ちょうど、先輩に頼まれた書類を職員室に出しに行った帰りだった。
頼んできた先輩は一軍の選手で、けれど気さくな性格から多くの部員に慕われている。
現部長とは親友関係にあるらしく、副部長が存在しない氷帝テニス部の、けれど紛れもない統率者の一人。
はその先輩の優しさや気配りを好意的に思っていたから、すぐにその申し出を引き受けた。
次の大会のための公式欠席届けを手に職員室へ行き、提出し、一礼してからドアを閉めて。
部室に戻ろうと昇降口に向かった際に、彼がいるのに気づいた。
「・・・・・・・・・ジロー?」
振り向いた相手は、いつになく穏やかに笑っていた。
11:酷暑
外履きに履き替える一段あるところに腰掛けたまま、上体だけそらしてジローが笑う。
は手早く上履きを脱いで、テニスシューズに足を突っ込んだ。
「何してるんだよ。もう部活は終わっただろ?」
「んー。なんか向日たちが遊んでるから逃げてきた」
「? 遊んでるなら一緒に遊べばいいのに」
「でも水のかけあいっこだったし。俺、濡れたくないもん」
水の掛け合い、という言葉には自然と目を細めて。
「今日は暑いし、気持ちいいんじゃないか?」
「でもヤダ。ビショビショになるし、濡れたら着替えなくちゃいけないし、そんなの大変」
いつもは楽しいことを見つけたら子犬のように走っていくジローの、らしくない言葉。
は驚いたように目を瞬き、彼が立ち上がるのを黙って見つめた。
静かな昇降口は、一歩外に踏み出せばすでに夏の香りを感じられる。
光の射す道を眺めて、ジローは続ける
「このままが帰ってきたら、きっと向日たちにまきこまれるから、それだけは避けなきゃって思って」
「避けなきゃって、何で?」
まだ七月前だというのに夏が来たかのような暑さに、正直、はうんざりしていた。
だからちょっと水を被るくらいはしても良いかもしれない。そう思ったのに。
「ダメだよ」
ジローは笑って。
「だっては女の子なんだから、行っちゃダメだよ」
いつのまにかこちらを見ていた彼は、まるで初めて見る相手のように、の知らない表情をしていた。
心臓が音を立てた。
最初にドクンと大きく、そして常より早い鼓動を刻んでいく。
震えそうになる手を握り締めることで堪える。
動揺してはいけない。
シラを、切らなければ。
「――――――何、言って・・・・・・」
笑おうとしたら、引き攣ったようになってしまった。
落ち着け。深く息を吸って、そしてもう一度笑う。
今度はちゃんと笑えた。これはもうの意地が勝ったようなものだった。
「何言ってんだよ、ジロー」
「俺さ、見ちゃったんだよね」
「だから、何」
「の家のトイレに、女の子の・・・・・・生理用品っていうの? が、あるの」
少し言い辛そうにジローが言葉をつづり、はカッと頬を赤らめた。
握る拳に力がこもり、爪先が皮膚に食い込む。
「最初は、お手伝いさんのかと思った。でも、お手伝いさんのそーいうのが置いてあるのって変だし。それには一人暮らしだから、おねーさんとかお母さんとかもいないはずだし」
耳から入ってくる言葉が死刑宣告のよう。
「それから、注意して見てたら、が体育の前に着替えるときとか、部活のときの着替えとか、絶対に俺の近くにいないことに気づいて」
それは見せられなかったから。
絶対にそんなことは出来ないから。
「変だなって思って、この前教室から出て行くの後をつけた。・・・・・・ごめんね?」
謝るようなら最初からするな。
そんな怒りだけがの中を駆け巡って。
「そうしたら、が特別教室棟の保健室に行くのが見えて、それで、俺」
噛み締めた唇が破れそうなほど痛い。
「・・・・・・・・・見ちゃったんだ」
が着替えるところ、とジローは言った。
ベストを着用しているとはいえ、万全であるわけがない。
着替えは事情を知っている保険医のいる特別教室棟第二保健室で済ませ、トイレもその近くを使っている。
特別棟は人が来ることが少ないから。
だから、油断していた。
これは、自身が招いたミス。
言い訳はどこまで可能だろうか。
どこまで彼を騙せるだろうか。
がそう決めて挑むように口を開いたとき。
「俺、のこと友達だと思ってるし、もっとずっと仲良しでいたいって思ってるから。だから」
小さな呟きが響く。
「・・・・・・もう、嘘つかないで・・・?」
まるで泣きそうな顔でジローが言うものだから。
一瞬心を震わせた後で、は悟る。
誤魔化すことは、もう、出来ない。
夏が来る。
2004年4月29日