そこにいるひと(2)





朝の山手線は地獄だ。七時から八時にかけての通勤時間など、とてもじゃないが現世とは思えない。乗車率など軽く120パーセントを超え、どうしたって定員数の限界だろうにまだまだとばかりに人が押し詰められるのだ。ドアが閉まりさえすればいいというその考えは、どこかスーパーの詰め放題を髣髴とさせる。つまりはじゃがいもも人間も、それほど大差ないということなのかもしれない。
そんな押し合い圧し合い朝っぱらからテンションが下がる不愉快とやり場のない怒りだけが篭る車内で、とある女性はパンプスのヒールに思い切り力を入れ、周囲の人並みに押し流されないよう全力でその場に立っていた。吊り輪は先着順のため握ることが出来ず、彼女にとっては己の両足だけが自分を支えるすべてのもの。ああ、このままだとまたヒールが折れて修理に出さなくちゃいけなくなるかもしれない。むかつくむかつくむかつく。眉間に皺を寄せるが、昨今の進化した化粧品はファンデーションを崩さない。痴漢されてないだけまだましと思え、と自分に言い聞かせ、彼女は鞄を抱き締める。そんな彼女の前には車内における勝者、つまりは座席を獲得し、座ることの出来ているひとりの少年がいた。
上からのアングルでも分かる、端正な顔立ちの少年だ。否、少年というよりも青年かもしれない落ち着いた雰囲気は、この殺伐とした車内で一際浮いている。ある種清涼剤のような働きをしている少年に、彼女は周囲の現状も忘れてほわっと見入ってしまった。朝からいいもの見たわー、とおっさんのような考えをしてしまったのは、彼女だけではないのだろう。サラリーマンに混ざってちらほらと存在するオフィスレディたちは、少年を見つけては険しい表情をほのかに緩めて、時に頬を染めたりしている。
知らぬところで戦う女性陣の癒しとなっている少年は、足元に大きなバッグを抱え込みながら、膝の上で小さな文庫本を開いていた。黒い皮のブックカバーがかかっているためタイトルは分からないが、厚さはそれなりにあり、ちらりと上から覗き込めば細かい文字が行儀良く並んでいる。丸眼鏡の奥の瞳を眇めて、少年は静かに文章を追っている。視線が右から左にかけて動き、節くれだった長い指がページをめくり、そしてまた繰り返す。読書に没頭している少年は周囲に気を配っておらず、ここぞとばかりに彼女はその容姿を堪能することにした。別に痴漢しているわけでもなし、この満員電車の中でこれくらいの楽しみは許して欲しい。しかし次の瞬間、彼女はぎょっとした。マスカラとアイライナーで強調された目を思い切り見開いた。
「・・・っ・・・」
目の前の少年の瞳から、ぽろっと涙が零れたのだ。なだらかな頬を伝って、鋭い顎先から離れた雫が少年の制服のズボンへとしみ込んでいく。驚いたのは彼女だけではなかったのだろう。隣で居場所を奪い合ってぎりぎりと鞄の押し合いをしていた中年サラリーマンも、ぎくっと肩を震わせた。遅ればせながら気づいたらしい、少年の隣に座っている男もぎょっとしている。その間もはらりはらりと少年は涙を流し続け、周囲は徐々にざわざわと居心地悪くさざめいた。開いていたページに栞を挟み、少年は一度本を閉じて膝に置く。自身の丸眼鏡を外して、ワイシャツの袖口で乱暴に目元を拭うと、涼やかな目尻が僅かに赤く染まった。うわぁ素顔も美少年、と女性が心中で感嘆していると、眼鏡をかけることは諦めたのだろう。少年はつるを折り、眼鏡を胸ポケットに引っ掛けた。そこに縫い付けられている校章は都内屈指の名門校のもので、うわぁ、と再度彼女は感心した。そうこうしている間にも少年は再び本を開き、文字の世界へと入り込んでいる。しかしページを三回めくるよりも早く、その瞳からは新たな涙が溢れ出した。またしても周囲は少年へと注目してしまう。
「あかん・・・! 何で、何でこんなに幸せなのに泣けるんや・・・っ! 普通、やけど、それが何やもう・・・あかん・・・っ」
呟いた声も低音で、実に耳に残る艶めいたものだった。彼女はうっとりと聞き惚れてしまったが、少年はそれどころではないらしい。ぐす、と鼻をすすっては涙を拭い、赤い目でまた本を開こうとするけれども、「あかん、読めん、読みたいけど読めん」などと言って本を閉じ、がっくりと項垂れている。関西弁かぁ、初めて聞いた。彼女がそんなことを考えていると、車掌のアナウンスが次の駅の名前を告げた。記憶が確かなら、少年の通っている学園があるのは次の駅のはずだ。ということは少年が降りると前の席が空いて、座れるかもしれない。ぎらっと彼女が目を光らせると、少し離れた場所にいたらしい少年と対になるような制服を着ている女の子が、項垂れている少年の肩をちょんちょんと突いた。顔を上げた少年に、女の子は一瞬びくっとしてから真っ赤な顔で告げる。
「あ、あの、忍足君、次降りなきゃ・・・」
「・・・・・・すまん。俺、もうちょい乗ってくわ」
「え。学校どうするの?」
「堪忍な」
少年は軽く女の子をあしらって、また顔を俯けた。座席が空かないことを知って彼女は残念に思ったけれども、あしらいの上手さにもてそうだもんなぁ、この子、と納得する。電車がホームに滑り込み、片側のドアが開くと雪崩のように人が動き始める。少年と同じ制服を着た男女も何人か降りていき、そしてまた新たなサラリーマンたちが乗ってきた。乗車率は少し下がったのかもしれないが、相変わらず押し合い圧し合いの波は続いている。朝の通勤ラッシュは地獄の戦いなのだ。隣の中年男の爪先をパンプスのヒールで踏みつけてやろうかと思う。ちっと行儀悪く彼女が舌打ちしていると、少年は再び本を開いた。そしてまた泣き出す。涙を拭う。本を開く、また泣き出す、涙を拭う。時々呟く。
見目麗しいけれども何だか不思議な光景は、新宿に着いて彼女が降りるまで止むことなく繰り広げられていた。サラリーマンにさりげなく肘鉄を繰り出し、下車しながら振り返れば、やはり少年は座席で本を開いている。あの子どこまで乗っていくつもりだろう。そんなことを考えながら、彼女は定期入れを取り出した。体力を八割消費した気もするが、一日はまだこれからなのだ。東京なんて過疎化してしまえとヒールを鳴らして、彼女は勤務地へと繰り出していく。





忍足君は上巻を読み終わるまで、山手線を三周したそうです。
2010年4月22日