流しながらも唐突に気づいてしまった。興味が募って会いに来てしまったが、確かに滝の言う通り、自分たちとは知り合いでも何でもないのだ。というか、向日はなる人物が一体どんな少女なのか全く知らない。もしかしたら茶髪なのかもしれないし、スカートも短くて化粧もばっちりしていて、跡部と擦れ違えば「きゃあっ跡部様、素敵ー!」と叫ぶような女生徒なのかもしれない。もしくはその逆に、黒く長い髪は三つ編みにしていて、スカートは規定よりも長く便底眼鏡をかけており、ぼそぼそと喋る根暗な女生徒なのかもしれない。気に入りの作家を見てみたい、というミーハーな気持ちに捕らわれて、一切の可能性を見失っていた。今更ながらにそのことに気がついた向日はさぁっと顔色を変えて、忍足を押しのけて滝に迫った。
「な、なぁ! ってどんな奴!? 俺ら見てきゃーきゃー騒ぐ系!?」
切羽詰った物言いに、やはり忍足を流していたらしい滝が目を瞬く。隣で忍足が「何や岳人、邪魔すんなや!」などと言っていたが、そんなことよりもがどんな人物かが重要で、ごくりと向日は唾を飲み込む。滝が口を開く。
「そうだね・・・特定の誰かに対して騒いでるのは見たことないかな。話の流れでテニス部の話題が出れば、誰それが格好いいとかは言うみたいだけど、さん本人は普通の子だよ。俺も挨拶をしたりするけど、特別騒がれたことも近寄ってこられたこともないし」
「外見は!? ギャル系!? 根暗系!?」
「中間じゃない? 髪の毛は染めてないし、化粧はしてるのかもしれないけど目立つほどじゃないし。こう言ったら失礼かもしれないけど、良い意味で平均的だよ」
「マジで!? いきなり俺が話しかけても引かない?」
「それは知らない」
最後の最後でぐさっと一刀両断されたが、述べられた像に向日はほっと胸を撫で下ろした。ミーハーでも根暗でもないのなら、自己主張の激しい生徒の多い氷帝では珍しい穏健派なのかもしれない。そうなのだ。作品が素晴らしくてすっかり忘れていたが、は氷帝の生徒なのだ。向日や忍足や滝と同じ、まだ15歳の女の子。一体どんな人物なのだろう。きっと「そこにいるひと」のヒロインのように優秀で思いやりがあり、「怪談学園」のヒロインのように美人で勝気で、「金曜五時の美食家」のヒロインのように少しおっとりしていると勝手に理想を思い描いていたことが恥ずかしくなって、向日は握り締めていた紙袋を滝の胸に押し付けた。ちょうど良いタイミングで予鈴が鳴る。ざわざわと廊下もいい加減に騒がしくなってきている。
「滝、それやるよ! 侑士、帰るぞ!」
「よく分からないけど貰っておく。ありがとう」
「あーあぁ、には会えへんかったなぁ。しゃあない、またチャレンジや」
「というか普通、知り合いじゃない人に突然会いに来られても迷惑だと思うよ」
滝の言葉にまったくだと心中で激しく同意しながら、向日は忍足の腕を掴んで廊下を逆走し始める。走るには生徒が多すぎて無理だったけれども、隙間をぬって足は自然と早くなる。ちょい待ち岳人、と後ろで忍足が言っていたけれども、向日は自分の迂闊さを呪うので精一杯だった。なので、曲がり角で誰かとぶつかりそうになったのは当然といえば当然のことだ。間一髪で衝突を避けた相手は女生徒で、黒い髪がさらさらと揺れている。決して美人ではないけれども、黒目がちの二重の瞳と視線が重なり、そこに驚きはあれど不愉快な色は見られなくて向日は反射的に安堵した。
「わりぃ、平気か?」
「うん。私こそごめんなさい。急いでたから」
「ホームルーム始まるもんな。ほんとわりぃ!」
バランスを崩した女生徒は、どうやら友達らしい眼鏡の女の子に支えられていた。怪我はないらしく、すぐに立ち上がってお互いに擦れ違う。自分の教室を前にして向日は、そういや今の奴、俺を見て喜ばなかったなぁ、と第三者が聞けば自意識過剰と言うだろうことを考えていた。氷帝の女子は程度の差こそあれテニス部のファンがほとんどなので、熱いまなざしを注がれることには慣れているのだが、あの女生徒からは感じられなかった。けれど印象は悪くない。
「今の奴がならいいのに」
「何ぶつぶつ言っとんのや。また明日出直すで」
「んー・・・分かった」
D組を通り越してH組に戻っていく忍足の背中を半ば適当に見送りつつも、向日にはすでにを見物しに行く気はなくなっていた。しかし忍足はきっと諦めたりしないだろう。跡部に釘をさしてもらおう、と考えて教室のドアをくぐれば、ちょうど本鈴のチャイムが鳴って教師が入ってくる。クッキーは惜しかったけれども、まぁいいや、と向日は楽天的に席に着いた。噂だけで見に来られる体験は、テニス部正レギュラーとして嫌になるほど体験している。だとしたら、と普通に友達になるにはどうすりゃいいんだろう。そんなこと考えながら、向日はその日一日を過ごしたのである。
がっくん、ニアミス。滝とヒロインと聖子さんは、機会があれば世間話くらいはする仲。
2010年5月9日