金曜五時の美食家(2)





「じゃーん!」
どん、とジローがテーブルの上に袋を叩きつける。思えば、その日は朝からおかしなことばかりだったのだ。月に二回出席すればいい方の朝練に、ジローが参加していた。しかも遅刻もせずに、眠りもせずに、ハイテンションでラケットを握り、ストレッチからランニング、サーブ練習まできっちりとこなしてみせた。眠気なんてどこですか、といった様子で溌剌と部活に勤しむジローの姿に、今日は雨が降るんじゃ、と空を見上げたのは鳳で、雪の間違いだろ、と置き傘の有無を確認したのは日吉だ。余談だが、今日は快晴であり降水確率はゼロパーセント。そして件の二年生ふたりは昼休みの今、部室には集合していない。鳳が担任から用事を言いつけられ、一緒に来てくれと泣きつかれた日吉がそれに付き合っているのだ。ちなみに場所は家庭科準備室で、日吉がついていったのはそこが「怪談学園」のワンシーンで用いられていたからに過ぎない。
「何や、ジロー。藪から棒に」
「へっへー! 見たい? 見たい?」
「何だよ、もったいぶって」
忍足や向日の言葉にも、ジローはにこにこと満面の笑みでビニール袋を抱え込んでいる。中身が何かは知らないが、白い小分けの紙袋がいくつか押さえ込まれているのが見えて、あれは食べ物じゃないのか、と宍戸はぼんやりと考える。抱き潰して変形しなければいいが、その心配はどうやらないらしく、ジローはがさごそとビニールを漁って紙袋をひとつ取り出した。
「俺さぁ、頑張って探したんだけど、全然見つからなくて神奈川まで行っちゃったしー」
まぁそのおかげで丸井君に会えたんだけど、と続けられて、眉を顰めたのは跡部だ。今日はお抱えのシェフが作ったらしい懐石御膳を昼食としている。きらり、ぶりの照り焼きが輝いた。流石は箸使いまで完璧だ。
「アーン? てめぇ、昨日校内のどこにもいねぇと思ってたら、そんなとこに行ってやがったのか。少しは真面目に部活に出やがれ」
「だから今日の朝練出たじゃん。説教ばっかするなら、跡部にはこれあげないしー」
「何だと?」
「最近全然見かけなくて、俺マジ頑張ったし!」
ばりっと開けるどころか紙袋を破いて、ジローは中身を取り出した。それは昨日彼が立海の丸井にプレゼントしたものと同じであり、すなわち仁王イリュージョン劇場「ぼくの顔をお食べよ!」なキャラクターで、立海三年B組の朝のホームルームを壊滅させた原因でもあるわけで。この場にいる仲間たちに向かって、ジローは印籠のように突き出した。
「じゃっじゃーん! アンパンニャンのパン!」
茶色のパンに、跡部の、忍足の、向日の、宍戸の、樺地の視線が集まる。人気キャラクターを模したパンは、それこそ彼らが小学生の頃から近所のパン屋で売られていた。アンパンニャンに始まり、ドラドラや、最近ではぴかちゅーなども見られるようになってきている。しかしその一方で、専門的なパン屋はスーパーやデパートなどの進出に押されて店を閉じ始めているのも現実だった。まだ小学校にも上がっていない頃、ジローが母親に強請って買ってもらったアンパンニャンのパン。そのパン屋もなくなってしまっていて、知っている店を回ったけれども中々見つからず、ジローは駅を降りてはパン屋を探すを繰り返し、そしてようやく神奈川のとある駅前の小さな店で、目的のパンをゲットすることが出来たのである。そう、ジローが求めていたのは、「アンパンニャンを模したパン」だった。理由は幼き日の懐古ではない。がたん、と音を立てて向日が立ち上がる。椅子は引っくり返って絨毯に転がっていた。
「ジ、ジロー、おまえっ・・・! 『金曜五時の美食家』を読んだだろ・・・!?」
「うん! あれ、すっげー面白かった!」
「どこがだよ! あ、ああああれ、めちゃくちゃ、エ、エロ本だったじゃねーか!」
「えー? 別に普通の話だったしー?」
ねぇ、とジローは宍戸に顔を向けるが、視線が合う前に反らされた。次いで忍足に向かって首を傾げれば、返されるのは失笑だ。跡部は黙って菜の花の辛し和えを咀嚼している。樺地とは目が合ったが、ジローが笑ってもつぶらな瞳は変わらない。ただ向日だけは顔を真っ赤に染め上げて、勢い余って握り締めた焼きそばパンの具をテーブルの上に落っことしている。丸井君なら三秒ルールで食べそう、と思ったジローは存外に酷く、そして的確に憧れのプレイヤーの性質を把握していた。
「俺、『金曜五時の』・・・? 五時、の?」
「美食家(グルマンド)、やろ?」
「そう、『金曜五時の美食家』! あれ読んでからずっと食べたかったんだしー! みんなの分も買ってきたからあげる!」
