には、ナツメという兄がいる。
今年で20歳になる彼はと7つ違い、もうすでに子供というよりも大人に近い。
背は高く、造作が整った顔をしていて、一般的に言う『もてる』部類の男だというのは、身内贔屓を抜きにしても確かだろう。
頭も良く、現在は医大に通っている兄は、自慢にしかならないはずなのに。
は何故かこの兄が大嫌いだった。
「だって性格悪いんだもの!」とは、妹の言い分である。
17:なすすべもなし
「・・・・・・・・・何でお兄ちゃんがいるのよー」
ぶつぶつと呟きながら、はおやつに用意された杏仁豆腐をスプーンですくった。
冷ややかな口当たりに幸せを感じて笑顔になり、けれどそれを兄に見られまいと慌てて仏頂面を作る。
そんな妹の行動もお見通しなナツメは、自分も同じようにデザートを口に運んだ。
「大学が休みだからに決まってるだろ。俺は補習が必要な成績は取ってないしな」
「バイトは? 家庭教師してたじゃない」
「もう辞めた。欲しかったバイクも買えたし」
「バイク買ったの?」
パッとが顔を輝かせる。
「お兄ちゃん、今度乗せて!」
「妹を乗せるシートはあっても、弟を乗せるシートはねぇよ」
「いいじゃない! のーせーてー!」
「あーはいはい、今度な」
「私が家にいる間ね!」
勝手な約束をして満足そうに笑みを浮かべる。
さっきまでの不機嫌な顔はどこへいったのか、表情のクルクル変わる妹にナツメは小さく笑って。
弱風のクーラーによって揺れるの黒髪を眺め、眼差しを少しだけ細めた。
四ヶ月前までは長かった髪が、今ではまるで少年の様。
それを選んだのは自身だけれど、兄としてはやはり心配でしかないわけで。
「で、ちゃんとやれてんのか?」
突然の質問にはパチパチと目を瞬き、首をかしげた後で、ようやく趣旨が分かったのか頷いた。
「うん、どうにか。今のところはバレてないよ」
「嘘つくんじゃねぇよ。バレただろ、一人」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・何で知ってるの」
あまりに確定的に言われて、は驚くよりも先に眉を顰めた。
ナツメは食べ終えた杏仁豆腐の器を、ガラス張りのローテーブルへと戻す。
「興信所に調べさせた」
「な・・・・・・っ!?」
「つーのは嘘で、保険医に聞いた」
簡単に手の内を明かせば、はホッとしたように肩を下ろして。
確かに保健の先生は事情をすべて知っているから、手助けもしてもらっているし相談にも乗ってもらっている。
ジローにバレたことも、ナツメの言うとおり話してあった。
「バレてんじゃねぇよ、バーカ」
「だってあれは」
「言い訳するな。おまえのミスだ」
「・・・・・・・・・はい」
厳しく指摘され、思わず俯く。
膝の上で杏仁豆腐の入った器が、カランと小さな音を立てた。
窓際で揺れる風鈴の音が、涼やかに響いて。
「これからは気をつけろ」
大きな手が、の髪を優しく撫でた。
は、ナツメのことが嫌いだった。
だって彼は背が高くて、何でも出来て、勝手に部屋に入ってくるし、意地悪だから。
大嫌いだと言ったことも、何度もある。
けれどそれは、言葉に出来るほど、大好きだということだから。
頭を撫でてくる兄に、は大人しくされるがままにしていた。
心配されているのが分かっていたから。
杏仁豆腐を食べるのを再開しだすと、烏龍茶を飲んでいるナツメが何かを思い出したようにを見た。
「おい、おまえのところに忍足っているか?」
「忍足? うん、いるけど」
言われて浮かぶのは、氷帝で一番最初に知り合った生徒。
黒髪で眼鏡をかけていて、切れの良い関西弁を扱う、同じテニス部の部員。
今はあっちの方がランクは上だけど、すぐに追いついてやるとは心の中で思っている。
「忍足がどうしたの?」
「いや・・・・・・そいつ、出身は?」
「たぶん、京都だと思うけど」
「フルネームは?」
「忍足侑士」
そこまで答えさせると、ナツメは急に黙って何かを考えるように視線を横に走らせる。
は何故兄がそんなことを言い出したのか分からなくて問いかけた。
「ねぇお兄ちゃん、忍足がどうかした?」
「・・・・・・何でもない。きっと人違いだろ」
「人違いって何が?」
「何でもねぇ。さっさと食わないと杏仁豆腐、俺がもらうぞ」
「やだ! っていうかお兄ちゃん、忍足が何なの?」
「はい、もーらい」
「―――・・・・・・あ――――――っ!」
宣言どおり一瞬の隙で、の手の中にあった杏仁豆腐はナツメの胃の中へと消えてしまった。
ゴクンと飲み干す喉と、空になってしまった器だけがの前に残って。
「・・・・・・・・・お兄ちゃんの・・・」
ふるふると小刻みに揺れる拳に、第二波が到来する。
「お兄ちゃんのバカっ! 大っ嫌い!」
悔しそうに睨んでくる妹に、兄は楽しげに笑った。
2004年5月26日