そこにいるひと(4)





「これ、これこれこれ! ほんま泣けるんやって! いや、派手な話とちゃうんやけどな? 恋人が病気で余命一年とかそういう話とちゃうんやけど、ほんま普通の話なんやけど、それがえらい泣けるんやって! 普通の女の子と男の子が出会って、恋して、付き合うたりしょーもなくて別れたり、そんでもって再会したりして紆余曲折あって結ばれるまでの話なんやけど、それがほんま平凡な話やのに幸せやったり切なかったりして、何ちゅうかこう、胸がきゅーってなるっちゅうか」
「忍足先輩、気持ち悪いです」
「黙れや、日吉! ああああ叶子、どうしてそこで黙るんや! 建也も阿呆みたいに突っ立っとらんと追いかけんかい! 従兄弟と同じ名前っちゅうのが腹立つわ・・・! あれか、ケンヤっちゅー名前はみんな阿呆か!」
「・・・ぐす・・・っ・・・侑士、下巻どこ・・・?」
「あぁここやで、岳人。これで最終巻やから、ちゃんと頑張って読み?」
「宍戸先輩・・・っ・・・このお話、本当に素敵です・・・! ありふれた生活の中にある、恋とか日常とかが、その人にとっては特別なんだってことが凄くよく伝わって・・・!」
「・・・・・・ほらよ、長太郎。タオル」
「すみません、ありがとうございます・・・っ」
昼休みのテニス部部室は、それはそれは異様な空気に包まれていた。何が起きたといった様子で集まった面々は、とりあえず宍戸が向日からペットボトルとコロッケパンとメロンパンを奪取されるところから始まった。食べながら読み進めようとしたらしいが、忍足が「本を汚すんやない!」と取り上げたため、向日は三分でパンとペットボトル二本を食し、手を洗って拭いてから再び本を開いた。途端にぼろぼろと泣き出し、それでもページをめくる手を休めない様子に宍戸が呆然としていると、遅れて鳳と日吉がやってきた。後輩ふたりは大泣きしながらも読書している向日にまずぎょっとし、次いで目元と鼻の先を真っ赤にしている、如何にも「泣いていました」的な忍足に反射的に引いた。しかしどうしたものかと考えた瞬間に跡部がやってきたため、部室に入らざるを得なくなる。足を踏み入れた跡部は現状に眉を顰め、ふかふかの高級クッションが敷いてある専用の椅子に身を預けた。樺地は背負ってきたジローをいつものように絨毯に寝かせ、とりあえず限られた昼休みをまっとうすべく昼食を広げる。そして始まったのは、忍足による「そこにいるひと」が如何に素晴らしい話かという主張だった。
「上中下の三冊からなっとるんやけど、上巻が中学生のときの話でな、叶子と建也が出会うところから始まるんや。普通に同じクラスになって、普通に親しくなって、そんで周囲の後押しなんかもあって付き合うんやけど、やっぱり中学生やろ? 恋に恋しとるような年頃やし、噂になって照れたりもして、相手のことも思いやれんし、結局卒業と同時に自然消滅を向かえるんや。余裕なくてしゃあないんやけど、好きやなぁって初めて他人に対して思うたりもして、自分のことばっかじゃあかんのやなぁって気づくのも上巻や」
先ほど、とりあえず読んでみ、と向日が読み終えた上巻を押し付けられ、戸惑いながらもページをめくり始めた鳳が、今やその本の虜となっている。時折ぐすぐすと鼻をすする音がして、その度に宍戸がタオルやらペットボトルやらを近くに置いてやっている。ちなみに日吉はそんな同級生を華麗にスルーし、母親手製の和食弁当を摘まんでいる。