はい、はい、とジローはビニールから取り出した小さな紙袋を配っていく。宍戸の腕にぐりぐりと押し付け、向日は突っ立ったままだったのでテーブルを滑らせて寄越し、忍足にはちゃんと手渡し、跡部は重箱の横に、樺地はまたしてもちゃんと手渡し。ちなみに礼を言ったのは忍足と樺地だけで、宍戸は複雑そうな顔をし、跡部は胡散臭いものを見るような目で紙袋を眺めた。椅子に座って、ジローは嬉々としてアンパンニャンパンを両手で抱える。
「えーっと、まずはー・・・『ぼくのかおをおたべよ!』だっけ?」
「始めやがった! こいつ、『金曜五時の美食家』ごっこを始めやがった!」
「落ち着ぃ、岳人。これはパンや。ただのパンで、間違っても喋らへん」
「立海の仁王がいたらイリュージョンしてもらうのにー」
「しねぇだろ。したら激ダサだぞ、あいつ」
同日早朝の神奈川の真実など知らずに、宍戸は呆れながら飲んでいたスポーツドリンクを置いて紙袋を開く。そこにはやはり、ジローの手の中にあるのと同じ、日本で最も有名なパンのキャラクターの顔があった。目玉はチョコレート。頬と唇のラインも同じくチョコで、鼻はどんな着色料を用いたのか真っ赤に染まったチェリーだ。美味しそうな気もするが、この手のパンは造形を楽しむものであって、味は二の次でよい。そして今現在、問題は別にあった。そう、ジローがパンを買いに走り、向日が顔を真っ赤にしている原因―――「金曜五時の美食家」である。
「金曜五時の美食家」は、ここ最近話題に上らない日はなくなってきている氷帝学園中等部文芸部部員、の既刊本の一冊である。割と薄めなそれは彼女が一年生の二学期のときに発刊した本であり、そしてまた異色と言われても仕方のない話でもあった。簡単にあらすじを述べるのなら、「少女がパンを食べる話」である。ただ単にそれだけなのだが、それだけでは済まさないところがまた件の著者、だった。
「まず、アンパンニャンが千切って自分の顔をちょこっとくれてー」
確認するように言いながら、パンの右頬を少しだけ千切って口元へ運ぶジローは、手順をそらで言えるくらいに「金曜五時の美食家」を読み込んだのだろう。正直宍戸は、ジローがそこまでこの本にのめりこむとは意外だった。ジローは本を読み始めても途中で眠気が勝ってしまい、最後まで読みきることなど決して出来ない性質だと知っていたからだ。漫画でさえ、ジローは余り読まない。その彼をここまで虜にさせるとは、恐るべし、と宍戸は感心した。
「で、次は目を舐めて食べちゃう」
「わーわーわーわーわーわーっ!」
「れろー・・・って、何かうまくいかないしー」
ついに向日が雄たけびを上げて、両耳を塞いで床の上に丸くなった。所謂体育座りに近い形で、周囲の一切を遮断しにかかっている。対してジローは、手の中のアンパンニャンパンのチョコレートの瞳に、ピンク色の舌を伸ばして這わせる。現実として目の当たりにしてみると意外と許容できるな、と宍戸は漠然と思った。もちろんそれはジローが男で、対象のパンが顔だけしかなく喋ったり動いたりなどしないからなのだろうが。しかし例の「金曜五時の美食家」は、文字だけを追っていると、向日の言葉ではないが「エロ本」と言われても仕方のないような話なのだ。
金曜の午後五時、学校から帰宅した高校一年生の少女が、テレビをつけて制服のままリビングで寛いでいる。キッチンからは母親が「夕飯の支度を手伝いなさい」と声をかけてきて、少女は小腹を治めるために咥えていたドーナツを咀嚼しながら、はぁい、と気のない返事をする。適当にチャンネルを回せば聞こえてきたのは懐かしいアニメのオープニング曲で、変わらないヒーローや少し抜けている悪役などを感慨深く見ながら、食欲が満足を迎えた彼女は徐々に眠たくなり始め、ついにはソファーの上で丸くなって寝てしまうのだ。
「よし! 目はなくなったしー。次はえっと、舌だ。でもこのパン、口が開いてないから舌もないしー」
「パンとベロチューして何が楽しいんだよ! くそくそジローめ!」
「・・・岳人。自分、耳塞いどるくせによう聞いとるなぁ」
感心している忍足は、何気にジローのアナウンスに従ってパンを千切って一口食べ、目のチョコレートを舌で舐めとっている。ジローなら子供の悪戯で済んだ光景が、忍足がやると卑猥に変わるのだから不思議だと宍戸は心の底から思う。これは間違いなく個人の差だ。ちなみに跡部は、不自然に赤く染まったチェリーを眉間に深く皺を刻んで見下ろしている。
少女が目覚めたとき、彼女は森の中にいた。どこだろうと思って立ち上がると、途端に腹が空腹を訴えてきゅるきゅると鳴る。食べたはずのドーナツはすでに消化してしまったらしく、とりあえずどこかに行きたいけれども、周囲は木々ばかりで前後左右どちらに向かえばよいのか分からない。途方に暮れていると、夕焼けの空からひとつの影が飛んできた。目の前に降り立った存在を見て、少女は納得するのだ。あぁ、これは夢なのだと。
