『俺の通っている大学付属の病院に、忍足って医師がいる』
携帯電話越しに、ナツメがそう告げる。
『腕は確かだし院内ではそれなりに権力もある。出身は関西の姉妹病院で、この春からこっちに転任してきた』
この春から、忍足も東京に出てきた。
『患者の評判は上々だけど、良くない噂も立ってる』
兄はここで少し言いよどんで。
『・・・・・・忍足医師は家庭をまったく顧みないで、外に愛人を作っているらしい』
22:彼の劫火
「俺の親父は、そりゃあ嫌なヤツやねん」
穏やかな、至って平気そうな顔で、忍足は話す。
その横顔が自分と同じ中学一年生には見えなくて、は項垂れて下を向いた。
屋上のコンクリートが視界一面に広がる。
「仕事ばっかで家に帰ってくることなんか滅多にあらへん。月に一度会えればええ方や。家とは別にマンション借りとって、一度行ってみたことがある」
俺が小五のときや、と告げて。
「そしたらな、でかいベッドで裸の女が寝とった」
父親のいるべきマンションで、ベッドに寝ている女。
それが分からないほどに忍足は子供でなかったし、頭のどこかでそれを予想していた自分もいた。
だから、妙に冷めた気持ちでそれを見たのを覚えている。
やっぱり、とあのとき言葉にしていたのかどうかさえ。
それすら覚えていない。どうてもいいことだから。
切り捨てた。すべてを。
「跡部はそんな俺の親父にソックリなんや」
青空に忍足の声が融ける。
仕事ばかりで、自宅に寄り付かず、外に女を囲う父親。
さっさと別れれば良いのにそうしない、日々を受身に過ごすだけの母親。
憎しみ以外の何を抱けと?
――――――だけど、本当に嫌いなのは。
そんな親でも、離れられない自分。
「跡部が親父と違う人間やっちゅうことは分かっとる。せやけど、拙いねん。アイツ見とるとホンマに苛つく」
吐き捨てるような様子は心底不愉快そうで、けれど紛れもない素顔で。
先ほどの笑顔よりもこっちの方がいい。はそう思う。
「この前の試合でアイツに負けて、それで親父にも負けた気ぃして。違うっちゅうのは分かっとるんやけど、どうも気持ちの整理がつかへん」
「・・・・・・」
「他人を見下しとるとことか、人を人とも思ってへんとことか。ホンマにソックリで」
そんなことない、と言おうして顔を上げる。けれど言葉にすることは出来なかった。
見上げた忍足の顔が、ひどく歪んでいたから。
「・・・・・・何でやろなぁ」
涙さえ流れない壊れた顔に、心の奥がキリキリ痛んで。
「何で俺、こないなんやろ・・・・・・」
零れるような呟きも、この虚ろな笑みにも覚えがある。
悲しみも怒りも悔しさも、すべて隠して押さえ込んで。
いつかの自身と同じように。
笑うしか、出来なくなってしまった顔。
あのとき、解放してくれたのは榊だった。
だから、今度は。
「――――――忍足!」
自分を見上げて、他人事なのに泣きそうな顔をしていたがいきなり叫び、名を呼ばれた忍足は思わず目を丸くする。
けれど何、と問いかけるよりも早く。
「おまえ、ちょっとそこで待ってろ!」
それだけ言い残してものすごいスピードで去っていく。
屋上にポツンと一人残された忍足は、しばしそのまま固まっていた。
2004年8月14日