「で、中巻は大学生編や。高校は別々に進んだ叶子と建也が大学で再会するん。最初はめっちゃぎこちないし、建也には年上の彼女もおったりして気まずくて、まぁせやけど付き合うてたのは昔の話やし、ちょっと複雑やったり独占欲がちらついたりするんやけど、今は友達やーって互いに割り切ろうとするんや。そのうち叶子にも彼氏が出来たりして順風満帆なんやけど、気兼ねなく話せるのがそのうち互いだけになってしもうて、就職の話とか恋人の愚痴とか言い合うて、どんどん距離が縮まっていくん。せやけどお互い恋人もおるし、親友やって自分に言い聞かせて毎日を過ごしてくんや」
「別に普通の話だな。それなのに何でおまえも岳人もそんなに泣いてんだよ」
「宍戸、自分も読みぃや! 読めば分かる! 大学生編は互いのこともちょっとは気ぃ使えるようになるけど、今度は就職やら何やらで大人の仲間入りせなあかんのやで? 今度は別の意味でいっぱいいっぱいや! 不況の折、就職口なんや見つからんし、叶子は優秀やから大手企業に決まるんやけど、健也は見つからんくて焦って叶子に八つ当たりまでする始末や!」
「うわああああああっ! 忍足さん、言わないでくださいよ! 俺まだ上巻を読んでるんですから!」
「おわっ! すまん、鳳!」
泣きながら訴える鳳に、真面目に謝罪する忍足。宍戸は人が好いので付き合ってしまっているが、日吉だけでなく跡部は完全に右から左へ受け流している。食べているのはカフェテリアのAセットだ。スープとパンとサラダにメインディッシュと軽いデザートがついたホテルのレストランにも引けをとらない豪華メニュー。もちろん味も三ツ星レストラン並みで、跡部の舌すら満足させるほどのシェフが学園には揃っている。
「下巻はな、社会人編で」
「わーわーわーわーっ! 言うんじゃねーよ馬鹿ゆーし!」
「・・・・・・社会人編でな、地方に行ってた叶子が帰ってきて、久し振りに会うところから始まるんや。離れとった間はメールのやり取りだけで、会うのは数年振りや。せやけど緊張したりドキッとしたりなんかはもうないんやな。お互い仕事や対人関係で毎日を過ごすのに精一杯で、恋とかそんな余裕ないねん。せやけどいつしか疲れたときとか嬉しいときとか泣きたいときとか、そういうときに一番に会いたいんは互いやなぁって思うようになって、ゆっくり気持ちが向かい合ってくんや。正面から叶子は建也の、建也は叶子の良いところも弱いところもちゃんと分かって、あぁこれが好きってことなんやろうなぁ、って気づくんや。言葉にはせえへんけど、手ぇ繋ぐラストとかほんま感動もんやで! おまえら良かったなぁ、って俺思わず言うてもうたし! 人として成長したふたりが、いつでもそこにおってくれたなぁって互いに気づくとことかほんま泣けたわ・・・。ティッシュ一箱使い切ったで」
「アーン? 部の備品だぞ。ちゃんと買い足しておけよ」
小声で下巻の内容を語りきり、思い出したのか再び忍足の目から涙が溢れる。眼鏡は邪魔だと判断したのだろう。今日の忍足は最初から裸眼で、感じていた違和感はこれだったのかと宍戸は納得した。ぐすぐすと向日と鳳が泣いている。中巻が今のところ誰にも手に取られずテーブルの上にあるが、まさか真ん中から読み始めるわけにもいかない。パンを食べ終え、宍戸はとりあえず興味本位で手を伸ばした。茶色のブックカバーは忍足の私物だ。ぱらりと開けば、タイトルの「そこにいるひと」という文字が見える。途中を吹っ飛ばして奥付を眺め、宍戸は目を瞬いた。
「何だ? これ、文芸部が書いた本なのか?」