「じゃあ口は諦めて、鼻だ。うわぁ、甘い。砂糖みたい!」
「不自然な味やなぁ。跡部、化学調味料が嫌なんやったら食べんの止めとき」
「はっ! 俺様に食えないもんはねぇぜ。樺地」
「ウス」
差し出されたウェットティッシュで手を拭ってから、跡部もアンパンニャンパンに手を伸ばす。パンを千切る所作さえ優雅だから、何か阿呆みたいで激ダサだぜ、と宍戸は部室内の見回して思った。跡部はさすがに目を舐め取るようなことはせず、端から少しずつ千切っては口元に運んでいく。おかしな味だな、と呟いたのは間違いなく、保存料など一切含まれていないシェフお手製のパンを毎日食べているからに違いなかった。
少女が現状を夢だと判断したのは、彼女の前に現れた存在が、寝る直前に見ていたアニメのヒーローだったからだ。パンで出来た顔を持ち、町とみんなの生活を守ってくれる。仲間がたくさんいるくせに、友達は愛と勇気だけなんて気遣いの欠片もないことを歌うヒーローは、少女が腹を空かしていることに気づくと柔らかく笑い、そして言ったのだ。僕の顔をお食べよ、と。聞きようによっては恐ろしい台詞を吐き出し、ヒーローは自ら己の頭部の一部を、不思議なくらい当然のように切り離して差し出した。少女はそれを受け取って食べた。アンパンは実に美味しく、彼女の胃袋を満たしてくれた。
「後はー端から順にむしゃむしゃ、だっけ?」
「ちゃうやろ。餡子だけ先に舌で吸い出すんや」
「んー・・・難しいしー」
パンの欠片を食べきってしまい、ヒーローを見上げた少女は今更ながらに中身が脳みそではなく餡子だったことに驚く。そして曝されているヒーローの頭部の中身、それも餡子に違いないと知って、もたげたのは純粋な疑問だった。濡れると弱るのは知っているけれど、このひとは、否、パンは、一体どこまでがパンで作られており、どこまで食べられたら動けなくなってしまうのだろう。ふと浮かんだ考えは、少女にとって命題のように認識されてしまった。手を伸ばす。存外背の高い、同じ目線のヒーローが首を傾げる。その瞳に指先を突っ込み、少女はぐるりと第一関節を回した。ヒーローは小さな悲鳴を挙げたけれども、アンパンから血が流れるわけもない。引き抜いた爪にこびりついていたのはやはり餡子で、少女は己の指先を舌で舐め、そしてしゃぶった。甘い。今度は身を乗り出して、ヒーローの両肩を手のひらで抑えて、穴の開いた目に直接舌を這わせた。ぺろぺろと犬のように音だけは可愛らしく嬲れば、息が荒くなっていったのは果たしてどちらか。
―――そんな感じで、少女による陵辱が行われるのが「金曜五時の美食家」という話だ。夢だと分かっているからこそ、喋る舌を自身の舌で捕まえて、絡め、噛み、その内もやはり餡子で出来ているのかなど、少女は遠慮も羞恥も覚えることなく確かめていく。顔を食べつくした後は自然と興味が身体に移り、森の中で服を剥ぐ。顔がないため声は出ないが、それでも腕は抵抗を示し、その手袋を脱がして指先を食み、咀嚼していく。吸い出すように頬に力を込めたり、逆に抉り出すように舌を突き刺したり、溶かすように優しく舐めたり、それでも余すところなく少女はアンパンを食べ続けていく。
ついに秘所まで暴いた少女に、宍戸は思わずページを閉じてしまった自分を思い出す。「金曜五時の美食家」は不快と純真の合間に存在し、酷く読み手を選ぶ話だ。向日の言うとおり官能小説と言って差し支えはなく、こんな話を中学一年で書くなんてありえねぇ、と宍戸は思ったし、こんな本を発刊する許可を出した文芸部も文芸部だと感じていた。好きか嫌いかは大きく分かれるだろうが、とにかく色んな意味で記憶に残る一冊、それが「金曜五時の美食家」である。
「あーうまかった! ごちそーさまでした!」
ぱんっと両手を合わせて、ジローはアンパンを食べきった。口元には餡子の欠片がくっついているが、それくらいはご愛嬌だろう。本当ならこの後、少女のように胴体だけになった身体のどこまでがパンで出来ているのか確かめたいのだろうが、ヒーローは本来ブラウン管の中にしか存在しない。机の下に潜り込んでいた向日が、ぐぐぐ、と何やら呻き声をあげながら顔を出した。
「変態だ、ジローは変態だ・・・!」
「何でー? 別にパンを食べただけだしー」
「『金曜五時の美食家』を再現するだけで変態だ・・・! だってあれ、どう考えたって他の本と違うじゃねーか。え、えろいし、何かマジ、変な気分になるっていうか」
「うん。俺もがあんな話書くって知らなかったから驚いたしー」
でもが書いたって思いながら読むと、もっともっと楽しかったしー! がアンパンニャン食べてるみたいで、向日じゃないけど、俺もちょっとやばかったしー!
