怪談学園(2)
放課後、4時30分7秒。部活のない日はいつもさっさと帰宅する日吉をはじめ、二年生テニス部正レギュラーの三名は二年B組の教室に集まっていた。理由は単純。回し読みが終了し、ついに決行されることになった「怪談学園名所巡り」のためである。制服姿の日吉と鳳と樺地は、来るべき時間を待っていた。つまりそれは異世界への扉が開く、夕方4時44分44秒である。
「・・・・・・アーン? 何やってんだ、おまえら」
珍しく樺地を迎えに来たらしい跡部が、ひとつの机を囲むようにして座っている三人に呆れた顔をする。怪談学園を体験するんです、と日吉が返せば、跡部はさらにその表情を呆気に変える。付き従うべく立ち上がろうとした樺地を手のひらを返すことで押さえ、いい、と被りを振った跡部はにやにやと揶揄するように目元を緩めた。日吉は眉間に皺を刻む。
「付き合ってやれ、樺地」
「ウス」
「日吉、鳳。人面犬に遭ったらちゃんと報告しろよ」
「・・・はい」
「お疲れ様です、跡部部長。また明日!」
鳳が爽やかに挨拶すれば、跡部はふっと笑って二年の教室から去っていった。部室で部長としての雑務をこなすのか、それとも生徒会室で生徒会長として責務を果たすのか、もしくはさっさと帰宅して両親の仕事を手伝うのか、あるいはトレーニングジムに立ち寄り自主練習に精を出すのか。跡部の放課後の過ごし方など到底想像も着かないが、とりあえず彼の登下校がロールスロイスによって行われていることは氷帝学園の常識のひとつである。
「・・・・・・跡部部長、人面犬を知ってたな。あの人も『怪談学園』を読んだのか」
「あ、そうか。『そこにいるひと』も読んだのかな。・・・泣いたのかな、跡部部長も」
「・・・そろそろ、時間、です」
「よし、行くぞ」
「ほ、本当に行くの?」
「何言ってんだ。怪談は自分で体験するからこそ意味があるんだろ」
鞄を置いて、携帯電話と報道委員に支給されている使い捨てカメラだけをポケットに押し込み、立ち上がる日吉の表情はそれこそ遠足出発直前の子供と同じだ。対する鳳は徐々に顔色が悪くなり始め、大きな身体が丸まってきている。樺地は常と同じように静かで変化はなく、ふたりについて教室を出た。向かうのは交友棟の三階、大鏡。
氷帝学園の敷地は広い。ゆとりある建物の配置がされており、都内の一等地にありながらも狭苦しさを感じないように配慮がなされ、特に放課後の部活の時間ともなれば校舎内で生徒同士が擦れ違うことなど決して多くはなくなってしまう。本館から渡り廊下に向かう三人は、まさに図られたように誰とも会うことがなかった。窓の向こう、グラウンドでは走っている陸上部の姿が見えるというのに、校舎内では吹奏楽部の奏でるトランペットの音さえ聞こえない。足音だけが響き、会話がなければ無言は静寂に取って代わる。ううう、と鳳が心中で呻っても、前を行く日吉の足取りは決して止まることがない。むしろスキップ一歩手前ですらあった。
「口裂け女の対処法は、ポマードだよね・・・?」
「ああ、それが有効とされているな。ポマードの何が効くんだか知らないが」
「日吉、携帯置いてくれば良かったのに・・・! それ、絶対にメリーさんからかかってくるよ!」
「だとしたら録音するに決まってるだろ。着信音に設定してやる」
「俺、絶対かけないから! 日吉に電話なんか一生かけない!」
ぎゃあぎゃあと喚いていれば、階段なんてすぐに登りきってしまう。交友棟の三階から四階へと続く、その間にある踊り場。天井近くに設置されているステンドグラスは、夕陽のオレンジ色を浴びて神々しくさえ見えてくる。しかし、その、下。ごくりと鳳は唾を飲み込んだ。
鏡は確かにとても大きく、鳳と日吉と樺地が横に並んでも三人の全身を余すことなく映すことが出来る。一体誰が磨いているのだろう。埃ひとつ、傷ひとつついていない表面は吸い込まれそうなほどの艶やかさだし、鏡だなどと無粋なことを言われなければ、きっと神秘的な何かだと信じただろう。縁取りは細かく、美しい細工がなされている。その端は壁とひとつになるかのように、校舎へと繋がっている。
「よし、そろそろだな」