最後のページには著者名である「」と、発行所に「氷帝学園中等部文芸部」の文字がある。発刊されたのは昨年の九月で、著者名のところに二年A組と括弧書きがあることから、つまり一年後の今、このなる人物は中等部の三年になっており、宍戸たちと同学年であるらしい。しかし名前に聞き覚えがないためクラスメイトではないのだろう。Aセットを食べ終えた跡部が、優雅に口元を拭って会話に参加してきた。樺地は食後のコーヒーを用意している。
「文芸部は学期ごとに本を作るのがしきたりになってるな。どうせその本も、去年の一学期・二学期・三学期と連続して発刊されたものだろう」
「何や跡部、さすが生徒会長やな! そんで? この本、文芸部に行けば買えるんか?」
「アーン? 部活動の一環だぜ? 文化祭以外で金銭のやり取りは禁止だ。印刷所に頼んでるなら、それなりの部数は刷ってるだろう。直接文芸部に聞くんだな」
「ほな行ってくるわ!」
「待て待て待て、忍足! おまえ、その顔で出歩く気か!? 女どもがめちゃくちゃ騒ぐぞ!」
財布を掴んで走り出そうとした忍足を、宍戸は慌てて止めた。泣いていました、とまざまざと語る顔で校舎内を闊歩してみろ、蜂の巣を突いた騒ぎになるのは目に見えている。何しろ男子テニス部レギュラーは氷帝内で大学部から幼稚舎まで広く知られており、そしてまた人気も高いのだ。ワイシャツを引っ張る。忍足は「離せ宍戸!」と踏み出そうとする。このままでは間違いなくシャツが破れるだろうと思っていると、忍足の後頭部にファイルが見事ヒットした。投げたのは跡部の指示を受けた日吉らしい。眉間に皺を刻みながら、樺地からコーヒーを受け取っている。
「各部室には電話が取り付けてある。昼休みに部員がいるかどうかは保証しないけどな」
「っ・・・跡部! 自分、ほんまええ奴やな! さすがキングや!」
「ふん、当然だろ」
絨毯に横になっているジローの頭にファイルは落下していたが、それぐらいで目覚めるような性質をしていたらテニス部はもっと上手く回っている。ぐうぐうと眠ったままのジローからファイルを奪い、今度はスキップでもしそうな足取りで忍足は備え付けの電話に向かった。昼休みはまだ十五分ほど残っており、この輪を抜けて教室に戻るのもなんだかなぁと考えて宍戸は途方に暮れる。その間に忍足はさっさと内線を回していた。通話音量が大きいのか、相手の出た音が宍戸の耳まで聞こえてくる。
『はい、文芸部です』
「あ、すんません。文芸部が出しとる本のことでちょお聞きたいことがあるんですけど」
『それでは部長に代わりますのでお待ちください』
女子生徒の声が遠ざかり、がさごそと音がして別の気配が近づいた。
『はーい、氷帝学園文芸部部長、花園でーす。お昼休みに一体何の御用でしょう?』
残り時間少ないんで手短にお願いしますねー、と軽やかに告げてくる声は高くて、れっきとした女のものだ。部活のときにフェンス越しに鈴なりになっている女子たちを思い出し、宍戸は僅かに顔を歪める。けれど忍足はそんなものどこ吹く風らしい。
「ああ、三年H組の忍足や。昨日図書館で『そこにいるひと』ちゅう本を借りたんやけど、これは文芸部の発行なん?」
『「そこにいるひと」! そうですよーうちの部員が書いた本です。面白かったでしょ? 素敵だったでしょ!』
「めっちゃ感動したわ! こんなええ話書く奴が同学年におるなんて知らんかったわ。って何組なん?」
『今はB組ですねー。でも本人に直接アタックするのは止めてくださいねー。作家はデリケートなもんで、「何でこのふたりをくっつけてくれなかったの!」とか直に言われたりすると結構落ち込んじゃったりしますから。ファンレターや差し入れは大歓迎ですけど。で、ご用件はなんざんしょ? まさかクラスを聞くのが目的で?』
