金曜五時の美食家(1)
徐々に生徒が増えていき、ホームルーム前の僅かな時間は一日の始まりに相応しく騒がしさを増していく。テニスバッグを担いで教室のドアをくぐった仁王雅治は、先に部室を出て行ったチームメイトが座席で何やら袋を開いているのを目撃した。どうせ食べ物だろうと察しはつく。仁王はさほど食欲を重視していないし、それこそ簡易栄養食品一箱で一日を乗り切ることが出来るけれども、丸井ブン太は違う。彼という人間を円グラフで現したとすると、その三分の一がしっかり「食欲」で塗りつぶされるような性質なのだ。特にそれは甘いもの、所謂スイーツの占める割合が多く、丸井は昼食時にもしっかりとデザートを食べるし、部活の始まる前や終わった後には必ずポッキーやチョコレートなどの糖分を摂っている。それはテニスの試合の最中でさえガムを噛んでいることからも明らかで、仁王は丸井を構成する八割は菓子じゃないかとさえ予測していた。だから太るんじゃ、などと失礼なことも考えながら、鞄を置いて近づく。
「何食べとるんじゃ」
前の席の生徒が来ていないのをいいことに、仁王は椅子を拝借する。がさがさとビニールを剥いでいた丸井は一瞬だけ顔を上げ、仁王を認識するとすぐにまた食べ物らしい袋へと視線を戻す。
「昨日、部活の帰りにジロくんに会ってさ」
「誰じゃ、その生き物は」
「氷帝のいつも寝てて、起きるとテンション高い奴。結構癖のあるボレーすんの」
「・・・あぁ、丸井のファンか」
仁王の脳裏にぼんやりとくるくるが浮かぶが、丸井のビニールを纏めて鞄に押し込める音がそれを霧散させていく。中身は更に白い無地の紙袋で、過剰包装じゃの、と仁王は眺めた。
「その『じろくん』がどうしたんじゃ」
「あー、ジロ君がパンをくれたんだよ。何か探してるパンがあって神奈川まで来てたみたいだせぃ?」
「暇人じゃのう」
「そっか? 俺も欲しいパンがあるなら東京くらい行くけど」
印象に違わず食に関してアクティブな発言をし、丸井はパンを取り出した。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
女子にも匹敵するだろう大きな目で、丸井はパンを見つめる。仁王もパンを見つめる。ラケットを握る節くれだった手のひらに、まるっと乗る割と大きめなサイズ。円形で、ぷくっとしており、つやつやとした茶色の表面は香ばしそうだ。ダイエットしているつもりは毛頭ないが、朝食をバナナとヨーグルトで済ませてきた仁王は微妙に己の空腹を自覚した。これは彼にとっては珍しいことで、それだけ目の前のパンが食欲をそそったとも言える。沈黙していた丸井が、仁王を見た。
「なぁ、イリュージョンやってくれよ。出来るだろぃ?」
「俺は物真似芸人じゃないナリ。そうじゃの、パン半分で手を打っちゃる」
「はぁ!? 一割だろ、普通!」
「四割」
「二割!」
「三割」
「二割!」
「三割」
「二割!」
「・・・・・・分かった、二割でよか」
食で張り合うほど、丸井相手に無駄なことはない。早々に諦め、仁王は「呆れてます」といった態度で肩を竦めた。声だけじゃ、と断れば、そりゃ声だけだろぃ、と丸井も分かってはいるらしい。仁王はパンを見下ろす。茶色で、ぷくっとしており、つぶらな瞳と鼻を模したチェリーが愛らしく、所謂それは、かの流行に疎い立海テニス部副部長、真田弦一郎でさえも知っていると思われるキャラクター。ひとつ咳払いをして、仁王は喉を鳴らして口を開いた。おそらく日本で最も有名な、パンの名台詞をを発するために。
「―――ぼくの顔をお食べよ!」
まるでアニメから抜け出てきたかのようにそっくりな声音に、丸井が爆笑するまで後三秒。その隙を狙ってパンに食いつき、約四割をさらって仁王が逃亡するまで、後五秒。その日の立海大付属中学三年B組の始まりは、それは騒々しい幕開けだった。
何じゃ、中身は餡子じゃなくてチョコか。
2010年5月1日