からからと笑うジローは何気に際どい発言をしていたが、その内容に別の角度から引っかかったのは忍足だった。再現通りに皮だけとなったパンをちまちまと食べていた頬が一瞬止まり、ごくりと喉が咀嚼に動く。身を乗り出せばテーブルが僅かに動いて、対面にいた向日の額にぶつかった。いてっ、という悲鳴すら無視して、忍足はジローに詰め寄る。
「・・・・・・まさか、ジロー。自分、と知り合いなん?」
問いかけに、額を押さえて涙目になりながらも向日が振り向いた。宍戸も反射的にジローを見る。いつの間にかパンを食べ終えていたらしい跡部も顔を上げ、樺地もそれに習い、視線の集まる中でジローはきょとんと瞳を瞬かせた。
「知り合いじゃないけど、幼稚舎で同じクラスだったしー」
「マジで!? いつ!」
「三年から六年までだから、四年間? 俺は寝てばっかだったから話とかした記憶はないけど、でもちゃんと顔も分かるしー」
多分向こうも俺のこと分かるしー、とジローは胸を張る。同じく氷帝学園の幼稚舎で学んできた向日と宍戸は、確かに三年から六年にかけてジローとは別のクラスだったから、に覚えがないのも当然なのかもしれない。へぇ、持ち上がり組だったのか、と宍戸は新たな事実に思いを馳せた。ということは、やはり自分も顔くらいは知っているのかもしれない。そう考えても氷帝は女子だけで六百名を超える。無理だ、と宍戸は早々に匙を投げ出したが、忍足はどうやら違ったらしい。
「そうや・・・! 何で思いつかんかったんや、俺は! は氷帝の生徒やないか! 会いに行ける距離におるんや、『そこにいるひと』の作者が!」
「・・・そういや、前の電話でB組って言ってたな」
「そうと決まれば特攻や! いや、やっぱ明日や! サイン色紙買うてこなあかん!」
「え? 侑士、を観に行くのか? 俺も行く!」
「よっしゃ、明日の朝決行や! 待っててや、! 今行くで!」
何だか、何だか、話の方向性が非常に不味いんじゃないかと宍戸は思った。しかしバイブルと定めた本の著者に会えるのが嬉しいのか、忍足の頬は薔薇色に輝いている。きらきらと瞳を輝かせる様子に、何故だか部活のときにフェンスに群がっている女生徒の姿を重ねてしまって、宍戸は慌てて頭を振った。向日は釣られるように乗り気だ。ジローは「金曜五時の美食家」ごっこが出来て満足したのか、もうテーブルに突っ伏して睡眠を貪っている。
「・・・止めなくていいのかよ?」
「部活に支障が出なければ構わねぇだろ」
好きにしろ、と宍戸とは別の方向で匙を投げたのだろう。もしくは最初から匙なんて拾っていなかったのかもしれない跡部は、クールにそう言い切った。その隣、持って帰るつもりなのか、パンの入った紙袋を大きな手で優しく抱えながら、珍しく樺地が口を開いた。
「・・・・・・『金曜五時の美食家』は、良いお話です。興味を飽くなく追求する純粋な姿勢と、道楽者としての逸脱していく探究心が、とてもリアルに描かれています。良い、お話です」
まっとうな評価に、寝ているはずのジローが満面の笑顔になった。かばちゃん、わかってるぅ、なんて寝言まで呟いている。しかしそんな話を創り出すに、危機が迫っているような気がして宍戸は仕方がなかった。かといって注意を促すにしても顔すら分からないので手の打ちようがない。わりぃ。せめて宍戸は心中で謝った。もしも鳳までを見学しに行こうとしたら、そのときは必ず止めようと考えながら。





ちなみに「金曜五時の美食家」のは、少女が目覚めることによって終わります。起きた彼女がまだ帰宅していない兄に「アンパン買ってきて」とおねだりして、終了。
2010年5月1日