「あーちゃうちゃう。あんな、この本、手元に一冊置きたいんや。こんなに泣いて、こんなに心に響いた本は初めてや。せやから俺のバイブルにしとうて」
『あーそれはすみません。「そこにいるひと」はもう配布終了しちゃったんですよー。元が限定三十部の印刷ですし、特には固定ファンもいますからあっという間で』
がーん、と昔ながらのコントで現すのなら、タライが忍足の頭を直撃したような状態だろう。うきうきと期待に満ちていた背中が猫背もびっくりなくらいに丸まった。長めの髪がうっとうしそうに肩を流れて、ぐす、と今度は別の意味で忍足が泣き出し、宍戸は呆れる。
「そ、そうなんか・・・。もう、な、ないんやな・・・? 一冊もないんか・・・?」
『一冊はありますけど、これは文芸部の保管用ですから。後はあれですねー。欲しい人から先着順に配ってるんで、ゲットした人に譲ってくれないか交渉するくらいですかねー』
「増刷の予定は? あれだけの本や、欲しいちゅう希望者は俺以外にもおるやろ!?」
『あははー残念ながら文芸部はテニス部ほどの予算をいただいてないもので、そんな余裕はないんですよねー。もしよければおたくの部長さん兼生徒会長さんにお願いしてくださいな。文芸部の部費上げてって。そうすれば「そこにいるひと」も増刷できて、忍足君も万々歳!』
キーンコーンカーンコーンなどと一般染みたものではない、氷帝学園のためだけに作られたクラシック音楽の一節を思わせるチャイムが昼休み終了十分前を告げる。電話の向こうでも「そろそろ戻る?」やら「その前にトイレ寄ってー」などという会話が聞こえてくる。あー俺もそろそろ戻るかな、と宍戸はゴミを片付け始めた。大泣きしながらも本から目を離さない向日は、間違いなく午後も授業を欠席するつもりだろう。忍足は言わずもがな。上巻の中ほどまで読み進め、タオルを握り締めて鼻の先を真っ赤にしている鳳も、このまま授業に出れるはずもない。体調不良で保健室に行っているとフォローを入れておくか、と考えた宍戸はやはり人が好かった。
『じゃあそんな感じなのでー。また何かあったら連絡くださいな。ちなみに文芸部が今まで発刊した本は全部図書館にありますから、今後ともどうぞご贔屓に!』
「あああ、待ってや! 『そこにいるひと』を貰った奴のリストとかくれへん!?」
『個人情報なので無理ですねー。それじゃーまたのお問い合わせをお待ちしておりまーす!』
ご愛読ありがとうございましたー、と言うが早いか、がっちゃんと音を鳴らして通話が切られた。発刊した本は三十冊。氷帝学園の生徒は中等部だけでも千五百超。単純に考えて五十分の一の確率だ。二クラスにひとり、いるかいないか。そう考えると意外と数打ちゃ当たるかもな、と宍戸は考える。ツーツーと無機質な音を繰り返すばかりの受話器をそっと下ろし、忍足がゆっくりと振り向く。真っ赤で腫れぼったい目はテニスの試合のときのように真剣で、しかしまあものの見事に宍戸には次の展開が予想できた。忍足の目はただひとりしか見ておらず、他など目に入ってない。薄い唇が意を決して開かれる。
「跡部・・・! 頼む、文芸部の部費あげてくれへん・・・!?」
「馬鹿か、てめぇは」
土下座までしての必死の願いは、跡部によって一蹴された。何でやーと騒ぎ出す忍足で部室が一気にうるさく、宍戸は堪らず深い溜息を吐き出してしまった。日吉が弁当箱を片付けてさっさと立ち上がる。
それは氷帝学園男子テニス部で、の名が一躍有名になった日だった。





すみません、先生。部室で昼飯食ってたんすけど、鳳は調子悪そうだったのでそのまま保健室に行かせました。
2010年4月22日