日吉の声さえ廊下に響くようで、それでいて鏡に消えていくかのようだ。知らず鏡に意識を奪われていた鳳は、はっとして隣の日吉と樺地を見た。ポケットに入れていたのか、日吉は手鏡を取り出している。手のひらサイズのそれは決して大きくない。かといって女子のように大きな鏡を持ち歩く日吉というのは想像できない。手首の腕時計を外し、日吉はそれらを右手に纏めた。合わせ鏡は二枚の鏡を向かい合わせにし、その合間に自分を映さなくてはいけない。大鏡に背を向けた日吉にならい、鳳も身を返すが、銀色に輝く表面の見えなくなったことが唐突に酷く不安に感じられてしまった。徐々に心臓の音が大きく波打ち始める。小さな手鏡に三人を映すため、もっと寄れ、と日吉が右から押してくる。樺地が左から添ってきたため、鳳は身を縮めざるを得なかった。それでも制服越しに感じるふたりの存在が、酷く頼もしく感じてしまったのは彼だけの秘密だ。
「4時44分44秒まで、あと一分」
手鏡の横で、日吉の腕時計が確実に秒針を刻んでいく。「怪談学園」は、委員会の仕事で放課後に居残りを命じられた男女が、荷物を運んでいる最中に合わせ鏡をしてしまうところから始まる。女子生徒がインカメラの機能で、己の髪の乱れをチェックした。それがたまたま踊り場の大鏡の前で、女子だけでなく男子までもが映し出される画像に入り込み、そして秒針が4時44分44秒を告げてしまったのだ。ぐにゃりと床が歪んだり、鏡から出てきた手に引きずり込まれるようなことはなく、ただ一瞬にしてふたりは反転世界へと入ってしまった。階段を下る間は気づかない。二階に下りて渡り廊下の方へ向かおうとして、初めて慣れ親しんだはずの校舎に違和感を覚える。身体は右に曲がろうとするのに、そちらには壁、廊下は左に。おかしいな、と思いつつ自分たちの教室に戻り、じゃあ帰るかと教卓の上の時計を見上げてふたりはぎょっとする。文字盤の数字がすべて逆に置かれており、何より針は進むどころか一秒ごとに巻き戻っているのだ。何だこれ、と呟いたのは男子生徒で、気味悪い、早く帰ろう、と促したのは女生徒だった。黒板に書かれている明日の日付や日直の名前が反転していることにも気づいたけれど、気づかない振りをする。机の列が乱れるのも気にせず、足取り荒く駆け寄り、教室のドアに手をかけて。
「五」
ばん、と音を立てて横に引いた、その向こうにいたのは、人体模型。動くはずのない目玉と目が合い、失神しなかっただけ精神が強いと言える。ぎょろりと眼球が筋肉の線を見せる瞼の下を動き、半分だけ皮膚の露呈している心臓がありえない鼓動を見せたとき、腰を抜かしかけた男子生徒の腕を女子が引き、もうひとつのドアへと走った。
「四」
逃げ込んだ音楽室では、天井から染み出した血が雨のように降り注ぎ、ピアノの音色を奏でているのだ。ポーンポーンと単調だったそれが「月光」の調べを紡ぎ出せば、背後から伸びてきた手が女生徒の髪を握り込む。痛みに悲鳴を挙げて振り向けば、肖像画から這い出るように身体をくねらせているのはベートーベン。ピアノを弾く指を寄越せ、歌を歌う口を寄越せ、音楽を聴く耳を寄越せ。指がそれぞれを千切らんとする。
「三」
テケテケは事故で下腹部から下を失った亡霊だ。腕だけで這うように移動し、それは足で駆けるよりも断然早い。捕まれば身体を切断され、足を奪われてしまう。新館の一階で遭遇してしまったテケテケに、男子生徒が逃げ切れずに拘束された。どこからか出した巨大な鎌を振り上げ、にたりとテケテケが唇を裂けるほどに笑みにする。その顔を横からモップで殴りつけたのは女生徒だった。柄と繊維の部分を繋ぐ金属の箇所で、彼女は何度もテケテケを殴った。亡霊から更に血が噴出し、女生徒のスカートの色を変える。それでも彼女は男子生徒を守るために、生まれて初めて他者に暴力を振るい続けた。気にしていたのだ。自分が携帯電話を開いた所為で、彼をこんな恐ろしい世界に巻き込んでしまったことを。
「二」
怪談は延々と続いていく。せめて男子生徒だけでも元の世界に戻したいと願う女生徒と、守られるばかりで情けないと思うのに、それでも恐怖を目の前にすると動けなくなってしまう男子生徒と。襲ってくる怪談は束の間の休憩さえ与えてくれない。いつもは笑い合い、楽しく過ごしているはずの学園が、今はどこへ行こうと地獄のように恐ろしい場所へと変わってしまっている。私は帰れなくてもいいから。女子生徒が泣きながらそう叫ぶ。馬鹿、一緒に帰るんだよ。怒鳴って、握った手だけは離さない男子生徒。
「一」
すべての始まりは、この大鏡だ。小さな手鏡と向かい合わされ、無数の回廊が互いに映し出されて永遠に近い空間の中に、鳳はいる。文字盤の上で秒針が、ちり、と動こうとする素振りを見せる。来てしまう。4時44分44秒が。鳳は反射的に、両側の日吉と樺地の腕を強く強く抱きこんだ。
そして、その瞬間がやってくる。
宍戸さん、今日、泊めてくれませんか・・・!? 何だったら俺の家に来てくださっても構いませんから! ひとりで寝るのが怖いんです・・・!
2010年4月25日