思い出の時間
一目見た瞬間に分かった。これは、出来る女だと。
「僕は浅野学秀」
「私は。よろしくね、浅野君」
「ああ、よろしく」
入学式前のホームルームで、指定された席順が隣同士だった。小学校を卒業したばかりで幼さの残る子供たちは、それぞれ新しい環境に緊張したり、変にテンションを上げたりと浮ついていて、そんな空気が浅野は馬鹿らしかった。けれど、隣の席に座った女生徒は違った。ちらりと垣間見た横顔は落ち着いており、美人だな、と思ったのは記憶に新しい。彼女は浅野の視線に気づくと目尻を下げて微笑んだ。その瞳に理知的な色を見たからこそ、浅野は先に名を名乗った。挨拶を綴る声を聞いて、いいな、と思った覚えがある。
と名乗った少女は、浅野の見立て通り出来のいい生徒だった。会話のひとつひとつから、それが分かる。大人びていて、物静かで、けれどそれが無理のない自然体で、一緒にいて心地よい。A組に選ばれるだけあって頭の回転が速く、尚且つ教科書だけの学習ではなく幅広い知識を多分に蓄えている。会話のセンスが良い。レスポンスが速い。声も耳触りが良くて、おまけに可愛い。当たりを引いたな、と浅野は席順を決めた担任を心中で褒めてやった。
入学式に始まり、新入生歓迎会。これからの授業が学校生活における注意点など、オリエンテーションで三日が潰れた。そして土日休みを挟んで六日目。全国屈指の進学校、椚ヶ丘中で初めてのテストが行われる。この実力テストは、範囲は受験のときと変わらない。ならば何故するのかというと、理由は簡単、序列を明らかにするためである。椚ヶ丘中は成績がすべてだ。だからこそ最初の段階で一位から最下位までを明らかにする。そしてE組に落とされないよう誰もが努力するようになるというシステムだ。
「緊張するね」
「全力を出し切れば問題はないさ」
浅野にはトップに立つ自信があったし、隣席のもそれに近しい成績を取るだろうという確信があった。それだけ出来る女であると理解するには、最初の三日で十分だった。並んで実力テストを受けた。
翌日に配布された成績表は、浅野が総合四百八十七点で一位、が四百八十六点で二位だった。
結果に浅野は満足していた。自分の成績に対しても、の成績に対してもだ。やはり俺が見込んだだけはある。そんなことを考えながら、浅野はと返ってきた解答用紙を交換して、お互いの記述に意見を交わし合っていた。そうしてが浅野より唯一得点の低かった、数学の回答を見たとき。浅野は今までのすべての考えを翻した。翻さざるを、得なかった。
○でも×でもなく三角で点を引かれている証明は、テスト直前にが完璧に解いてみせた問題だった。数式だけでなく文章の並びも綺麗で正確で完璧だったから、浅野ですら感心した。その証明問題が数字こそ違うもののそのまま出題されていたから、得したと思って浅野はが描いた美しい証明を解答用紙に書き込んだ。だから、この問題を彼女が間違うなんてことは有り得ない。緊張してど忘れ? そんなことをするような女じゃないと知っている。
つまりはわざとこの問題を間違えたのだ。己の意思で。何故か。浅野が問い詰めれば、は困ったように小首を傾げて答えた。
「一位には、私より浅野君の方が相応しいかなって」
だからは自ら間違えて、己の点を落とし、浅野に一位を譲ったのだ。たった、それだけのことで。
抗いがたい憤怒が浅野の身体を埋め尽くした。侮辱だった。一位を譲られたことも、裏を返せば譲られなければ一位を取れなかったことも、自身がそうしたことも、すべてが許し難い所業だった。ふざけるな、と怒鳴ってしまいたかった。そんなこと誰も頼んだ覚えはないと。実力で取ってこその意味があるというのに。自尊心を踏み躙られた。馬鹿にされた。最高だと思った女は、真実最低の女だったのだ。
対等だと認めた相手に、そうされたのが屈辱だった。は浅野のことなんてどうでも良かったのだと暗に言われた気がして、この一週間足らずの日々が心地良さから一転して憎悪の対象となった。そんな態度が表に出てしまったのだろう。忌々しげにを睨み付ける浅野に気づき、担任教師が問いかけてきた。
「あ、浅野君、さんがどうかしたのかな?」
「・・・いいえ、別に。何でもありません」
声音から完全に感情を隠し切れなかった己は幼かったのだろう。あるいは、それほどまでに我を失っていたのか。刺々しい言葉になってしまったことに浅野が気づかない間に、担任は動いた。当時の担任は椚ヶ丘中に配属となって数年のまだ若い男であったし、浅野は理事長の子息であるから尚更気を使われていたのだろう。少年から少女への嫌悪を読み取った担任は、浅野のご機嫌を取るかのように、にE組行きを宣言した。実力テストでカンニング行為を行ったという言いがかりを押しつけて。
言い訳も弁解も許されることなく、が新しいロッカーに収めていた荷物を纏めてA組を去ったことを浅野が知ったのは、実力テスト翌日の朝だった。紙切れ一枚が、ただ隣の席に置かれていた。この学年初めてのE組落ちの生徒の噂が広まるのは速かった。何だこれは。浅野は爪が食い込むほどに強く手のひらを握り締めた。
こんなこと、彼は望んでいなかった。悔しくて、本当に発狂しそうなほど怒りが渦巻いたけれども、それでも。次のテストでは見返してやると、自力で勝利し見せつけてやると、ただそれだけを決意していたというのに。環境は、それすらも許してはくれなかったのだ。
そうして浅野学秀の中に、という傷跡だけが残された。
認めない。好きだったなんて、絶対に。
2013年10月21日