そこにいるひと(3)





向日岳人の携帯電話が着信を知らせたのは、三時間目の授業が始まる直前だった。小腹が空いたので女子から貰ったキャラメルをもぐもぐと咀嚼しながら携帯を開けば、そこにあるのはダブルスパートナーである忍足の名前。学内で電話をかけてくることなど滅多にない相手に、向日は首を傾げながらも通話ボタンを押した。というか電話するより直接来いよ、というのがクラスは違えど同じ階にいる者の言い分である。
「ゆーし? 何だよ。何かあったのか?」
何だよ、がキャラメルのせいで、にゃんだよ、になった気がしたけれども気にしない。しかし電波の向こう側にいるはずの相手は沈黙しており、時間だけが過ぎていく。ますます向日が首を傾けていると、ようやく反応があった。
『っ・・・がく、と・・・?』
「―――侑士!?」
すすり泣くような声で名前を呼ばれて、思わず椅子を鳴らして立ち上がってしまった。途端にクラスメイトから何事かと視線を向けられ、向日は何でもないと手を振ってカーテンに包まるようにして隠れ、小声で携帯電話に話しかける。
「侑士、何だよ! どうした!?」
『岳人・・・っ・・・あかん、もう、俺はあかん・・・。どうしたらええのか分からんのや・・・!』
「馬鹿、何言ってんだよ! 今どこにいる!? 学校か?」
『部室や・・・』
「分かった、すぐ行くからな! そこにいろよ、動くなよ!」
『せやったら飲み物買うてきてくれへん・・・? ペットボトル、五本くらい』
「五本かよ! 後で金払えよな!」
反射的に突っ込みを入れつつ通話を切り、鞄の中から小銭入れを取り出して教室を飛び出す。氷帝は基本的に子息子女ばかりが通っているし、向日だって授業をさぼることなんて滅多にしないが、ダブルスパートナーの危機ならば話は別だ。途中で三時間目の担当教師と擦れ違ったりもしたけれど、向日は全速力で廊下を駆ける。目指すは購買、そしてテニス部正レギュラー専用の部室だ。
時間にして五分かかっただろうか否か。最先端の認証キーにパスワードを入力して扉をぶち開けた向日が見たものは、五人掛けのソファーに身を投げ出すようにして横になっている忍足の姿だった。レギュラーの前でもだらしない様子を見せたりしない忍足のはずが、一体どうした。椅子を蹴散らして近寄れば、片腕を目元に押し付けるようにして顔を隠している。絨毯の床に散らばっているのは、空になったペットボトルと携帯電話、そしてタオルとテニスバッグのみだ。うんともすんとも言わない忍足に、向日の方が泣きそうになってしまった。とりあえずスポーツドリンクやらオレンジやらウーロン茶やらのペットボトル五本と小銭入れをテーブルの上に置く。床に膝をついて、そっと忍足の肩に手を伸ばした。
「侑士・・・?」
ワイシャツ越し、いつものテニスウェアより少し薄い生地を通して、筋肉の振動が伝わる。子供を撫でるように、向日はぽんぽんと忍足の肩を優しく叩いた。ほんの僅かに忍足が身動ぎして、そのことにほっとする。
「なぁ、何があったんだよ? 授業にも出ないで。侑士らしくないじゃん」
「・・・・・・すまん、迷惑かけて」
「馬鹿、そう思うなら今度奢れよな。そうだな、カフェのアフタヌーンティーセットだな!」
「それ、デザートのフルコースやん」
忍足の唇が笑みを形作って、そのことに今度こそ向日は安堵して肩を落とした。絨毯に胡坐をかいて座り込み、空のペットボトルを分別用ゴミ箱に向かって放る。難なくシュートしたそれを見送り、向日は再度ソファーの忍足に尋ねた。今度は多分、ちゃんと答えが返ってくるだろうと思ったのだ。
「なぁ、侑士。どうしたんだよ?」
問いかけに言葉はなく、けれど反応は返された。どうやらもう片方の腕に抱え込んでいたらしい本を目の前に突きつけられたのだ。黒い皮のブックカバーは忍足が愛用しているものだと知っている。
「読んで」
「は?」
「何も言わんで、とにかく読んでや。ほんまええ話やから」
ぽん、と手に本を握らされて、ええーと愚痴らなかった自分を向日は褒めてやりたかった。試しに開いてみたが、並んでいるのは文字ばかりで挿絵すらない。向日が好む本といえばもっぱら漫画ばかりで、小説なんて国語の教科書くらいしか読まないことを忍足だって知っているだろうに。やだ、と押し返したかったが、腕を退かした隙間、どれだけ泣いたのか赤い眼で睨むように見つめられ、向日は渋々最初のページをめくった。タイトルは「そこにいるひと」。著者、
これより約二時間後、宍戸亮の携帯電話が着信を知らせる。校内にいるのに電話かけてくんなよと思いながら応じた宍戸は、「亮、ペットボトル十本買ってきて・・・! 俺と侑士の昼飯も頼む・・・!」という本気泣きの向日に、全力ダッシュで購買を経由してテニス部部室へと向かった。そんな彼の様子が後輩である鳳に目撃され、日吉に話が行き、樺地から跡部へと繋がって、昼寝の場所を求めていたジローも拾われ、結局その日の昼休み、テニス部部室には正レギュラー全員が揃うことになったのである。





にゃんだよ向日の選んだ飲み物→アクエリ・ウーロン・オレンジ・カフェオレ・コーラ。
2010年4月22日